一
コンビニのATMは月末になると列が出来る。特に新宿の駅から近いこの店は当たり前に数人が並んでいた。
早くしてくれ。帰っちゃうだろう。
一秒が長く感じられる。早く金を下ろさないと、せっかくのチャンスが失われてしまう。出さないように努めて冷静を装っても、しかめ面になっているに違いない。
店内のこの場所からは外は見えない。もしかしたら、既に呆れて帰ってしまっているかもしれない。手に握ったスマートフォンを何度も確認しても、サイネージは光らない。
本物だよな。これは夢ではないよな。
限界に来ている焦りが、意識を現実から逃避させようとしている。いや、これは現実で、実際に目の前ではっきりと話をした。イメージと違う彼女の発言に戸惑いはあっても、夢にも思わなかったこの機会を逃したくはない。
やっと自分の番になった。震えている手でカードを挿入口にいれる。学生の身分で経験のない金額を下ろす背徳感。明細を見るような親ではないが、何か騙されていないかと心配されるかもしれない。それは自分も考えているから。
数分前の出来事だった。
憧れだった人が目の前に、本当に来てくれた。胸は高まり、目の前の存在に視線はくぎ付けになった。
身長は百五十センチ後半と小柄で、運動をしている体は細身だが引き締まっている。二重の目は笑うと細くなり、いつも真面目な表情が一転して幼く笑う姿にいつも心が動揺したかのように高まる。首元まで伸びたショートボブの黒髪は、進学後に少し茶色に染めていた。
「こんにちは」
コートで躍動する姿を遠くから見ていた自分に、まさか笑顔を向けるなんて。
「あ、あの・・・」
「ははっ、緊張しないでよ。今日一日、よろしく」
そう言って笑うと、軽くお辞儀をされた。高校のバスケ部のキャプテンで、県内でも注目選手になっていた存在。同じ年に生まれた人間という以外に共通点がないので、何を話していいかわからない。
「そうだ。まず聞いておこうかな」
飾り気のない白いスマートフォンに目を移しながら、彼女は呟いた。
「今日いくら持ってきているの」
表情からは笑顔が消えて、真面目な表情で画面を見ている。最初は聞き間違いかと思ってしまった。
「ごめん、聞こえなかった。今いくら持っているの」
今度はこちらに視線を向けた。苛立っているようにも見える。
「えっと、三万円ほど・・・」
「少な・・・憧れの人に会えるのに、それしか持っていないの」
人が絶えず流れる繁華街で、二人だけに流れる静寂。まるでここだけ遮断された世界のように、二人は固まった。
足りなかったのか。
大学に進学して、週三回ほどのアルバイトで溜まったお金を持ってきた。しかし、彼女は幻滅している。やはり、このクラスになると金がかかるものなのか。
「まあ、いいや。それなら・・・」
「おろしてきます。待っていてください」
彼女の反応を待たずに、コンビニへ一気に走り出す。この時間を逃したくない。彼女のイメージとの乖離はひとまず置いて、全力で走った。
流れる汗は走った体のほてりと高額紙幣を下ろす冷汗が入り混じっている。十万円を下ろすと、ガサツに財布に入れて再び走った。
よかった。
彼女の姿が確認できて、安心した。まだスマートフォンを見ている。もしかしたら、彼氏と連絡しているのかもしれない。よからぬ気持ちで胸が締め付けられる。
「すみません、お待たせして」
「いえ、そんな・・・そこまでは・・・いや、早く行きましょう」
怪訝そうに眉をひそめたが、息を吐いて歩き出した。なんとなく、発言に一定性がないように感じる。
「あの、どちらに行くのですか」
「喉が渇いたから、少し休憩」
ゆっくりとした足取りで向かったのは、喫茶店ではなくハンバーガーのチェーン店。慣れたように一番小さなアイスティを注文すると、こちらに視線を向ける。合わせるようにアイスコーヒ―を注文してお金を支払った。それを持って席を探したが、休日の昼と会って座れずに外に出る羽目になった。
「頂きます」
ミルクも入れないストレートのアイスティを美味しそうにストローで飲んでいる。会話の流れであれば、もっと高いものを注文されると構えていた。
「座りたかったなあ。少し疲れた」
「すみません・・・」
満足させられずにいる自分に腹が立つ。もっと慣れた男なら、彼女が思った以上のプランを提示して、今頃笑顔にさせているはずなのに。
「いちいち謝らないの。話しにくいよ」
不機嫌そうに目を細めた。理想とは真逆の展開。そもそも、理想などはなかった。
彼女、堀之内ひまりはバスケットボールで大学推薦をもらって、某有名大学へ進んだ。彼女に憧れていた人間としては同じ大学に進学したかったが、一般入試では無謀すぎて都内の大学に収まった。それでも、彼女が進学した大学の試合にはこっそりと顔を出していた。
初めて見たのは高校三年生のタイミングで、友達に誘われて見に行った試合で一目ぼれをした。既に学内で表彰を受けていたので、彼女のことは知っていた。学年問わず人気があり、好きな女子の話題では必ずトピックスに上がる常連。しかし、彼氏の話題はほぼ聞いたことがなかった。
コートを縦横無尽に駆け回る姿から目を離せなくなった。周りに目を配り、気が付けば誰もいないスペースに回り込んでパスを受ける。ルールも良くわからないが、うまいのだけは明らかにわかった。そして、得点が入ると見せる笑顔に心を打ちぬかれた。
それ以来、誰に言われるのではなく、時間があればひっそりと会場の隅の席で彼女を追うようになった。学校では自分のような人間が話しかけるなんておこがましいと思い、同じ学年でも彼女とは接触しなかった。周りは彼女の話をしていても自分にとっては神のような存在で、とてもではないが好きなんて言葉を口にすらできなかったほどだ。
そんな雲の上の存在とまさかの機会は突然訪れた。同じクラスの女子から突然、ひまりが会いたいと言っていると連絡が入った。だまされているのかと疑ったものの、電話で同級生と話して今回の日程を告げられたのだ。
同級生もなぜこちらが誘われたのか分かっておらず、お互いに疑問を持っていた。ただ、軽いお願いではなく、強く彼女が求めてきたので連絡をしたのだと話していた。
「ねえ、ルールを決めましょう」
「ルールですか・・・」
「うん。せっかく私に会えたのだから、もっと喜んでほしい」
文字に起こすと、えらく自信過剰な物言いだ。
「だから、まずは敬語禁止。呼び方も決めようかな。そういえば、名前は・・・」
「勝又達樹」
「じゃあ、たつきだね。私のことは、ひまりでいいから」
「いきなり名前は・・・」
「・・・そうか。じゃあ、勝又君ね」
わがままな物言いではあっても、直ぐに訂正をしてくる。否定されると耳まで赤くなる程度に赤面する理由はまだわからない。
いつもこうなのか。
慣れているようには見えないぎこちなさは抜けないが、目の前の女性が尊く、すべての疑問よりもっと彼女を知りたい好奇心が勝る。
「ありがとうございます」
「だから、敬語は辞めて。次に使ったら、今日は終わりにするよ」
「ごめん。わかった」
「わかればよろしい」
謝ると、彼女の表情が緩む。どこを歩いても人が途絶えない街をゆっくりと進む。彼女の声は透き通っていて、こんなに雑音の多い町の中でも耳に伝わってくる。
「さて、勝又君は私のファンだってことでいいの」
「えっと、知っていたのですか」
驚きと共に、恥ずかしさがこみあげてくる。憧れの人に気付かれていたのに、嬉しさよりも気恥ずかしさで胸が痛い。
「うん。よく応援に来てくれていたのは知っている。誰なのか知りたかったけど、あの時はわからなかったの。最近絵里奈に会った時に偶然この話をしたら、同じクラスの勝又君かもしれないっていう話でさ」
「ごめん。勝手にいつも見に行って」
「応援に来てくれていたのに、謝るのはおかしいでしょう。それに、あの時の・・・いや、その話はいいか」
また反射的に謝ったが、彼女は自分の話で精いっぱいだったのか気が付かずに流した。
「とにかく、今日は応援の感謝を込めて私からのファンサービス。それで呼んだの」
試合の時にチームメイトに見せる表情だ。初めてこの距離で見ると、えくぼが出来て普段よりも幼く見える。ケラケラ笑う姿にまた一段階惚れそうになった。
やはり、この人は女神だ。
「ありがとうございます。いや、ありがとう」
「こちらこそ。そういえば、ルールの続きね。ファンサービスだけど、今日は私の行きたいところ、したいことを優先的にやってもらう。それでいいかな」
ファンサービスとは一体。そんな疑問が頭をかすめる。
「何も考えずに来たので、その方がありがたい」
「じゃあ、まずはこの服を変えたいなあ」
この日はダークグレーのパンツに、ボタンレスの白いシャツという女子大生の標準的な服装だった。
「狙っている服があるから、買いに行こうよ。さっき、お金下ろしたよね」
ねだっているにしては強い言い方で訊ねた。断る気がないが、まだ彼女を知らない分不安な気持ちになる。黙って頷いた。
「じゃあ、ついてきてね。今日はよろしく」
すっと踵を返すと、彼女は自分勝手に新宿の街を歩きだした。




