第3話 あの娘にこんばんわ
静まり返った病室には、規則的な機械音だけが鳴り続けていた。
総合病院の終末期病棟。天井の白い蛍光灯は、どこか冷たい。
空調の風にそよぐカーテンが、かすかな音を立てるたび、私はこの“死の待合室”にいることを実感する。
季節は初夏だったが、毛髪が抜け落ちた頭皮を撫でる風は、どこまでも寒かった。
カレンダーには、誰のものかも分からない手で、赤ペンで書き込まれた「入試」や「デート」の文字が残っている。
だが、それは私には関係のない世界だ。
制服を着て、友達とくだらない話をして笑い合い、部活帰りにコンビニでアイスを買って――
そんな、誰もが当たり前に持っている日常は、私にはもうない。
髪は抜け、肌は青白く、体には幾本もの管が繋がれている。
鏡を見る気も起きなかった。
家族は、病状の進行と共に、次第に面会の頻度を減らしていった。
友人たちは、最初の頃は励ましに来てくれたが、次第にそれもなくなった。
「ねえ、もう泣くのもやめたの?」
ふと、そんな声が聞こえた。
私は目を上げた。
――誰かが、そこにいた。
病室のベランダ。
立入禁止のプレートを無視して、細身のシルエットが月光に照らされていた。
金色の髪が風になびき、夜の静けさと調和している。
彼女は、制服――ブレザーをまとっていた。けれど、その存在感は異質だった。
まるで“月の女神”が現実に降り立ったかのように、美しく、儚げで、非現実的だった。
「誰……?」
私の問いに、少女は微笑んだ。
そして、細く白い指を、こちらに差し伸べる。
「ねえ、契約しない?」
「けいやく……?」
「うん。あなたの生活を色づけてあげる。楽しく、鮮やかに。だけど――」
言葉を区切ると、彼女は少しだけ、切なげに笑った。
「それは一年だけ。一年経ったら、その体……私にくれる?」
私は、断る理由を持っていなかった。
もう何も失うものなど、なかったから。
そして――一年後。
私は今、病院ではなく、自分の部屋にいた。
ベッドは普通の寝具になり、点滴の音もない。
白い壁紙の部屋、飾られた小さな植物、写真立て。
たった一年でも、世界はこんなにも変わるのだと思った。
「こんばんわ」
彼女は、再びやってきた。
あの夜と同じように、月明かりを背にして。
金色の髪、変わらぬ制服姿。
ただ、その瞳の奥に、何か切ないものをたたえていた。
「出かけようか。今夜は月が綺麗だよ」
私たちは、並んで夜の公園へ歩いた。
虫の音が涼やかに響き、街灯のオレンジが地面にやわらかく滲んでいる。
月は冴えていて、彼女の髪を銀に染めた。
ベンチに座り、彼女がぽつりと呟いた。
「一年、どうだった?」
「……素敵だったよ。本当に、ありがとう」
「そろそろ……体、くれないかな」
私は、少しだけ笑って、うなずいた。
「うん。でも……その前に、少しだけ、お話しない? 恋バナとか」
彼女は目を丸くしたあと、ふわりと微笑んだ。
「恋バナ? いいね。それ、私も好き」
「明け方まで、話していい?」
「もちろん。最期の夜だもの。とことん、語ろうよ」
そうして、私たちは語り合った。
恋の話、未来の夢、好きなアニメ、忘れられない音楽、好きだった人の名前……。
夜は静かで、時間はゆっくりと過ぎていった。
やがて空が白み始めた頃、彼女は私の手を取って、優しく、静かに告げた。
「さようなら――私の色づいた一年」
目を閉じると、そこには、あたたかな光だけが残った。
そして、少女は静かに姿を消す。
ただ、月だけが、その夜の記憶を見下ろしていた。
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