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20_可能性

▪️第四章-3

 車が木馬座のある路地に近づいた時、小津は窓の外に見える空気の色が変わっていることに気づいた。

 夜の街灯に照らされているはずの路地の奥が、赤く揺れている。最初は工事灯かと思ったが、すぐに違うと分かった。光の揺れ方が不規則で、建物の壁や電線に反射しながら強弱を繰り返している。


「赤井さん、あれ……」


 小津が前方を指差すより早く、赤井は車の速度を落とした。


「まずいですね」


 その声は落ち着いていたが、車内の空気は一気に変わった。

 目的地の雑居ビルに近づくにつれ、赤い光の正体がはっきりした。三階の窓から炎が吹き出している。窓枠の一部はすでに黒く焼け、ガラスは割れていた。炎は室内から外へ押し出されるように揺れ、煙が上階の壁を伝って昇っている。

 消防隊も今到着したようで、ホースから勢いよく水を噴出するところだった。


「嘘でしょ……」

 後部座席のナギサが低い声で言った。

 赤井が路肩に車を停めると、小津はドアが完全に開く前に身体を外へ出そうとした。雨がまだ降っていて、アスファルトには水が溜まっている。だが雨の量よりも火の勢いの方が明らかに強く、ビルの正面付近には熱気が広がっていた。


「如月さん!」


 小津が前のめりになり反射的に走り出そうとした時、その腕を赤井が掴んで制止した。


「小津君、近づきすぎてはいけません」

「でも、如月さんが中にいるかもしれないんですよ!」

「いないかもしれません。どちらにせよ何も確認せずに飛び込んではいけません」


 赤井の手に込められた力は強かった。小津が振りほどこうとしても、たぶん無理なほどに。声を荒げていないがいつもの丸みはなく、そこで動けば力ずくで止められると分かる力だった。

 ナギサも車から降りて、燃えている三階を見上げた。表情は険しい。今にもビルの中へ向かいそうだったが、入口付近に黒い煙が降りてきているのを見て、足を止めた。


「三階……あそこが研究室?」

「はい。たぶん、あの窓の奥です」


 小津は答えながら、午前中に如月と入った廊下の位置を思い出そうとした。喫茶店の横の路地を抜け、古い雑居ビルの階段を上がり、三階の突き当たりに金属扉があった。窓の位置から考えると、燃えているのは研究室の奥側か、隣の部屋を含む範囲だと思われた。


『小津』


 イヤーカフからフレイヤの声が聞こえた。


「フレイヤ、研究室の内部カメラは?」

『応答がありません。研究室内のネットワークは遮断されています』

「それは内部から?」

『不明です』


 その返答を聞いた瞬間、小津の胸の奥が冷たくなった。

 如月本人と繋がらないだけではない。研究室全体が何者かによって切り離されたか、あるいは火災によって通信設備そのものが壊れている可能性もある。


「くそっ……」


 小津は唇を噛み、もう一度ビルを見上げた。

 三階の窓から炎が伸びた直後、室内で何かが破裂する音がした。大きな爆発ではない。だが、金属製の棚か機器が熱で弾けたような音だった。割れ残っていたガラス片が落ち、歩道に散った。


「下がって」


 赤井が小津とナギサの前に出た。

 その動きに迷いはなかった。赤井は燃えている建物を見ながら、入口、非常階段、隣の建物との距離を順番に確認しているようだった。


「赤井さん、如月さんは……」


 小津が言いかけた言葉の続きは赤井にも伝わっているはずだが、すぐには答えなかった。

 赤井は如月が普通の研究者ではないことを知っている。もしかすると赤井なら、如月が何らかの脱出手段を持っている可能性にも気づいているはずのではと考えたが、全ては可能性の話だ。


「今の時点ではわかりそうにありませんね」


 赤井は事実だけを言った。


「ただし、マキ君は自分が狙われる可能性を理解していました。何も備えていなかったとは考えにくい」

「それって、逃げられたってことですか?」


 赤井はゆっくりと首を左右に振る。


「確認できるまでは、希望的観測で動いてはいけません」


 赤井の言い方は冷静だったが、小津を安心させるためのものではなかった。小津が焦って無理に突入しないよう、言葉を選んでいるのだと分かった。

 そう、全ては可能性の話。しかし炎はそんな焦りを嘲笑うようにみるみる手を伸ばして建物を内側から飲み込んでゆく。


「フレイヤ、さっきのメッセージは?」

『如月博士からのメッセージは受信済みです。本文は、《道を捨てず、道標を疑え》です。送信時刻は現在から約三十分前です』


 小津は端末を開いて、メッセージをもう一度確認した。


 《道を捨てず、道標を疑え》


 短い文章だった。だが、如月がこの状況で送ってきた以上、ただの助言ではない。シュラウドの本質に関わる警告であり、如月が最後に外へ出した情報かもしれなかった。


「赤井さん、如月さんは襲撃の後にこれを送ってます。少なくとも三十分前には、何かを操作できる状態だったはずです」

「そうでしょうね」

「だったら、中でまだ――」

「ここで無理に小津君やナギサくんが入れば、助ける対象が一人増える可能性があります」


 その時、遠くからサイレンの音が聞こえた。

 最初は消防車かと思ったが、路地の入口に停まったのは黒い捜査車両だった。後部座席から周防が降り、続いて藤堂が飛び出すように車外へ出てきた。


「小津君! ナギサさんと赤井さんも!」


 藤堂は三人の方へ走りながら、燃えているビルを見上げた。


「この火事って……まさか如月博士の研究室ですか!?」

「えぇ、我々も今到着しました」


 赤井が答えると、藤堂の見るからに焦るような表情になる。

 周防は走ってはいなかったが、歩幅を大きくして近づいてきた。普段の気だるそうな雰囲気はほとんどなく、現場を見る目になっていた。


「状況はわかりますか?」


 周防が短く聞いた。


「到着時点で三階から出火していました。如月さんとは連絡が取れません。ただ、約三十分前に如月さんからメッセージが届いています」


 小津は端末を見せた。

 周防は画面を確認し、すぐに眉を寄せた。


「道を捨てず、道標を疑え……。例の補正ブースターに関係する話か」

「たぶんそうです」

「送信元は?」


『如月博士の通常端末ではありません』

 フレイヤが小津のイヤーカフから答えた。小津は周防にも聞こえるように端末のスピーカーへ切り替えた。

『研究室内の補助端末から、複数の中継を経由して送信されています。送信後、同端末との通信は途絶しています』


「複数の中継を経由?」

「多分、このメッセージを送ったことを悟られないためだと思います。特定の誰かを意識しているのかも…」


 小津が答えると、周防は「なるほどねぇ」と言いながらビルの三階を見た。


「藤堂、周辺の通行人を下げろ。ガラスが落ちる」

「はい!」


 藤堂はすぐに無線を使い、周辺にいる数人の通行人へ離れるよう声をかけ始めた。

 周防はビルの入口に目を向けた。入口の自動ドアは閉じているが、内部は煙で曇っている。階段へ続く通路が見えるものの、奥はほとんど確認できなかった。


「火の周りが早いですね。内側から燃えているようです」


 赤井の言葉に周防は小さく頷きながら、周囲に誰も居ないかをさりげなく見渡す。

 そして、呟くように、しかしはっきりとこう言った。


「赤井さん……ALAで炎を出すことは可能ですか」

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