第七章 1 宿木明日香
店は翌日も翌々日も臨時休業のままで、喫茶宿木が通常営業を始めたのは、新山が襲われてから五日目のことだった。
その頃になると、さすがに新山も退院していて、すでに肉屋も営業を再開している。頭の包帯が痛々しいのは相変わらずだが、取り敢えず、日常回帰といった感じだ。
問題は、喫茶店の方にある。
「オイ、礼子ちゃんが店辞めるって話、マジなのかよ?」
私の横に腰掛け、大鷹が小声で尋ねてくる。ちなみに、マリアは食器洗いをしていて、マスターは別の客と何やら話し込んでいる。こちらの会話が聞こえている様子はない。
「そうみたいね。私も詳しくは知らないけど、今朝、開店前に礼子さんがやってきて、辞めさせてほしいって……」
「理由は?」
「はっきりとは何も。礼子さん、あの落とし穴の事件から、ずっと休んでたでしょ? 体力的にも精神的にも、不安定だったみたい。そんなところに、この前みたいなことがあって――多分、その辺りに原因があると思うんだけど……」
と言うか、それ以外に考えられない。
「マスターは、何て?」
「特に何も。『仕方ないね』って、それだけ――」
「はァ? 引き留めなかったのかよ? 年下とは言え、親の代から働いてくれてた人なんだろ?」
「私に言わないでよ……」
顔を近づけてくる大鷹から、私は身を仰け反らせて距離をとる。
「あの人だって、最近様子おかしいんだから……」
そう。
病室での、新山と刑事たちとの遣り取りを話した辺りから、マスターの様子は傍目から見ても分かるほどにおかしくなった。様々な場所に言って、様々な人に会っているらしいが――日を追うごとに、憔悴度合いが激しくなっているように見える。さすがに、店にいる時は以前と同じように振る舞ってはいるが……。
「それとなくオレが聞いてみっか?」
「普通に聞いたって、絶対に教えてもらえないよ?」
「大丈夫。オレに任せとけって」
軽い口調に一抹の不安を覚えるが、ここは大鷹の言うことを信じ、十年来の親友に全てを任せることにする。
「マスター、ちょっといいか」
客との話が一段落したのを見計らい、手招きして呼び寄せる。
「ん? 会長、どうしたの?」
「お前、最近、何コソコソと調べ回ってるんだよ」
信じた自分が馬鹿だった。それのどこが『それとなく』なのだ。ド直球ストレートじゃないか。
「人聞きが悪いな。コソコソなんてしてないって」
「何でもいいよ。何調べてるのかって聞いてンだ。事件のことか?」
「あのねぇ……」溜息混じりにマスターは答える。「確かに今、僕は色々と調べ回っているよ? 知り合いのつてを頼って、プロの探偵にも動いてもらっている」
思っていたより、本格的な調査のようだ。
「だけど、その結果を皆に話すことはないよ。世の中には知らなくたっていいことの方が多い。誰かを傷つけ、苦しめる真実なら、蓋をして永遠に開けない方がいいんだ」
「そうか? せっかく調べたんだから、明らかにした方がいいと
思うけどな」
「現状のままでいいんだよ。何も知らない方がいい。今のままでいるのが、一番幸せなんだ」
「今のままが一番幸せ? そうか?」
「そうだよ」
「じゃあさ――お前は、何でそんなに辛そうなんだよ」
「……え?」
この質問には、さすがのマスターも虚をつかれたらしい。
「また、自分一人で背負い込むつもりなんだろ? いい加減、やめろよ、そういうの」
「いや、僕のことは、別に……」
「よくねぇ。少なくとも、オレはよくねぇ。お前が辛そうにしてンの見ると、こっちまで辛くなンだよ。オレだけじゃなく、明日香だってそうだ。お前だったら、そんくらいのこと、分かンだろ」
「…………」
「覗くのが辛い真実なら、調べモンなんざやめちまえ。それがイヤなら、オメェの調べたこと、オレらにも聞かせろよ。負担は分散すべきだろ。あ、言っとくけど、傷つくとか苦しむとか、んなモンは聞いた人間が聞いた後で判断することだからな? 話す前から勝手に決めてンじゃねーぞ?」
「大鷹さん……」
馬鹿だし、鈍感だし、デリカシーもないし、定職にもついてなくて、誇れるのは大食いだけという、割とどうしようもない男だけど――やはり、この男はマスター一番の親友なのだ。
「ううん、困ったな……」
眉を寄せるマスター。明らかに、揺れている。
そんなマスターの背中をさらに一押しする出来事が起きる。新山が、店に入ってきたのだ。
「いらっしゃいませーッ!」
威勢のいいマリアの挨拶を無視して、新山はツカツカとカウンターに歩み寄り、バン、と両手をつく。
「新山さん、どしたの? 珍しいね、こんな時間に」
普段、新山が店を訪れるのは二時三時の余裕のある時間帯で、午前中に店に来るのは極めて珍しい。
「今日は客として来たんじゃない。マスターに――いや、翔に、頼みごとがあって来た」
真剣な顔で真っすぐマスターを見ながら、新山は言う。彼がマスターを『翔』と呼ぶのは、何年ぶりになるだろう。つまり、今は喫茶店のマスターではなく、宿木翔個人に用があるということだ。
「……何。改まって」
「お前、最近になって色々調べまわってるって聞いたぞ」
「新山さんも、案外耳ざといねー」
アンタに言われたくないと思うが。
「お前のことだから、すでに色々と分かってるんだろ? 落とし穴の事件のことも、俺が襲われた事件のことも」
「買いかぶりすぎだよ……」
「俺に、教えてくれないか。お前が調べたこと、全部」
「え……」
「俺は、知りたいんだよ。知って、納得したい。それだけだ。だけど警察は信用できない。信用できるのは、お前だけだ。もう、お前しかいないんだよ」
縋るようにして、新山は懇願を続ける。
「この通りだ。頼む!」
ついには、その場で土下座まで始めてしまう。
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ!」
さすがのマスターも驚いている。離れた場所で様子を窺っていたマリアも、慌てて駆けてくる。
「このような所で何をなさってるんですかッ! 他のお客様の迷惑になりますッ! 面を上げてくださいッ!」
奉行所か。
マリアのずれた語彙にツッコミを入れたかったが、すんでの所でとどめておいた。そんな軽い空気ではない。
「頼む、翔! 教えてくれ! そのためなら、俺は何だってする!」
「……分かったよ」
根負けしたらしい。マスターは、項垂れながら溜息を吐く。
「そこまで言うなら、調べて分かったことを、僕の考えたことを、僕が真実だと思うことを――全部、話す。だから、顔を上げて?」
「……ありがとう」
マスターの言葉を聞いて、新山はようやく顔を上げ、カウンターの一つに腰掛ける。床に頭を擦り付けたのか、巻いた包帯が少し汚れていた。
「ただし、聞きたいことと言いたいことが三つほどある。確認が一つ、条件が一つ、お願いが一つだ。いいよね?」
「何だってするって言っただろう」
「OK。まずは確認ね。これはさっき、ここの会長たちにもいったことだけど――僕の話は、沢山の人を傷つけることになる。苦しめることになる。聞いたら、後悔するかもしれない。それでもいい?」
「承知の上だ」
「じゃあ、次に条件ね。全て話すとは言ったけど、取り敢えず、あと一日だけ時間がほしい。色んな所に頼んで調べてもらっていることが全部出揃うのが明日なんだ。その時になったら必ず話すって、約束するから」
「分かった」
「最後に、お願いだけど――新山さん、僕に、本当のことを話してくれないかな」
「…………」
新山は固まったまま、真っ直ぐマスターの顔を見返している。何を考えているか、読めない。
「もちろん、今、この場でなくてもいい。他の人たちも聞いてるからね。閉店後、僕の部屋に来てくれ。そこで全部聞くから」
そこで、マスターの視線が私へとスライドする。
「明日香は、絶対に盗み聞きしないようにね」
「な、何言ってるのよ! 私がそんなことする訳がないじゃない」
どうしよう。自分で言って、全く説得力がない。
「いや、これはホント。そのくらい、私だって空気読むから!」
「新山さんも、了承してくれるよね」
「……分かった。考えを全部話せと先に言ったのは俺の方だ。お前にだけは、全部本当のことを話そう」
「ありがとう」
言ったあとで、マスターの視線が再び私たちの方に移動する。
「明日香や会長にも、話聞かせてもらうから、そのつもりでいて――あと、健太にも話を聞いておく必要があるかもだね……」
言いながら、思案している。
今さら、複数の人間に何を聞くつもりだろう。主要な情報は――警察が非公開にしているモノを除けば――ほぼ共有している筈だ。些細で些末な事柄こそが重要ということだろうか……。
思えば、この十日間、様々なことが起きすぎていた気がする。
食肉センターからブタが二頭脱走したという騒動。
一般市民が通り魔に襲われるという痛ましい事件。
納涼祭で大食い大会が行われるという白井の決断。
新人ウェイトレスである、マリア・ヨークの登場。
路地で起きた、ブタ捕獲用落とし穴の墜落死事件。
身元不明の被害者と、路地から消えた犯人と死体。
通り魔の正体が凶暴化した脱走ブタだという事実。
体調を崩して店を休む礼子と、苦悩している新山。
三つ巴になり、混乱の坩堝と化したブタ捕獲作戦。
そして、廃工場で新山が襲われるという事件――。
何が重要で、何が不要か。
何が因で、何が果なのか。
そもそも、マスターは何をそんなに懸念しているのか。
今までのことをゆっくりと思い出しながら、私の頭は緩慢に回り始めていた……。




