第六章 3 松岡健太
そこには、彼女が立っていた。
「礼子さん……」
高崎礼子だ。驚いた。おれが客として喫茶店に行くことはあったが、礼子が客としてこの花屋に来るのは、これが初めてだからだ。黄昏の路地に佇む彼女は、数日前にコンビニで見た時より顔色が悪くなっているように見える。
「お花、ありますか?」
「あ、はい。そりゃもちろん」
ここは花屋だ。文字通り、花は売るほどある。
「どんな花がいいですかね?」
「マーガレットって、ありますか」
「マーガレット、ですか――ああ、ありますよ」
マーガレットはキク科の多年草で、春から初夏にかけて咲く花だ。季節外れではあるが、今日はたまたま入荷していた。
「一輪挿しにします? それとも――」
「花束にして下さい。あまり派手じゃなくていいんで」
礼子の指示通りに、作業を始める。
「いやぁ、ビックリしたなぁ。いつもマスターの所には納品ついでにコーラ飲んだりしてるけど、礼子さんが個人的にウチの店来るなんて、はじめてですよね?」
「最近、私、松岡さんをビックリさせてばかりいるみたい……」
多分、これで三度目だ。
「いや、それは全然いいんですけど――でも、この時期にマーガレットをブーケで頼むなんて、珍しいですね。今なら、やっぱりヒマワリとかが人気なんですけど」
「マーガレットは、友達が好きだった花なんです」
好きだった、か。過去形だ。
「……死んだんです。その子。私がまだ小学生くらいの時に」
やっぱりか。
「もうすぐ、その子の月命日だったって、フッと思い出して……。薄情ですよね。一番の親友だったのに……」
「そんなものだと思いますよ」作業しながら、おれは語り始める。「よく言うじゃないですか。死んだ人間はそこで時間が止まるけど、残された人間は、生きている限り時間が止まることはないって――いいと思いますよ。悼む気持ちがあるのなら。お盆でも命日でも、年に一回で充分じゃないですかね」
言いながら、出来上がったブーケを礼子の眼前に掲げる。
「ましてや、礼子さんは、そのお友達の好きな花まで覚えている。素晴らしいじゃないですか。きっと、お友達もあの世で――」
「違うんです」
礼子の言葉に、おれは動きを止める。
「そんなんじゃ……。私はそんな、大それたモノじゃないんです」
「いや、そんな卑下しないで下さいよ。礼子さんは――」
「本当にッ!」抑えたトーンで――だけど、どこかヒステリックに、悲痛さを滲ませる声質で、礼子は言う。「私のせいで――全部、メチャクチャになったんです。私なんかがいるから――」
それは、何に対する告白なのだろう。
過去か。
現在か。
詳しく聞いてみたい衝動に駆られたが、礼子はそれより早く身を翻し、さっさと、話題を変えてしまう。
「喫茶店――今日、臨時休業なんですね」
「……ああ、マスターが朝早く出掛けたっきり、帰ってこないんですよね。一人で何をやってるんだか」
何か調べ物をしているのでは、と明日香は話していた。昨日、推理ごっこに興じるおれたちを諫めておいて、自分はこれだ。恐らく、自分たちを傷つけないためではないか、というのも明日香の弁。
――あの人は、何故一人で背負い込もうとするんだろう。
そんな風に、心の中で思う。
「優しい人ですよね。マスターって」
遠い目をして、礼子が言う。
「わざと意地悪を言うこともあるけど、本当は、いつも誰よりも、周りの人のことを考えてる。そういう人です」
ブーケを受け取り、代金を支払いながら、礼子は続ける。
「――私、この店辞めようかと思ってます」
聞き間違えかと思った。あまりにも唐突すぎる。
辞める? 礼子が? あの店を?
――何で。
「……そもそも、私なんかが人並みに働くなんてのが、無理な話だったんです……」
「そんなことないですよっ! 礼子さん、いい店員さんだし、長年頑張ってきてたじゃないですかっ!」
「最初から、間違ってたんです」
話が噛み合わない。
礼子が何を言っているのか、まるで分からない。
「マスターには、お父さんの代から、本当によくしてもらいました。明日香ちゃんも、随分と慕ってくれたし――松岡さんや大鷹さんみたいに、お客さんもいい人ばかりで……」
言いながら、礼子は顔の右半分を歪める。笑ったつもりだろうか。だとしたら、あまりにも下手な作り笑いだ。店では、もっと、自然なスマイルを見せてくれていたのに。
「マリアちゃんも、正直言うと最初は少し心配だったんだけど――こっちがビックリするくらいに覚えがよくて、明るくて一生懸命で――店の方は、私がいなくても大丈夫みたい」
「そんなことないですよっ! みんな淋しがります。マスターも、絶対引き止めますって!」
「……多分、松岡さんとは、これでお別れになると思います。最後にお話できてよかった――」
じゃあ、これで。
おれの制止を無視し、目を伏せたままで、礼子は踵を返す。
「新山さんはっ!?」その背中に、おれは言葉をぶつける。「新山さんとのことはどうするんですかっ!? あの人とも、別れるなんて言いませんよね!?」
一瞬、歩みを止めた礼子だったが――すぐにまた、歩き始める。
おれは、その背中を見送ることしかできなかった……。
「何の話していたんですかッ!?」
「うおおおお! ビックリしたぁ!」
「礼子さん、何の花を買ったんです!?」
いきなり真横から早口の質問を投げかけられ、おれは本当に飛び上がってしまった。声のした方を向くと、碧眼の美女が真剣な面持ちで顔を近付けていた。
「マ、マリアさん!? どこに隠れていたんですか!?」
「落とし穴の空き地です。って、今はそんなことどうでもいいんですよッ! 質問に答えてくださいッ!」
捲くし立てられたおれは、訳も分からないまま、礼子が親友の命日のためにマーガレットのブーケを購入したこと、そして彼女が店を辞めるつもりだということを要約して聞かせた。
「やめるッ!? 何でですかッ!」
大きな目を剥いて驚くマリア。
「いや、それがよく分からないんですよ。無理な話だったとか、間違ってたとかって――」
「ううん? どういうことですかね……」
顎に手を当て、マリアは思案顔。
「それにしても、命日……マーガレット……やっぱり……」
ブツブツと何事か呟きながら、一人で納得している。
「何がやっぱり何ですか?」
「ああ、しまった! こんな所でのんびりしてる場合じゃなかった! すみません! ありがとうございました!」
頭が脚につきそうになる程の深いお辞儀をして、マリアは走り去っていく。何なんだ、今のは。おれは呆気にとられてしまう。
そう言えば――以前、コンビニで働く礼子にたまたま会った時も、店の外にマリアらしき人影を見たような気がする。まるで、礼子の周りをうろついているかのようだ。彼女は、何者なのだろう……。
その後も、接客や配達などの業務をこなしながら、おれはずっと礼子やマリアのことを考えていた。マスターが帰ってきたのは、閉店時刻が過ぎ、片付けをほとんど終えた頃だった。
「遅かったね。こんな時間まで何してたの」
シャッターの前で、おれは質問を投げかける。思いがけず詰問口調になってしまったことに、言ってから気が付く。
「うん――ちょっと、調べ物を、ね」
目を伏せたまま、答えるマスター。頬はこけ、目の下には隈ができている。たった一日で、随分な憔悴具合だ。
「事件は警察に任せるって言ってたよね? 何が、もう事件の話はこの店でしないで、だよ。自分は率先して調べ物してるんじゃん。わざわざ店を臨時休業にまでしてさ」
「――うん」
頷いたきり、何も言わない。いつものマスターなら、いくらでも適当なことを口にする筈なのに、今日はそれもない。
本気で、様子がおかしい。
「何だよ。何か分かったのかよ」
「とんでもないことに、なるかもしれない」
マスターの言葉が、暑く湿った真夏の夜気に染み込んでいく。
「――いや、もうなってるのか……」
「意味分かんないって。分かるように言ってよ」
「僕だって分からないさ……。分からないことだらけだよ。分からないから、調べてるんだって」
「じゃあさ、分かったら教えてくれるの?」
無駄だと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「いや、それは……ちょっと」
「何でだよ!?」
「これは予想だけど――今回の件は、全てを明らかにしたところで、誰も救わないし、救われない。そのくせ、沢山の人を傷つける。多分、このままの状態でいるのが、一番幸せなんだ」
「でも、間違いは正さないといけないんじゃないの?」
「無理だよ。間違いがあったとして、それは僕個人の力ではどうにもならない。そもそも――」
――間違ってると言えば、最初から間違ってたんだよね……。
吐き捨てるように言って、マスターは背中を見せる。
おれは、その背中を見送る。
結局、礼子のことは言い出せずじまいだった。




