プロローグ 魔王は死んだ
天正十年六月。
京の夜空が、赤く染まっていた。
本能寺。
炎は堂宇をのみ込み、梁を焼き、瓦を弾けさせていた。
「信長様は……!」
誰かが叫ぶ。
しかし、その声は炎と怒号の中に消えた。
明智光秀の軍勢が寺を包囲している。
逃げ道はない。
誰もがそう思った。
織田信長は、ここで死ぬ。
歴史は、そう記録することになる。
だが――。
炎の中で、一人の男が倒れた。
信長と同じ衣。
信長と同じ髪。
遠目から見れば、誰が見ても織田信長だった。
男の身体は炎に包まれ、顔は判別できないほど焼けた。
兵たちは叫んだ。
「信長、討ち取った!」
その声を、寺の裏手から聞いている男がいた。
織田信長。
本物だった。
信長は振り返らなかった。
炎を背に、ただ歩いていた。
「天下を取るために、人を殺す必要はない」
隣を歩く少年に言う。
少年は黙っていた。
「人を動かせばいい」
「人を……?」
「そうだ」
信長は笑った。
「人間は、自分の意思で動いていると思っている。だが、その意思すら誰かに作られていることがある」
少年は信長を見上げた。
「では、これからどうするのですか」
信長は答えなかった。
しばらくして、懐から一枚の紙を取り出す。
そこには、いくつもの名前が書かれていた。
徳川。
豊臣。
毛利。
小早川。
そして――織田。
信長は紙を炎の中へ投げ込んだ。
「織田信長は、今夜死ぬ」
「では、あなたは?」
信長は初めて少年を見た。
「私は死者になる」
その目には、炎よりも冷たい光が宿っていた。
「死んだ人間ほど、疑われない」
その夜。
天下を震わせた「魔王」は死んだ。
少なくとも、歴史の上では。
だが本当の戦いは――
この夜から始まった。




