序 名のない騎士
── 名は残らない。だが、向いていた方向だけが。
名は、残っていない。
――そう記録されている。
記録には、
剣を持っていたことと、
世界の方を向いていたことだけが残っている。
それ以上は、どこにもない。
風は、止まっている。
音もない。
夜でもない。
昼でもない。
剣の切っ先が、わずかに地に触れている。
時間は、定まっていない。
ただ、
“後”だけがある。
それより前は、
ここにはない。
すべてが終わった後。
その位置に、
この記録はある。
残っているのは、
事実ではない。
出来事でもない。
ただ、
“向いていた方向”だけだ。
剣を持っていた。
だが、
どのように持っていたのかは残らない。
振るったのか。
構えていたのか。
それは、どこにもない。
ただ一つ、
確定していることがある。
彼は、
世界の方を向いていた。
背ではない。
横でもない。
逸れてもいない。
その方向だけが、
記録に残っている。
名は、いらない。
経緯も、理由も、
すべて削ぎ落とされている。
それでも、
消えなかったものがある。
剣を持ち、
世界の方を向いていた。
それだけが、残る。
それ以外は、
どこにもない。
だが、
消えてはいない。
ここにある。
この記録として。
――残らなかったものが、
なかったわけではない。
確かにそこにあったものはある。
だが、
記録はそれを拾わない。
拾わなかった。
それだけだ。
それで、足りている。
戻らない。
この形は、
すでに確定している。
だから、
名は残らない。
だが、
方向だけが残る。
それが、
すべてだった。
――はずだった。
だが、
わずかに、外れている。




