貢納
視点:代官
貢納で麦を持ち込んできたおにいさん。素晴らしい品質で規定量を収めた彼に代官は追納を求める。
秋の冷えた空気の中に、穀物の乾いた匂いが満ちていた。
代官である私の目の前には、整然と積み上げられた麻袋と、見事なまでに美しい麦の山があった。
私はごくりと喉を鳴らし、目の前にある麦を凝視した。
例年であれば、この時期の広場は地獄のような様相を呈している。男たちが汗まみれになって木の棒で叩き割った麦は、粉々に砕けた藁の破片や、地面の小石、厄介な雑草の種が混じり合い、黒ずんだ泥のようだった。そこから不純物を篩い分けるだけで何日もかかり、検分する私の眉間には毎年深い皺が刻まれたものだ。
だが、どうだ。
目の前にあるのは、一粒のひび割れもなく、土埃すらついていない黄金色の麦粒だけだった。混じり物など一切ない。一体どうやって脱穀すればこのように麦だけを積み上げることができるのか。
私は麦を測るために使っていた桝を置いた。ベルタの家の既定の分量に達したのだ。
ざざっ、と心地よい乾いた音を立てて、混じりけなしの黄金色の麦だけを測り貢納を完了させられる日が来るとは思いもしなかった。
普通はもみ殻や多少藁や砂が混じるものなのだ。余計な嵩増しに加えることは断じて許さないが、すべて取らすような無理難題を課すような真似はしない。
「ふむ」
私は思わず声を漏らし、胸をなで下ろした。
想定通りの量、いや、量もさることながら品質がよい。これほど綺麗な貢納物であれば、領主様へのお注進も文句なしに通る。おにいさんが持ち込んできた奇妙な麦は、疑う余地のない極上品だった。神よ、感謝します。これで今年の査定も何とか乗り切れる。
だが、私の胸のつかえが完全に消え去ったわけではなかった。
喜びの余韻に浸る私もそうだが、おにいさんも静かにその場に立ち尽くしている。表情がわかりにくいがおそらくは貢納が完了したことを喜んでいる顔なのだろう。もしかすると他の農夫たちに私の審査が厳しいから余計にとられるなどと吹き込まれていたのかもしれない。
馬鹿な話だ、農夫が死んで困るのは何もお前たちだけではない。領地の防衛にはどうしても兵站が必要なのだ、この時代に世帯一つが潰れるような無意味な取り立てが許されるはずが無かろうに。
私はゴクリと唾を飲み込み、意を決して彼に声をかけた。
「……その、見事な仕上がりだ。文句のつけようがない。今年の分はこれで完納とする」
私はそこで一度言葉を切ると、わざとらしく大きく息をついた。ここからが本番だ。
「だがな、おにいさん。未納分はどうしても払う必要があるのだよ」
私は木札を持ち出し、昨年のベルタの家の項を指差した。そこには黒々とした文字で、未納分の記録が残っている。
「昨年の分だ。ベルタの親が収めるはずだった不足分が、そのままごっそり欠けておる。お前がこの村に来てから面倒を見ているのは知っているが、税は税だ。本来なら、とっくに法的処置に踏み切っていてもおかしくない案件なのだぞ」
読めるかどうかわからないが、私はきちんと記録を見せてやった。内心では、冷や汗が背中を滝のように流れていた。
頼むから暴動を起こしたり、この村から消えたりしないでくれ。村では、この男が現れてから何かが変わったのだ。あの村の有力農民であるハンスがそれを証明したのだ。全体には及んでいないようだが明らかに生産が向上している。今年急な対応ができたのはハンスだけだろうが、その成功を皮切りに来年はハンスを真似る農夫たちがさらなる生産性向上を実現するのは火を見るよりも明らかなのだ。代官である私にとっても村にとってもここでおにいさんが消えるのは致命的な損失なのだ。
どうにかして落とし所を見つけなければならない。
来期の賦役を少し増やす形にするか、あるいは今年取れたその極上の麦の、一部だけでも追納という形にしてさらに来年に持ち越す形でもいい。私の面子と、やつの生存が不安にならない線で手を打ってくれないだろうか。
ここで反旗を翻されると処罰せざるを得ない。誰が処罰をしたいものか。文句も言わず誰よりも美しい麦を規定量納めるやつが、その能力を反乱に転じさせるような可能性を作りたくはない。
心の中で必死に手を合わせ、祈り、私はやつの出方を伺った。表情の読めないその男は、しばらくじっと私を見つめていたが、やがて静かにうなずいた。
「わかりました。不足分は明日ここに持ってきます。お手数かけますがよろしくお願いします」
「……っ! ほ、本当に……いや、そうか、よろしく頼む」
私はかろうじて代官としての体裁を保ちながらも、内心では安堵のあまり膝が崩れ落ちそうになるのを必死でこらえていた。おにいさんは嘘をつくような男ではない。しかし、昨年の滞納分を納めよというのは、普通に納めるられている農民にとってでさえ、文字通り命を削るほどの重みを持つ。それを嫌な顔一つせず、明日すぐに持ってくると言い切る度胸は一体どこから来るのだろうか。
そして翌日。
約束通り、おにいさんは未納分の麦を詰めた袋を携えて、再び私の前に現れた。
中身を確認すれば、昨日と同様にゴミ一つ混じらない、黄金色に輝く完璧な一級品だった。
私は震える手でそれを検分し、間違いなく規定の量が揃っていることを確認すると、持っていた羽ペンにインクをたっぷりと含ませた。
――「完納」。
木札の該当箇所に、力強く、そして安堵の涙で滲みそうになるのをこらえながら、その文字を書き込んだ。これにて、去年の分も含めて綺麗に貢納を果たしたのだ。
私はペンを置き、大きく息をついた。
代官としての厳格な面持ちを何とか作りながら、私はおにいさんに向き直る。
「これにて、昨年度分および今年度分の貢納、完全に相違なし。ご苦労だった、おにいさん」
「おそれいります」
彼は短く応えると、一礼してその場を去ろうとした。
しかし、数歩歩いたところでふと足を止め、振り返った。その真摯な、しかしどこか読めない瞳がまっすぐに私をとらえる。
「代官様。ひとつ、相談があるのですが」
「ほう、なんだ? 今度は税のことで何か不満でもあるのか?」
私は身構えた。せっかく綺麗に終わった一件だ、また頭の痛い難題を持ち出されるのだけは勘弁してほしい。しかし、おにいさんは静かに首を横に振った。
「いえ、税の話ではありません。塩を、買いたいのです」
「塩、だと?」
私は思わず聞き返した。
塩――それはこの地において、金と同等かそれ以上に貴重な交易品であり、王国の専売に近い管理下に置かれている代物だ。どこの農民も、日々の生活で塩が不足しているのは知っているが、いざ手に入れようとすればなかなか重たい対価が必要になる。
ましてや、今は秋の収穫の真っ最中だ。どの村も、どの家も、一年で最も多くの麦を抱えているこの時期は、見渡す限りに穀物が溢れている。だからこそ市場には麦が満ちあふれ、相対的に麦の価値が最も低くなる季節でもあるのだ。そんな時期だからこそ塩という物はより高価になってしまうのだ。。
塩を欲しがるのは、確かに、これからの冬に向けて肉の保存や食料の加工に塩は不可欠だが、よりによって一番麦の価値が落ちるこの時期に、追納をしたばかりのこの状況でとは。
私は腕を組み、渋い顔を作ってみせた。
だが、同時に頭のなかで猛烈な計算が働く。相手は優良農民だ。塩は私の一存で何ともならないが、やつの麦の品質であればなんとかなるやもしれん。。
私はわざとらしくため息をついてみせ、それからふっと小さく笑ってみせた。
「お前が持ち込んだ、あの昨日の麦、そして今日の追納分の品質を見せた後だからあえて言わせてもらおう。あの出来栄えの麦なら、ただの貢納品ではなくより価値があるものだと言い切れる。お前がどれほどの塩を期待しているかはわからんが悪いようにはならんだろう」
倉庫の一角、私の部下が塩を卸している。私も部下も勝手な真似は出来んが塩を買うための対価がその麦であればおかしな事にはなるまい。
私は塩を買える場所を指さした。
願わくば必要量を手にしてもらい、来年も素晴らしい貢納を期待したい。
次回、塩
【作中技術解説】
マス:当時の農村において、収穫された穀物は重さではなく、容積を表す「マス」という木製の容器で計量されていました。正確な秤がない中、すり切りの厳密さをめぐって代官と農民の間にシビアな駆け引きが生まれるポイントです。
美しい麦の姿:千歯こき等で丁寧に扱われた麦は、無駄な穂の破損が抑えられて禾が残り、小穂の形も美しく整った状態で仕上がります。
農民の死:労働力が何よりも貴重な資源だった当時、農民、耕作地の担い手が病や飢えで倒れることは、そのまま直営地を耕す手や税の収益が失われることを意味します。冷酷な搾取だけでなく、農民に死なれては困るという物質的な利害の一致が、現場のギリギリの生存ラインを支えていました。




