灰かぶり
視点:ベルタ視点
雄臭をしっかり蓄えた雄猪の肉。ハンスや村人が敬遠したその肉を少し焼いて悶絶するベルタ。
なんとか食べられるように処理する話。
大きな、本当に大きな猪だった。
代官様が仕留めたそれを、おにいさんがハンスおじさんに手伝ってもらいながら手際よく解体していくのを、わたしはただ唖然と眺めていた。
次から次へと引きずり出される、赤黒い肉の塊、大きな白い骨、生温かい内臓の数々。
猪の体の中には、これほどまでに多くのものが詰まっているのかと、わたしは途中で恐ろしくなるほどだった。
解体した肉はよいところを代官様に渡した。
それなのに、前にはまだ、見上げるような肉の山が残されていた。
脂身、毛皮、骨、筋。それらがどどんと積み上がっている。
「おにいさん、これ、全部持って帰るの?」
「はい。持ち帰ります」
「みんなは持っていかないの?」
「持っていかないです」
「なんで?」
わたしには理解できなかった。
これは肉だ。貴重な、お腹を膨らませてくれる食べ物だ。それなのに、解体を手伝ってくれたハンスおじさんも他の皆も、いらなそうに首を振って立ち去ってしまった。
「とても臭いです」
おにいさんは、なんとも言えない複雑な顔で眉をひそめた。
臭い肉。そんなものが存在するのだろうか。肉は等しく肉ではないのか。
全て家に持ち帰った後、念のため聞いてみた。
「お肉、食べないの?」
「今は無理です」
「えー?」
わたしは不満を隠さずに声を上げた。せっかくこんなに大きな獲物を手に入れたのに、なぜ食べられないというのだろう。
「こんなに立派なのに?」
「はい。立派でも無理です」
「意味わかんない」
おにいさんはしばらくの間、腕を組んでその山を見つめていたが、やがて諦めたように大きなため息をついた。
「少し焼きます」
おにいさんはかまどから熾火をいくつか掻き出し、外に少し穴を掘っておいてくれた。そしてその上に小さな肉片を直に置いてくれたのだ。
「やった!ありがとう、おにいさん」
おにいさんは頷いて家の中に戻っていった。
お肉は、じゅう、と小気味よい音がして、脂がぱちぱちと音を鳴らした。立ち上る煙を見ながら、わたしはわくわくして身を乗り出した。お肉だ。焼いたお肉だ。絶対に美味しいはずだ。
そう確信していた。……あの煙が、鼻腔を突き抜けるまでは。
「うっ……!」
わたしは息を詰まらせ、その場に固まってしまった。
何だ、この匂いは。臭い。ただの「臭い」という言葉では到底足りない。
じっとりとした獣の体臭と、腐った油のような嫌な匂いが混ざり合い、強烈な刺激となって鼻の奥に容赦なくへばりついてくる。思わず足が後ろへ動いた。
火が通るにつれて、さらに煙が濃くなり、悪臭が増していく。
「くっさ!!」
耐えかねてわたしが叫ぶと、おにいさんは家から出てきてお肉ごと熾火を土で埋めてしまった。
「臭いです」
「なにこれ!? お肉なのに!」
「雄猪です」
「臭い! もう無理!」
わたしはたまらず両手で鼻を覆い、家の中へと逃げ込んだ。少し胃のせり上がるような心地さえした。あんなに美味しそうに見えたものが、どうしてあんな悍ましい匂いに変わるのか、わたしの頭では到底理解できなかった。
しばらくして、匂いは多少薄れていたが、それでもまだ鼻の奥に残る感覚が不快だった。
「これじゃあ、食べられないよ」
「はい。今は無理です」
おにいさんは、再びその山のような肉を見下ろしていた。捨てるにはあまりに多すぎる。だが、このままでは誰も口にできない。
「どうするの?」
「灰をかぶせます」
「灰?」
わたしは少し躊躇した。肉はまだあの忌々しい匂いを放っている。けれど、おにいさんはこの事態を最初から見抜いていたのだ。それでも捨てずに持ち帰ったということは、何か考えがあるに違いない。
おにいさんが包丁を振るい、大きな塊を小さく切り分けていく。それをわたしが運び、おにいさんが指示した場所へと並べる。
用意されたのは、いつもかまどの底から掻き集めていた、真っ白な灰だった。
「肉にまぶします」
「全部に?」
「全部です」
「うわぁ……」
果てしない作業に、わたしは早くも気が遠くなった。量は文字通り山ほどある。
しかし、やるしかない。わたしは小さな匙を使い灰をとり、切り分けられた肉へ振りかけ、揉み込むように混ぜ合わせた。さらに灰を足し、また混ぜる。
絶対に灰を舞わせてはいけないと強い調子で言われたので、慎重に慎重に灰を振りかけて混ぜていく。
何度も、何度もそれを繰り返す。
どれだけたっても、わたしの手はきれいなままで、灰をかぶることなくもくもくと灰をかぶせる仕事を続けている。
「灰を使っているのにきれいなままなのは不思議だよ」
「ベルタはとても上手です」
よく分からないが、おにいさんに褒められたので、わたしはふにゃりと笑った。雑にしようとするとおにいさんの目が光るので仕方なく丁寧にしていたが褒められたのでそれで良しとする。
作業は遅々として進まない。次第に腕が重くなり、肩が痛んできた。それでも、黙々と手を動かすおにいさんの隣で、わたしは懸命に灰をまぶし続けた。
西の空が赤く染まり、周囲に影が伸びる頃、ようやく最後の肉片が灰の中に埋もれた。
「終わったぁ……」
わたしは糸が切れたように、その場にへたり込んだ。全身の力が抜けていく。
おにいさんもまた、腰を伸ばして深く息を吐き出した。
「ありがとう、ベルタ。頑張りました」
その一言で、腕の痛みも少しだけ和らぐような気がした。
おにいさんは、心臓と肝臓を慎重に手に取った。
おにいさんは包丁を使い、心臓の付け根にこびりついた白い脂肪の塊を、肉を削る勢いで徹底的に切り落として捨てた。心臓そのものにも灰汁をくぐらせ、溶けたんじゃないかというくらい洗っていた。
さらに一度煮てお湯を捨てに行って、お水で洗った後、ようやく焼きあがった心臓を、おにいさんはわたしに手渡した。
捨てたお湯は心臓にひそんでいた臭い色をしていたから思わず目を見開いてしまった。
「はい。どうぞ」
わたしは一口、恐る恐る口に運ぶ。
コリコリとした硬い歯ごたえ。噛み切るのに少し力がいる。……臭くはない。けれど、甘い脂の味も、濃厚な肉の旨味もない。
「……ん」
わたしはもぐもぐと咀嚼し、飲み込んだ。
「……硬い。あと、味が……あんまりしない」
「臭くない。ちゃんと、お肉の味がする。これなら……うん、食べられる」
それは「美味しい!」という弾むような感想ではなかった。けれど、ちゃんと食べるには十分だった。
続いて、肝臓の処理が始まった。
今度はもっと大変だった。灰汁に浸けては本当によく洗い、ゆでて捨てて、最後はスイバと一緒にゆでていた。
「はい。どうぞ」
差し出された肝臓は、濃い茶色に変色し、ぼそぼそになっていた。わたしはそれを口に含む。
口の中に入れた瞬間、苦いんだかすいっぱいんだか。その後にくるのは、ボソボソとした土のような食感。
「すっごくパサパサする」
飲み込むのに少し喉が鳴る。鉄の味が舌にまとわりついて、少しだけ胃が重くなるような感覚があった。それでも、あの強烈な臭いはなんとかなっていた。
わたしは水を一口飲んで、喉に詰まった肝臓を流し込んだ。
「まぁ。これなら、血の味がするしちゃんと食べられるよ」
わたしは自分に言い聞かせるように頷いた。
美味しいご馳走ではない。それでも、村の皆が食べられないと置いていったものの中に、こうして食べられるものがあったのだ。
わたしはパサつく肝臓を何度も噛み締めながら、おにいさんの隣で、静かに黙々と食事を続けた。
いつもの水汲み何日分を使い切っただろうか。心臓と肝臓を食べるために水をこんなにも使ったのだ。普通の家だと絶対に無理だ。
目の前には、白く冷たい灰に埋もれた肉の山がある。
この量を腐る前に水で何とかするのは絶対に無理だ。
灰かぶりにしたら不思議と肉感が消えている、これは腐らないのかもしれない。
今はまだ、触ることすら躊躇われる不気味な塊。けれど、おにいさんはこれを捨てなかった。今までだって、おにいさんが触れたものは、誰も見向きもしないようなものでさえ、最後にはよくわからないいいものへと変わったのだ。
この臭い肉も、灰も、きっといつか美味しい食べ物になる。わたしの心には、安心感があった。
最後の肝臓を口に放り込み、その温かさを噛み締める。
その内、あの灰かぶりのお肉の山も美味しくなっていくのだろうか。
きっとそうなると楽しみにしている。
次回、骨炭
【作中技術解説】
雄臭:繁殖期の成育した雄のイノシシ(または未去勢の豚)の肉に現れる、強烈な不快臭。主に精巣で生成される「アンドロステノン(性フェロモン)」や、腸内細菌によって生成される「スカトール」という成分が脂肪に蓄積されることで発生します。加熱すると揮発して強烈な獣臭・排泄物臭を放つため、現代の養豚では子豚期に去勢を行ってこれを防ぎます。村人たちが肉を嫌がったのは、この臭いを知っていたためです。
ハツとレバー:心臓などの内臓(特に筋肉質で脂肪の少ない部位)は、雄臭の原因となる成分が脂肪組織に比べて蓄積されにくく、食用とする手間がやや少ないです。いきなり焼いて食べられる代物ではありません。
遊離脂肪酸の中和:雄猪の悪臭成分、特にスカトールなどは、脂の劣化によって生じる「遊離脂肪酸」と結びつきやすく、これが肉の臭みをさらに増幅させています。アルカリ性の木灰を肉にまぶすことで、この遊離脂肪酸を中和させ、臭み成分ごと脂を肉の表面から引き剥がして絡めとることができます。また、灰が水分を吸い出す脱水効果、および強アルカリによる雑菌の繁殖抑制(防腐)も同時に狙います。




