お湯を沸かして飲む
視点:ベルタ
新しいストーブの上で沸騰した、なみなみと湛えられたお湯。
おにいさんはそこに、森で摘んだ「松の葉」を投げ入れました。
贅沢に薪を使い、わざわざ手間をかけて作る「飲みもの」には、ベルタの知らない理由が隠されていました。
お城が、お家の中でゴーゴーと唸り声を上げ続けている。
外はまだ、雪解けの泥んこ道が凍りつくような寒さだ。ひさしからは氷柱が垂れ下がり、冷たい風が壁の隙間を狙って吹き込んでくる。けれど、この家の中だけは別世界だった。石と粘土で固められた壁からは、お日さまの下でひなたぼっこをしているような、じんわりとした熱が伝わってくる。
お家が温かくなるだけで、こんなに気持ちが楽になるなんて知らなかった。
お父さんとお母さんがいたときも、冬の家はいつも、しんとして冷たかった。朝起きれば水桶には氷が張り、家の中でも肩を寄せ合って震えていた。わたしの指先は、毎年冬になると赤紫色に腫れ上がり、痒くて痛いしもやけに悩まされるのが当たり前だった。
でも今は、隣に座っているだけで凍りついていた心まで少しずつとけていくのがわかる。おにいさんが連れてきた火を食う怪獣は、お家の中から凍えるような静寂を追い出してくれた。
おにいさんは石の筒の上に乗せた土なべを、祈るような、あるいは値踏みするような鋭い目で見つめている。
やがて、なべの中の水がボコボコと大きな泡を立てて鳴りだした。真っ白な湯気が勢いよく立ち上がり、お城が空気を吸い込む勢いに乗って、天井の隅へと消えていく。
村の誰が見ても、もう十分に熱いお湯だ。
けれど、おにいさんはまだ火を引こうとしない。燃えさしを奥へと押し込み、さらに熱を加え続けている。
なべの中で水が狂ったように暴れるのを、おにいさんは厳しい目で見届けていた。それはただ水を温めているようには見えない。まるで水の中に隠れている目に見えない「何か」を、その熱で徹底的に焼き殺そうとしているみたいだ。おにいさんの瞳は、なべの底に沈んでいるかもしれない、わたしたちには見えない敵をじっと見据えていた。
ようやく満足したのか、燃えている枝をそっと引き抜いて火の勢いを弱める。ずっしりと重たい土なべを慎重に火からおろすと、部屋の隅の、少しひんやりとした風が通る場所へ置いた。
わたしは、あつあつのお湯をすぐに飲むのかと思って、空っぽの木コップを両手で握りしめて待っていた。
冬の間は喉が渇いても冷たい水しかなくて、飲むたびにお腹が冷えて痛くなる。だから、こんなに湯気の立つお湯を飲めるなんて、それだけで夢みたいだ。
でも、おにいさんはまたじっと待ちはじめた。
ときどきなべの横側にそっと手をかざして、中の熱さを確かめている。一度触れるのではなく、何度も、何度も、ちょうどいい「時」を待つように。
正直に言うと、何をしているのかわたしにはさっぱりわからなかった。
喉が渇けば、川へ行って流れている水を掬って飲めばいい。わざわざ貴重な火を使って、手間をかけて水を温め、しかもそれをわざわざ冷ますなんて、村の誰もやったことがない不思議なことだ。
「……ん」
なべの熱が少し落ち着いたのを確認すると、おにいさんは昨日あつめた袋の中から「松の葉」を取り出した。まだ青々とした、細長くて尖ったあの森の葉っぱ。村では火を熾すときの焚き付けにするだけで、口に入れるものだなんて誰も思わない。
おにいさんはその葉を、なべの中の熱い水にパラパラと放り込んだ。
その瞬間だった。
お家の中に、嗅いだこともないような爽やかな匂いが一気に広がった。
泥のにおいでも、家畜のにおいでもない。鼻の奥を冷たい風が通り抜けていくような、それでいてどこか甘く、清らかな森の香り。なべの中の葉っぱがお湯の中で踊り、色が少しずつ変わっていくのを眺めてから、おにいさんはわたしのコップにその液体を注いでくれた。
お湯は、ほんの少しだけ透き通った薄い黄色に色づいている。わたしはおそるおそるコップを口に運んだ。
まずは熱い湯気が鼻をくすぐり、それだけで寒さでかじかんでいた顔がふわりとゆるんだ。
一口、飲んでみる。
「……あ」
変な感じ。でも、すごく心地いい。
お腹の中をあたたかい「かたまり」がゆっくりと降りていくのがわかる。村の大人が飲むエールみたいに喉が熱くなるわけじゃないけれど、冬の川の水を飲んだときのような、内側を冷たい刃物で撫でられる痛みもなかった。
おなかの底まで熱が染み渡って、凍えていた身体が内側からとけていく。身体の奥深くにこびりついていた疲れや不安まで、この黄金色の水が一緒に流してくれているみたいだった。
「……ア、タ、タ、カ、イ」
さっきおぼえた言葉を、もう一度つぶやいた。
おにいさんの手元にも同じように湯気の立つコップがあった。その香りを深く吸い込み、一口飲むたびに目を閉じて、何かを懐かしむような顔をしている。
どうして一度ぐらぐらと沸かしてから、わざわざ冷まして葉っぱを入れたのか、その本当の理由はわからない。でも、これを飲むとお腹の調子が良くなるような予感がした。
村では、冬になるとお腹を壊して死んでしまう子供がときどきいるけれど、きっとあの「虫」を、ゴーゴーと鳴る火の力で追い払ってくれたんだ。
最後の一滴まで飲み干すと、身体が驚くほど軽くなっていた。
空になったわたしのコップを見て、おにいさんはふっと満足そうに、少しだけ自慢げに笑った。その笑顔を見たとき、わたしはおにいさんを信じていいんだと心の底から思った。
おにいさんのやることは、どれも村の人たちとは違っている。
けれど、この不思議な飲み物のおかげで、わたしの喉の渇きは魔法みたいに消えていた。喉を通る香りは、雪の下でじっと隠れている春の匂いがした。
火はまだ、お城の中でパチパチと小さく爆ぜている。
あたたかい部屋の中で、おにいさんは昨日拾ってきた石を床に並べはじめた。今度はあの黒くて鋭い石をどうするつもりなんだろう。
わたしはわくわくして、膝を抱えながらその手元をじっとのぞき込んだ。石を手に取るたびに、昨日までは知らなかった新しい物語が始まるような気がしてならなかった。
次回、村長とおにいさん
【作中技術解説】
煮沸消毒: 8世紀のヨーロッパにおいて、生水による寄生虫や伝染病は死に直結する脅威でした。お兄さんが「一度沸騰させてから冷ます」工程を徹底しているのは、ベルタの体内に入るかもしれない菌を死滅させ、新たな感染を防ぐための公衆衛生上の防壁です。
松の葉: 松の葉にはビタミンC、A、Kなどが豊富に含まれています。冬場の新鮮な野菜が皆無な環境において、松葉茶は壊血病を防ぐ貴重なビタミン源となります。
選択的抽出:温度管理。お兄さんが鍋を冷ますのは、成分を「分画」して抽出するためです。沸騰直後の高温では松脂や強い苦味が溶け出してしまいますが、あえて温度を下げることで、ヤニの流出を抑えつつ、熱に弱いビタミンCや爽やかな香りのテルペンだけを効率よく引き出しています。




