完全平面研磨炭鏡
視点:ベルタ
生まれて初めて自分の顔をはっきり見たベルタ。他の人と比べると自分の顔はきれいなことに気が付きます。
おにいさんが、また新しい「わからないこと」を始めた。
小屋の片隅で見たこともないくらいきれいな木の板を撫でている。
その板は、そこらの家を建てるときに使うガサガサの板とは、まるで違っていた。まっすぐで細い線の模様が、上から下まで、ものすごくきれいに並んでいる。おにいさんが時間をかけて薄く削ったその板は、触るとすべすべしていて、なんだか使うのがもったいないくらいだった。
おにいさんはその板を、まるで愛おしいものでも見るようにじっと見つめて、それから、小さく満足そうに息を吐いた。おにいさんの頭の中のことは分からないけれど、きっとその板がすごく気に入ったのだろう。
なのに、おにいさんは次の瞬間、とんでもないことを始めた。
かまどの底から、真っ赤に怒ったようにパチパチとはぜる、熱い熾火を引っ張り出してきたのだ。そして、あんなにきれいだったまっすぐな板を、その火の上にかざした。
じゅう、と煙が上がって、すべすべの木の表面が、見る見るうちに真っ黒な消し炭に変わっていく。
「ああっ、おにいさん、何やってるの!」
思わず声を上げたけれど、おにいさんはやっぱりそのまま続ける。それどころか、板が割れないように、ゆっくり、ゆっくりと場所を変えながら、表面を焼き焦がしていく。
わたしは胸の中で、あーあ、とため息をついた。せっかくのきれいな板なのに。もったいない。
おにいさんは、すっかり表面が真っ黒な炭になった板を火から遠ざけると、優しく息を吹きかけて煤を飛ばした。
それから、あの藁の奥から大事そうに持ってきた、平らな石を地面においた。
何日もかけてゴリゴリやっていた、あの意味不明な、平らな石だ。
おにいさんは、真っ黒に焦げた板の面を、その石の上にぽんと伏せた。そして、いつものように水を少しだけ垂らすと、また、あの音が始まった。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
今度は、前みたいに泥水じゃない。石の周りには、真っ黒な、イカスミみたいな泥水がじわりと広がっていく。おにいさんは、炭の粉で自分の手を真っ黒に染めながら、まるで何か重たいものを計るように、慎重に、慎重に板を滑らせている。
何日も、何日も、仕事の合間におにいさんはその黒い板を摺り続けた。
最初は、ただの消し炭がついた汚れ板にしか見えなかった。けれど、おにいさんが毎日まいにち、少しずつ段階を踏むように、挟む水や砂の細かさを変えていくうちに、音が変わってきた。
ゴリゴリ、という鈍い音が、シャリ、シャリ、という静かな音になり、やがて、スウ、スウ、という、まるで衣擦れのような軽い音に変わっていく。
ある日の夕暮れ。
おにいさんは、小さく砕いたどんぐりの実をいくつか持ってくると、あの黒い板の表面に、力強くゴリゴリと擦り付け始めた。
(あ、どんぐりのお粥を作るのかな?)
と思ったけれど、違った。おにいさんは、潰れたどんぐりから滲み出てくる、ほんの少しの油を板に塗り広げているだけだった。そこに、どこからか集めてきた一番細かい炭の粉をパラパラと落とす。
おにいさんは、自分の親指の腹にその油と炭の粉を直接つけると、板の表面を優しく、優しく、何度も円を描くように擦り始めた。
キュッ、キュッ、と、静かな小屋の中に、おにいさんの指が動く音だけが響く。
外がすっかり茜色に染まり、小屋の中に長い影が差し込む頃。
おにいさんは、ふう、と大きな息を吐いて、手を止めた。
真っ黒に汚れた布で、板の表面を優しく拭う。
おにいさんは地面から立ち上がると、その黒い板を両手で持って、わたしの目の前までやってきた。おにいさんの顔は、炭の粉がついて泥棒猫みたいに黒くなっていたけれど、その目は、見たことがないくらい優しく笑っていた。
おにいさんは、わたしの目をじっと見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「ベルタ。できた」
わたしはびっくりして、おにいさんの顔を見た。おにいさんは照れくさそうに笑いながら、その真っ黒な板を、わたしの手の中にそっと滑り込ませた。
手渡されたそれは、ずっしりと心地よい重みがあった。
わたしは言われるままに、その板の、おにいさんがずっと磨いていた面をのぞき込んだ。
「――あ」
息が止まった。
そこには、夜があった。
真っ黒な、吸い込まれそうなほど深い夜が、その四角い板の中に広がっていた。
そして、その夜の奥から、一人の女の子がわたしをじっと見つめ返していた。
目が丸くなって、口をぽかんと開けた、女の子。
栗色の髪の毛が一本一本、夕暮れの光に透けて輝いている。まつ毛の長さも、自分の目の色がどんな茶色をしているのかも、ぜんぶ、ぜんぶ、信じられないくらいはっきりと映っている。
「これ……わたし?」
水たまりに映る、どろりと濁った影じゃない。
お母さんが昔言っていた、お城のお姫様しか持てないという、青銅の「鏡」でもない。
まっすぐで、どこまでもきれいで、わたしの姿をそのまま映し出す、魔法の板。
しばらくの間、わたしは言葉を忘れて、ずっとその板の中の自分を見つめていた。
まばたきをすると、板の中の女の子も同じようにまばたきをする。
前髪を少し触ると、女の子の手も同じように動いた。
世界中で誰も持っていない、世界で一番きれいなどこまでも平らな鏡。
おにいさんを見ると、おにいさんはやっぱり何も言わずに、ただ嬉しそうに、わたしの頭をぽんぽんと撫でてくれた。
これが、あのお粥の役にも立たない石を、おにいさんが毎日まいにちゴリゴリと摺り続けていた理由だったんだ。おにいさんは、わたしにこれをくれるために、あの冷たい水で何度も何度も手を赤くしていたんだ。
わたしはそれからもしばらくの間、ずっとその黒い夜の中に映る自分の顔を見続けていた。
のぞき込めばのぞき込むほど、なんだか不思議な気持ちになってくる。
村のほかの子たちや、川の水に映る自分と比べても、なんだかやたらときれいに見えるのだ。
(わたし……こんなに、しゃっきりした顔をしてたんだ)
おにいさんは毎日、言葉は喋らなくても、わたしの体を温かいお湯で濡らした布できれいに拭いてくれる。それに、朝と夜には必ず、おにいさんが作った柳の棒で歯を磨かされるし、細い糸を歯の隙間に通して、汚れをかき出すお掃除までさせられている。村でそんなことをしている子は一人もいないから、最初は「何のためにやるの?」と嫌だったけれど、鏡の中のわたしの歯は、村の大人たちみたいに黒くなくて、びっくりするほど真っ白に並んでいた。
それに、おにいさんが毎日「食べろ、食べろ」ってわたしの口に運んでくるごはんのおかげかもしれない。
おにいさんが一生懸命に渋を抜いたどんぐりや、すっきりした香りのする松の葉を漬けた水。それに、罠にかかったネズミやノウサギのお肉。川や池で捕まえてきたカエルの足や、ヘビ、魚にエビ。山から採ってきた、名前も知らないたくさんの野草。
どれも村の普通のごはんとは少し違って、おにいさんが変な一手間をかけたものばかりだけど、それを毎日残さず食べているからか、鏡に映るわたしの肌は泥にまみれてもつやつやしているし、目も濁らずに、どんぐりみたいにくりくりと光っている。
(おにいさんのおかげで、わたし、こんなにきれいなんだ)
そう気づいたら、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなって、自分の顔を見ているのが少しだけ恥ずかしくなった。
わたしは鏡を胸にぎゅっと抱きしめて、おにいさんの服の裾を、離さないように強く、強く握りしめた。
次回、燧石チップ
【作中技術解説】
光の反射と表面の凸凹:物質の表面が光を綺麗に跳ね返す「鏡」になるかどうかは、表面の凸凹の大きさに左右されます。人間の目に見える光(可視光)の波長はおよそ400nmから700nmという極めて小さなものです。物質の表面の凸凹がこの可視光の波長よりも小さく、平らに均されると、光が乱反射せずに一方向へ綺麗に跳ね返るため、ガラスや金属でなくても「鏡」として機能するようになります。
衛生管理におけるセルフチェック:鏡は単なるおしゃれの道具ではなく、生存率を上げるための重要な「衛生管理・医療器具」でもあります。自分の顔や口腔内を客観的に観察できる(セルフチェックする)環境があることで、歯周病や虫歯の初期症状、皮膚の異常、寄生虫の付着、栄養失調の兆候(目の濁りや粘膜の色)などに本人がいち早く気づくことが可能になります。おにいさんがベルタに鏡を最優先で与えたのは、彼女が自分で自分の健康状態を正しく把握し、過酷な農村環境を生き抜くためのセルフケアの基準を持たせるためでもあります。
柾目板:丸太の中心に向かってまっすぐ切り出した板のことで、年輪が平行な直線として現れます。乾燥による「反り」や「ねじれ」が非常に少なく、強度も均一であるため、精密な平面加工を行うベースとして最適な高級木材です。現代日本でこのサイズの極上柾目板を調達すると大変高価ですが、豊かな原生林が残る8世紀フランク王国では、おにいさんの目利き次第で贅沢に切り出すことができました。
遊離砥粒研磨:大麻などの粗悪な布では表面に傷がついてしまうため、お兄さんは自分の「指の腹」を道具として使用しました。どんぐりを擦り付けることで得られるわずかな植物性油を潤滑剤とし、極微細な炭粉を混ぜて磨くことで、表面の目に見えない凹凸を滑らかに整え、ガラスや金属さながらの深い漆黒の鏡面を作り出しています。




