16. 話を終えて
同時に、ガラヌスはふと、先ほどまでエイリシアが片付けをしていた舞台の方へ目を向けた。
演劇が終わってから、それなりの時間が経っていたが、広場では今も学生たちが大道具を運んだり、長椅子を片付けたりしており、神殿の関係者たちも忙しそうに行き来していた。
そういえば、エイリシアもまだ片付けの途中だったはずだ。
「そういえば、エイリシア。そろそろ戻らなくても大丈夫なのか?」
「え?」
「片付けの途中だったんだろ?もう結構な時間話してるけど、あんまり長いこと抜けてると、何か言われたりしないか?」
ガラヌスがそう尋ねると、エイリシアは少し考えるように広場の方へ目を向けた。
「あー……うん、確かに。それもそうだね」
彼女はそう言って、少し困ったように笑った。
「そろそろ戻らないと、みんなにも悪いかな」
「そうだな。俺もそろそろ帰らないといけないし」
「……うん。じゃあ、今日はありがとう、ガラヌス。色々お話しできて、楽しかったよ」
「いや、こちらこそ。俺も楽しかった。ありがとう、エイリシア」
エイリシアはにこりと笑い、ガラヌスもそれに応じて笑い返した。
「……あっ、そういえば」
その時、エイリシアは何かを思い出したように声を上げた。
「ガラヌス、あなたは今から軍学校に帰るんだよね?」
「ああ、そのつもりだけど」
「でも、もうこんな時間だよ?軍学校って、確か門限がすごく厳しかったんじゃなかったっけ?」
「あー、それはそうだね……」
ガラヌスは思わず苦笑した。
実のところ、門限に間に合わなくなりそうなことには、エイリシアを待っている間にすでに気づいていた。
ここから軍学校までは随分と距離があり、停留所まで歩いたうえで、さらに定期馬車を乗り継いで帰らなければならない。
今から急いで帰ったところで、門限には間に合わない可能性が高かった。
もちろん、軍学校の門限を破れば、教官から厳しく叱責されるばかりか、懲戒点も加算されることになるだろう。
だが、ガラヌスにとっては、それを承知のうえでも彼女を待つだけの理由があった。
半年以上も会うことのできなかったエイリシアが、あの夜のことを覚えていてくれたばかりか、自分から声をかけ、演劇が終わるまで待っていてほしいと頼んでくれたのだ。
そんな彼女を待たずに帰るなど、少なくともあの時のガラヌスには考えられなかった。
そして、実際にこうして彼女と話してみれば、その選択は間違っていなかったと思えた。
軍学校に入ってからというもの、ガラヌスは養父の期待に応えるため、大天国に仕えるため、あるいは将来の出世や平穏な生活のためと、様々な理由を与えられながら日々の授業や訓練をこなしてきた。
しかし、今こうしてエイリシアと話していた時間の方が、少なくともガラヌス自身にとっては、そうした日々の大半よりもずっと有意義なものに思えた。
「確かに門限には遅れそうだけど……別に大したことじゃないよ。今日こうしてエイリシアと話せただけでも、十分元は取れてるから」
「えぇっ、それは駄目だよっ」
エイリシアは驚いたように目を見開いた。
「だって、門限を破ったら怒られるんでしょ?それに、確か成績にも影響するんじゃ……」
「まあ、そうだけど」
「そうだけどって……えぇ、どうしよう。私があんなに待たせちゃったから……」
エイリシアはすっかり困った顔になり、ガラヌスと広場の出口とを交互に見ながら、どうしたものかと考え始めた。
そんな彼女の姿を見ていると、ガラヌスはふと、懲罰房で初めて言葉を交わした時のことを思い出した。
あの時も彼女は、怪我をして閉じ込められていた自分のことを随分と心配してくれていたが、こうして慌てている姿を見ると、あの頃の続きのように思えた。
「いや、本当に気にしなくていいよ。そもそも、俺が勝手に待ってたんだから」
「でも……」
「それに、まだ間に合わないって決まったわけじゃないし。急いで帰れば、案外何とかなるかもしれないだろ?」
ガラヌスはそう言うと、エイリシアへ軽く手を振った。
「じゃあ、またな。エイリシア」
「あっ、で、でもっ……」
エイリシアが何か言いかけたが、ガラヌスはもう一度手を振りながら、そのまま背を向け、広場の出口へ向かって足早に歩き出した。
これ以上話していては、彼女がますます気にしてしまうだろうし、何より本当に帰れなくなってしまう。
ガラヌスはそのまま神殿の前庭を抜け、帰りの馬車が出る停留所へと向かった。
*
それからしばらくして。
ガラヌスは、スカリウム市内の乗合馬車の停留所で、帰りの便を待つ人々の列に並んでいた。
すでに太陽は西の街並みの向こうへ沈みかけている。
街路に沿って建ち並ぶ赤茶色の瓦屋根と漆喰塗りの壁を持つ石造りの建物には、夕陽を受けた部分と、向かいの建物の影に入った部分とがくっきりと分かれていた。
昼間には商人や買い物客で賑わっていた通りも、今では店先の商品を片付ける者や、仕事を終えて帰路につく職人たちの姿が目立つようになっていた。
ところどころでは、すでに街路の灯火に火が入れられ始めており、石畳の上には、行き交う人々や荷馬車の影が長く伸びていた。
ガラヌスはそんな街並みを眺めながら、先ほどまでのエイリシアとの会話を思い返していた。
彼女が演劇の脚本について楽しそうに話していたことや、邪神たちについて自分が抱いていた印象を伝えた時の、どこか嬉しそうな表情が思い出された。それに、最後に門限のことを知って慌てていた姿も。
しかし、実際に軍学校へ戻ってからのことを考えると、いつまでもそうした思い出に浸ってばかりはいられなかった。
本来なら、次の査定で第一級へ進めるかもしれないところまで来ていたが、今回の門限違反で懲戒点を加算されれば、その望みもおそらく絶たれることになるだろう。
あと少しだったのにな、とガラヌスは思った。
それに、門限違反となれば、しばらく外出を禁じられる可能性も高かった。
そうなれば、次にエイリシアと会えるのは、また随分と先のことになってしまうかもしれない。
ようやく再会できたというのに、またしばらく会えなくなるのだろうかと考えると、少し残念だった。
だが、だからといって、今日エイリシアを待ったことを後悔しているわけでもなかった。
むしろ、これから何度も会えるようになるより、こうして少し間が空くのも、それはそれで悪くないかもしれない。
次に会うまでに、また色々なことを話せるようになっていたらいいな。
そんなことを考えながら、ガラヌスは少しずつ短くなっていく列の先へ目を向けた。
――その時だった。
不意に背中を指先で軽く叩かれ、ガラヌスはその覚えのある感触に、思わず振り返った。
「……え?」
そこには、灰緑色のフードを深く被った少女が立っていた。
顔の大半はフードの陰に隠れていたが、そこから覗く淡い金髪と黒い瞳、そして脇にわずかに見える細長い耳には、確かな見覚えがあった。
エイリシアだ。
しかも、先ほどまで着ていた学生服ではなく、まったく別の服装に着替えていた。
灰緑色のローブを上に羽織っていおり、その下は白いブラウスに濃紺の長いスカートを合わされていた。
特別に高価そうな服ではなかったが、落ち着いた色合いと整った仕立てのせいか、学生服を着ていた時よりも少し大人びて見えた。
「エイリシア?どうしてここに――」
「しーっ」
エイリシアは人差し指を唇に当てると、周囲をちらりと見回し、空いた手でガラヌスを招いた。
そして、彼の服の裾を軽く引っ張りながら、通りの脇にある細い路地を指差した。
ガラヌスは何事かと首を傾げたが、エイリシアは何も答えず、もう一度手招きをした。
――ちょうどその時、通りの向こうから馬車の車輪が石畳を踏む音が聞こえてきた。
振り返ると、二頭立ての乗合馬車が停留所へ近づいてきており、列に並んでいた人々が乗車の準備を始めていた。
ガラヌスは思わず馬車の方へ目を向けたが、エイリシアはそんな彼の様子に気づくと、焦ったような表情をして、構わずついてきてほしいと言わんばかりに、もう一度手招きをした。
――この馬車を逃せば、門限に間に合わないどころか、大幅に遅刻することになってしまうだろう。
だが、エイリシアがわざわざ自分を追いかけてきたことには、なにか事情があるように思えた。
ガラヌスは少し迷った末に、馬車を諦め、彼女の後について路地へと入っていった。




