#010
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神を捨てる者は、ちょうちんを持って歩き続けるために、
太陽の光を消すようなものである。
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鼻頭が当たるほどの至近距離で凄む比賣に圧倒されながら、僕は息を呑んだ。
吐息がかかる距離、なんて言えばまるでどこかのラブストーリーにありがちなロマンティックな展開なのだろうけれど、しかしこの場合そうではない。
比賣 咲夜。
彼女もまた、神楽坂同様、外見にはそぐわない高圧的な態度だった。
清潔感のある身なりをしているものの、彼女から溢れ出る達観した気迫は僕を震えさせるには十分だった。
外見と内面の不一致という点において、姉の幟季と同じく、そして神楽坂とも同じく言い得ている。
世間一般的に、それはギャップと言うのだろうけれど、しかしどうだ。
所謂、『ギャップ萌え』はこの場合当てはまるのだろうか。
少なくともその間隙を理解することは、僕には難しい。
「観測者と当事者で見える真実が異なるように、あなたと彼女との間にも認識の差異がある。その差異が絶対的に埋まらないのだから、こうして私たちは彼女と敵対することになるのだけれどね」
比賣は独り言のように呟きながら、僕から少し距離を取った。
距離を取って、右腕に触れる。
切り落とされ、瞬時に再生した僕の右腕にそっと触れながら言う。
「例えばあなたの右腕。神の力を彷彿とさせるその治癒力は、果たして本当に神の力なのかしら」
「……違うっていうのか?」
「そういうことではないわ。ただ、きっと知らない人から見れば、ただの錯覚のように思えるのかもしれないわね。見間違いだろうと、気のせいだろうと、そう思い込むはずなのよ」
比賣は続ける。
「理解できない不可解な現象を目の当たりにした人の大半は、そう思うはずじゃないかしら?けれど、あなたは違う、二条 名木は違うのよね。自分の目で見たものは確かに現実だと言う――」
「まぁ、そう思っていたけれど、実際、そんなのって簡単に覆るんだよな。確かに僕は自分のことをそんな人間だと思ってた、けれど、どうも勘違いだったのかもしれない」
「ふふ、そうね。理想というのは簡単に覆るものよ。けれど、神楽坂の言葉を素直に受け止めたように、私の言葉に耳を傾けているように、あなたのリアルを見る目は何よりも現実主義だと思うわ」
「……?」
僕には難しい話だった。
白い彼女のように、比賣がする会話もどうも掴み難い。
会話の先が見えないというか、話の流れが読めないというか。
何が言いたいのかわからないし、何を言っているのかもわからない。
神様っていうのは皆こうなのだろうか。
ん?
神様?
どうして僕は、比賣 咲夜のことを神だと思い込んでいるのだ?
「なぁ、お前は――」
僕は思ったことを素直に口にする。
と同時に、まるで僕がそんな野暮な質問をすることを予知していたかのような絶妙のタイミングで僕の口を制止させた。
遮って、比賣は言う。
「同じよ、あなたと」
僕が今立っているこの世界――暗闇が上空を覆い、光の一筋すら入って来ない暗い世界が現実のそれとは違う、冗談のような別世界だということは理解していた。
街並みはどれを見ても、僕が知っているそれだと言うのに。
形だけがそこにあって、中身がまるでないような、空っぽの景色だ。
そこに僕のような『神』が存在しているということは、つまり、比賣もまた同じような存在だということなのだろう。
常夜、か。
侵されることのない神域――死人が彷徨う、黄泉の国。
つまり、そういうことなのだろう。
比賣が言うように、僕は本当に現実主義者なのかもしれない。
いや、本来そんな意味でそれを用いること自体間違っているのだろうけれど、しかし、僕は目の前で起きている現象を、眼で視認できる情景をはっきり現実だと認識している。
それはやはり、ある意味、現実主義なのかもしれない。
言い得て妙ではある。
「さぁ、神産巣日神、この下らないお遊びはもうお仕舞いにするわよ」
「……お仕舞い?どうやって?」
「まぁ、ここは一つ私に任せない。カミムスビに借りを作っておくというのも、私にとって利益になるわ」
「……お、おう…………」
よくわからないが、何だか悪い予感がしてならない。
と言うか、悪い予感しかしない。
「「おいおーい、ひそひそ話はもう済んだけ?あんまウチを待たせんといてや。気長い方ちゃうねんで」」
神楽坂は煙管を口にくわえながら言う。
「えぇ、もう済んだわ。だから、このお遊びも終わりにしましょう」
「「へっ!終わりにするかどうかはウチが決めることや」」
そう――
と。
「神を捨てる者がどんな末路を辿ることになるのか、私に見せなさい」
その言葉と同時に、比賣は僕の視界から姿を消した。
消して。
僕は目を見開いてしまう。
現実ではおよそ有り得ない出来事を目の当たりにしてしまう。
次に瞬きをした時にはすでに二人の神楽坂の間に割り入る形で立っていたのだ。
そこに存在することが当たり前のように。
あたかも、以前からそこに存在していたかのように。
瞬間的に移動したというより、最初からすでにそこにいた、そう思わせる光景だった。
「では、さいなら――」
比賣はそんな風に神楽坂が使う方言を真似て、両手を伸ばす。
左右に位置する神楽坂の頭部を目掛けて両手を伸ばして――
「…………………………っ!」
比賣が一体何をしたのか。
何をしてそんなことができてしまうのか。
そんな自問を解くことは簡単だった。
そう。
これは、神の力だ。
神様の、力だ。
そう――二人の神楽坂の頭部が破裂して、散ったのである。
内部から爆発するように、四散したのである。
「お、おい!?」
僕は思わずその光景に声を上げる。
目の前で一人の女性の頭部が四散したのだ、動揺が隠しきれない。
焦って、慌てふためいて当然だろう。
しかし、混乱する僕をよそに比賣は落ち着いた様子で言う。
「大丈夫よ、ほら――」
比賣は。
爆ぜた神楽坂の頭部から、まるで紙吹雪のように散る真っ白な紙片を手のひらで受けた。
紙?
神楽坂の頭から紙?
「ほら、別に慌てる必要はないわ――」
もう一度、僕を安堵させる言葉を小さく吐いて、白い紙吹雪が舞う中、頭部が欠落した神楽坂の動かない胴体を人差し指で突いた。
突いて。
突いて、神楽坂の胴体が崩れ落ちた。
大量の紙片を撒きながら、散り散りになってしまった。
「……紙?」
「式神のようなものね」
「…………」
「初めにあなたを襲った彼女も、二度目も三度目も――その正体はコレよ」
「は、はぁ……」
僕は目の前で起きた不可解な現実を理解できないまま溜息にも似た相槌を打った。
「ふぅ、何だか疲れたわ」
「あぁ、本当に、そう思うよ……」
「なら、帰りましょうか」
「……帰る?どこにだ?」
「決まっているじゃない、現世よ」
比賣はそう言って、ニヒルに笑うのだった。
「色々、訊きたいことがあるでしょう?あなたも来るわよね、『名もなき神』さん――」
「ふぅ、仕方あるまい」
白透明な彼女が神妙な面持ちでそれに同意する。
パチリ。
パチリと。
僕は二度瞬きを無意識に行って、次の瞬間呆然とする。
驚愕。
驚々愕々。
僕の眼前に広がる光景はいつの間にか失われていた日常の現実世界だった。
人々が僕を避けるように行き交う大通りのど真ん中。
右往左往と忙しなく車が走り、活気に満ち満ちた大通り。
「…………」
僕は不可解な現実を超え、そして不可解にも元の現実に戻ってきたのだった。
しかし、どうやら夢オチではないらしかった。




