カンダタと蜘蛛の糸
「ほんとにね、変な人間ばっかりでゴメンね」
「あ、ううん。トキオさん、なんか大変そうだね」
「あっ、わかるー?ボクのこの苦労」
トキオはおどけたようにそう言ってから、軽く微笑んで棟沿いに歩き出した。
「なーんて。大変なのは、みんなの方じゃないかなー。僕の場合は心に折り合いがついてるから。きっと、元の世界への執着がなかったんだろうね。でも、他のみんなは違うんだ。ちゃんと元の世界に基板があって、そこに戻りたいと思ってる。そこの…肝心の元の世界のことを殆ど覚えていないから、こんな何もない砂だらけの世界に放り込まれてもなんとか踏ん張ってやってるけど、みんな結構ギリギリなんだ。ちょっとしたことで均衡がくずれそうなくらいに」
棟の後ろ、ちょうど先ほどタケルが羽根トカゲの首を斬ったあたりに通りかかる。緑の粘液が、砂に吸われることなくその場にとどまっていた。
それを目にしたトキオは、つま先で砂を蹴って見えないように隠す。
「タケルがここでやったこと、お下げちゃんはどう思った?」
無表情で刀をふるうタケルの姿を思い出し、ミチルは素直に「怖かった」とこたえた。それに対してトキオは小さく微笑み、頷く。
「うん。あの子はボクみたいに言葉で自分を飾ろうとしない子だから。……というか、逆にぶちこわしてるか?はは。ま、とにかく、タケルはこの世界に迷い込んだ人間が、ここで人として迷わないように、あの子なりに頑張ってるんだよ。伝わりにくいけど。だから、あの子を嫌いにならないでやってね」
「は、……はあ」
曖昧に濁すミチルに、トキオは「怒りんぼ将軍だからしょうがないか」と笑った。
「自暴自棄になれるほど記憶を持たない。自分がどういった人間で、どんなふうに生きてきたのかを知る者もいない。みんなそうだから、なんとなくお互いに距離感がつかめない。ひょっとしたら今まで存在してなくて、実験の為に何か特別な力で産み出された、高性能アンドロイドかなんかじゃないのかっていう人も居たね。当たり前の、ささやかな知識だけ与えられた、生まれたての空っぽの存在なんじゃないかって。それなら直接的な記憶ももたず、こんな訳のわからないところにいる事の説明ができるって。ボクのハーモニカや他のみんなが体で覚えてる特技なんかは、研究者の遊びゴコロのオプションってとこで」
トキオの口にしたことは荒唐無稽なことのように思えたが、確かにそれを完全に否定する材料もないのだと思い知る。客観的、主観的な情報を持たない時点で自分たちがUMAのようなものなのだ。
そうであれば自分もアンドロイドなのだろうかと、ミチルは自分の手の平を見た。青く透ける無数の血管。実際のそれには血ではない何かが通っているということなのだろうか。
「でも、空っぽじゃない証明に、ふとした時に懐かしい気持ちになったり、何かの片鱗を思い出したりすることがある。だからそれに、すがりたいんだ。すごく。自分が誰で、何を考えて、どうやって生きてきたか。その証を得たいんだ」
トキオの今の言葉は、ミチルに怒ったタケルの思いに通じるものなのだろう。存在を否定されたくないという強い思い。
「元の世界に帰ったって、たいした人生が待ってる訳じゃないかもしれない。ひょっとしたら、ここで砂になったり、何もわからず化け物に喰われた方がマシなのかもしれない。でも、わからないから、より一層望郷の念が強くなる。ま、実際のボクなんて、ろくでもない人生送ってる気がするけどね」
悟ったように笑うトキオ。
ミチルは静かに首を横に振ると、真っ正面からトキオの顔を見た。
「トキオさんはどこに居ても、しっかりいい人だと思う」
何の根拠があるわけでもないが、その時のミチルは心からそう思った。
トキオは一瞬、驚いたようにミチルを見たが、すぐに破顔すると片手でミチルの頭をクシャクシャにかきまわす。
「お下げちゃんは本当に真っ直ぐで可愛いね。タケルに見習ってもらいたいよ。ほんと、手放しでそんなこと言ってもらったら、いい人にならざる得ないなー」
ミチルの顔をのぞき込むと声を潜めて言葉の後を継ぐ。
「どういう理論か、どういう事情かはわかならないけど、お下げちゃんの特殊な状態は、みんなに知らしめるべきじゃないってボクは確信してる。ほんのささいなことで、お下げちゃんの存在がみんなの均衡をくずしてしまうかもしれない。ボクとしてはこの均衡を保つのがいいことなのか判断できないわけだけど、現状維持という意味と、可愛いお下げちゃんの保身を考えて、しばらくはおとなしくしててね。じゃないと罪のないカンダタになってしまう」
ミチルをのぞき込んだまま、唇に人差し指をあてて片目を閉じる姿がとても様になるのを見て、カイトの目があと3ミリや5ミリ大きくても関係ないなと思った。
薄暗い、トキオが監禁室と呼ぶ小屋の中に一人取り残されたミチルは、ゆらゆらと揺れるランプの炎を見つめ軽く息を吹きかける。なびいた炎は一瞬勢いを増し、すぐに何事もなかったようにまた揺れ始めた。今度は容器に溜まった芋虫の脂に息を吹きかける。すると透明感のある脂は、容器の中でもったりと波打った。
アヤの作った様々なパッチワークに囲まれ岩の椅子に座るのはさっきと同じだったが、さっきは確かにあった「夢」だという気概は、すっかり薄れてしまっていた。時間が経つにつれ、そもそも自分が何をもって「夢」だと確信していたのかもわからなくなっている。だが、夢だと思っていたからこそ比較的鷹揚に構えていられたわけで、これが現実ということになると話は全く違ってくる。
夢であればこそ目が覚めれば元の世界に戻れるのだ。しかしこれが夢でなく、自分がどうやってきたかも不確かとなれば、現実問題として戻れるかどうかすらアヤしい。確かに一度はトキオやタケルの前から姿を消して再度現れたのだろうが、一度そうだったからと言って二度目があるとは限らない。そもそもそれ以外で先の住人との違いといえば、名前を覚えていたことと、森に現れたことだけなのだ。
それでもトキオは他の住人との接触を気にしていた。ほんの些細な出来事で容易に崩れてしまう均衡。そう言っていた。
「誰がカンダタだっつうの」
遅ればせながら、トキオの言葉にツッコんでみた。
地獄に垂らされた蜘蛛の糸。
釈迦によっておろされた、カンダタへの救いの糸。
カンダタに便乗して助かろうとした地獄の亡者達を、カンダタが自らの保身のために蹴り落とそうとして、結局切られてしまった蜘蛛の糸。
それは砂の世界の住人に対する揶揄なのか、それともミチルに対する警告なのか―――。
それにしても自分の事はロクすっぽ思い出せないのに、なぜ蜘蛛の糸の話などを覚えているのだろうと変に感心してしまう。他にも色々、当たり前のように浮かんでくることは山のようにあるのに、本来「当たり前」であるはずの「自分」は全くでてこない。
トキオを始め、その恋人の可愛いアヤや、おおらかそうなセン、明るい笑顔のカズネ、風変わりなカイト、強烈なカエデ、強面のタケル、タケルにビビっていたヒロキ達や、4人の子供達。そしてまだ会ったことのない他の住人達。それぞれの気持ちを考え、どうにも考えきることができないまま、ミチルは小さくため息をついた。
なんとか記憶を呼び戻そうと、腕を組み、目を瞑り、眉をしかめてうなっていると、遠慮がちにドアがノックされた。




