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薔薇色の月が昇る夜、私は退屈な未来を捨てた

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/06/23

薔薇色の月が昇っていた。


白くもなく、赤くもなく、夜空の底で淡く滲むような月だった。まるで誰かが銀の皿に薔薇の花弁を擦りつけ、そのまま空へ吊るしたような色をしていた。


王宮の大広間には、千本の蝋燭が灯されている。


金の燭台。

磨き上げられた大理石。

香水と葡萄酒。

絹の衣擦れ。

控えめな笑い声。

作法に縛られた祝福。


そのすべての中心に、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは立っていた。


白薔薇のドレスは、彼女のためだけに仕立てられたものだった。肩から胸元へかけて繊細なレースが重なり、腰には真珠を縫い込んだリボンが落ちる。裾には小さな白薔薇が散らされ、歩くたびに花が床を撫でる。


誰もが美しいと言った。


「まるで月の女神だわ」

「ローゼンヴェル侯爵令嬢は、今夜もお人形のように美しい」

「王太子妃にこれほど相応しい方はいらっしゃらない」

「殿下もお幸せね」

「これ以上ない未来だわ」


これ以上ない未来。


その言葉を聞くたび、エルゼヴィーラの胸の奥は、少しずつ冷えていった。


笑みは崩さない。


目元を柔らかく。

顎を少しだけ引き。

視線は高すぎず、低すぎず。

声は澄ませて、感情は乗せすぎず。

褒め言葉には感謝を。

羨望には謙遜を。

探りには微笑みを。


そうしていれば、誰も彼女が退屈していることに気づかない。


今夜の余興は、王都で評判の奇術師によるものだった。


白い薔薇が炎に包まれた。燃え尽きると思った瞬間、花弁の赤が煙の中で月の形に変わり、天井近くへふわりと浮かぶ。


貴族たちは拍手した。


王妃は上品に頷き、王太子は穏やかに微笑んだ。宰相は隣に控える灰色の侍従へ目配せをした。


その一瞬、侍従の手から、小さな黒い封筒が奇術師の手へ滑り込んだ。


拍手の陰に紛れるような、ほんのわずかな動きだった。


誰も気づかない。


けれどエルゼヴィーラだけは、燃える薔薇から目を逸らせないまま、その指先の震えを見ていた。


灼けた薔薇は、苦しそうなのに美しかった。


「エルゼヴィーラ」


名を呼ばれて、彼女は振り返った。


王太子エリアス・ヴァン・レインが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。金糸の刺繍が入った礼服。淡い金髪。青い瞳。育ちのよさが仕草の端々に滲む、王国で最も美しい未来を約束された男。


「少し、外の空気を吸わないか」


「喜んで」


エルゼヴィーラは差し出された手に指先を預けた。


広間の視線が、二人を追う。


今夜、正式な婚約発表が行われる。


侯爵令嬢エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは、王太子エリアスの婚約者となる。


次期王妃。

王国の薔薇。

王家に迎えられる月。


誰もが、その未来を疑っていなかった。


庭園へ出ると、夜風がレースの袖を撫でた。噴水の水音が遠く聞こえる。薔薇の香りが濃く、月光に濡れた花弁は血の気を失った唇のようにも見えた。


エリアスはしばらく黙って歩いた。


沈黙すら礼儀正しい人だった。


やがて、彼は足を止めた。


「今夜の君は、いつにも増して美しい」


「ありがとうございます、殿下」


「だが、少し疲れているように見える」


エルゼヴィーラは微笑んだ。


「慣れない祝福の多さに、少しだけ」


「結婚したら、君をこんなふうに人目へ晒し続けることはしない」


エルゼヴィーラの指先が、ほんのわずかに止まった。


エリアスはそれに気づかない。


「君は注目を浴びすぎる。美しいから、皆が見る。家柄もある。王宮に入れば、さらに人目は増えるだろう。だが、私は君を守りたい。煩わしい社交も、無遠慮な視線も、噂話も、できるだけ遠ざける」


薔薇の香りが、急に重くなった。


「王宮の奥で、穏やかに暮らせばいい。君は無理に笑う必要もない。何かに心を乱される必要もない。怖いものからは、私が遠ざける」


優しい言葉だった。


きっと、誰が聞いてもそう思う。


けれどエルゼヴィーラには、その言葉が美しい棺の蓋のように聞こえた。


穏やか。

守る。

遠ざける。

乱されない。

怖いもののない未来。


それは、何も起こらない未来だった。


心臓が跳ねることもなく、息を呑むこともなく、怒りで手が震えることもなく、誰かの視線に血が熱くなることもなく、ただ静かに、整えられた部屋の中で花瓶の花のように生きる。


「エルゼヴィーラ?」


「殿下は、わたくしを随分と大切にしてくださるのですね」


「当然だ。君は私の未来の妃だ」


未来。


その言葉だけが、鋭く胸に刺さった。


エルゼヴィーラは恐怖を知っていた。


幼い頃から、何かを失うことには慣れていた。好きだった絵本は王妃教育に不要だと取り上げられた。走ることははしたないと止められた。大声で笑う癖は直された。怒りは醜いと教えられた。欲しがることは浅ましいと躾けられた。


一つずつ失った。


それでも怖くはなかった。


失うことは、ただ軽くなることだった。


けれど今、目の前にいる男が、穏やかな声で自分の未来を語る。


その未来には、鼓動がなかった。


「もうすぐ発表の時間だ」


エリアスは彼女の手を取った。


「戻ろう」


エルゼヴィーラは、その手を見た。


綺麗な手だった。剣を握ることも、泥を掴むことも、誰かを乱暴に引き寄せることも知らない手。


優しくて、正しくて、生温い手。


「少しだけ、月を見てから戻ってもよろしいでしょうか」


「一人で?」


「ええ。ほんの少し」


エリアスは迷ったが、すぐに頷いた。


「わかった。あまり冷えないように」


「お気遣い、痛み入ります」


彼が去っていく。


白薔薇のドレスが、夜風に揺れる。


エルゼヴィーラは庭園の奥へ歩いた。


戻るべきだった。


婚約発表へ。

祝福へ。

王妃になる未来へ。


だが、足は戻らなかった。


庭園の果て、王宮の裏門近くに、ひときわ暗い木陰があった。


そこに男が立っていた。


黒髪。

黒い外套。

細身の長い手足。

笑っているようで、目だけは笑っていない。


王宮の貴族ではない。


けれど、夜の中に立つ姿は、誰よりもこの場に馴染んでいた。


「婚約発表の主役が、こんなところで迷子か」


エルゼヴィーラは足を止めた。


「不躾な方」


「褒め言葉として受け取っておく」


「どなた?」


男は胸に手を当て、芝居がかった礼をした。


「ノア・グレイヴ。今夜の余興に呼ばれた奇術師だ」


「奇術師」


「薔薇を燃やして月に変えた男、と言えば思い出すか」


「見事な奇術でしたわ」


「覚えていて光栄だ」


「それと、拍手の陰で宰相閣下の侍従から封筒を受け取った方、とも」


ノアの目が、ほんのわずかに細くなった。


「よく見てるな」


「退屈な夜は、他人の小さな不自然くらいしか慰めがありませんもの」


「怖い令嬢だ」


「あなたほどではありませんわ」


ノアは少し笑った。


「手品じゃない。奇術だ」


「違いが?」


「手品は人を騙す。奇術は人に見たい夢を見せる」


「わたくしが見たい夢など、ご存じですの?」


ノアは少し笑った。


「少なくとも、王宮の奥で穏やかに枯れる夢じゃない」


エルゼヴィーラの呼吸が止まった。


一瞬だけ。


本当に一瞬だけ。


けれどノアはそれを見逃さなかった。


「君は守られる花じゃない。噛みつく薔薇だろう」


胸の奥で、何かが走った。


それは怒りではなかった。


恐怖でもない。


もっと熱く、もっと速く、もっとどうしようもないものだった。


「随分と勝手なことをおっしゃるのね」


「当たっているから怒った?」


「怒ってなどおりません」


「では、退屈していた?」


エルゼヴィーラは笑った。


今夜初めて、作法ではない笑みだった。


「あなた、首を刎ねられたいの?」


「今の王宮よりは刺激的だ」


「命知らずですこと」


「君ほどじゃない。婚約発表の直前に裏門まで来る令嬢なんて、なかなかいない」


遠くで、彼女を探す声がした。


「ローゼンヴェル様」

「エルゼヴィーラ様」

「どちらに」


ノアが片手を差し出した。


「今夜だけ、退屈じゃない場所へ連れていってやる」


「わたくしを攫うおつもり?」


「君が望むなら」


「望まなければ?」


「俺は煙みたいに消える。君は広間へ戻る。王太子は安心する。貴族たちは祝福する。君は穏やかで、何一つ乱れない未来へ行く」


それは、ひどく恐ろしい話だった。


エルゼヴィーラは差し出された手を見た。


手袋をしていない手だった。指先に小さな火傷の跡がある。赤い染料が爪の横に残っている。生きている手だと思った。


「平坦な人生がお好きなら、わたくしは戻るべきなのでしょうね」


「好きなのか?」


「嫌いですわ」


ノアの口元が上がる。


エルゼヴィーラは手を伸ばさなかった。


代わりに、彼の横を通り過ぎ、裏門へ向かう。


「エスコートなさるのでしょう?」


ノアが片眉を上げた。


「命令か?」


「いいえ」


彼女は振り返る。


薔薇色の月が、その顔を淡く染めていた。


「どうぞこちらへご勝手に」


ノアは、一拍遅れて笑った。


「最高だな、薔薇色の月」


「その呼び名は嫌いです」


「じゃあ、エルゼ」


「許可しておりません」


「今夜だけだ」


「今夜だけなら、なおさら許可いたしませんわ」


言いながら、エルゼヴィーラの胸は高鳴っていた。


王宮の裏門を抜ける。


それだけのことなのに、世界の縁を越えたような気がした。


王都の夜は、王宮の夜とはまったく違った。


馬車の轍。

濡れた石畳。

酒場から漏れる笑い声。

屋台の香辛料。

焦げた砂糖の匂い。

遠くで鳴る楽器。

言い争う男女。

寝ぼけた犬。

赤いランタン。


すべてが近かった。


すべてが生きていた。


エルゼヴィーラはドレスの裾を持ち上げて歩いた。白い靴に泥が跳ねる。普通なら侍女が悲鳴を上げる。母なら眉をひそめる。王妃なら不適切だと言う。


けれど、彼女は少しも不快ではなかった。


「楽しいか?」


ノアが隣で聞いた。


「汚れていますわ」


「答えになっていない」


「楽しいと言ったら、あなたは得意になるでしょう」


「もうなってる」


「では申し上げません」


ノアは声を立てて笑った。


その笑い方は、王宮の誰とも違った。大きすぎるわけではない。下品でもない。ただ、感情を押し殺していない。


エルゼヴィーラは、その笑い声に少し苛立った。


そして、それ以上に惹かれた。


王都劇場は、裏通りの奥にあった。


王宮の大広間に比べれば小さい。外壁は古く、入口の柱には傷がある。だが赤い幕がかかった扉の前には、灯りがいくつも吊るされ、人々が出入りしていた。


「ここが退屈ではない場所?」


「今夜はな」


「明日は?」


「明日の保証が欲しいなら、王太子に戻れ」


エルゼヴィーラはノアを見た。


「あなた、嫌な言い方がお上手ね」


「君もな」


劇場の中は熱気に満ちていた。


香水、酒、汗、化粧、火薬、赤い布、古い木材。王宮の空気が磨かれた銀なら、ここは燃える炭のようだった。


舞台の奥から、女の声がした。


「ノア。遅い」


赤い衣装を纏った女が、鏡台の前に座っていた。艶やかな黒髪を結い上げ、唇には深い紅を差している。鋭い目元。美しいが、近づけば切れそうな女。


「客を拾った」


「捨ててきなさい」


エルゼヴィーラは瞬いた。


ノアが笑う。


「王宮からだぞ」


「なおさらよ。飽きたお嬢様が、一晩だけ悪い夢を見る場所じゃないわ」


女は立ち上がり、エルゼヴィーラを上から下まで見た。


「白薔薇のドレス。真珠。王家の紋章入りの手袋。まあ、眩しいこと」


「あなたは?」


「サロメ・ベルナール。この劇場の歌姫。泣きに来たなら帰りなさい。ここでは涙なんて流行らないわ」


エルゼヴィーラは静かに笑った。


「安心なさって。わたくし、泣き方を忘れてしまいましたの」


サロメの目が、ほんの少し変わった。


「……ふうん」


ノアが舞台袖の机から黒い封筒を取った。


「サロメ。例の書状は?」


「隠してあるわ。まさか本当に使う気?」


「使うかどうかは、彼女が決める」


エルゼヴィーラは視線を向けた。


「わたくし?」


ノアは封筒を開いた。中には数枚の書状が入っていた。王家の印、宰相の署名、ローゼンヴェル家の財産管理に関する文言。


「燃やせ、と?」


エルゼヴィーラは言った。


ノアが笑う。


「そこまで読めるのか」


「先ほどの侍従の手が震えておりましたもの。祝宴の余興に渡すには、あまりに怯えた手でしたわ」


「王宮の裏では、紙も人もよく燃える。俺は薔薇を燃やす役で呼ばれた。ついでに、余計な写しも燃やしておけとさ」


「引き受けたの?」


「報酬は受け取った」


「最低ですわね」


「燃やしてはいない」


「ますます最低ですわ」


「褒め言葉として受け取っておく」


サロメが鼻で笑った。


「その男はね、金で雇われて、面白そうな方へ裏切るのよ。信用しない方がいいわ」


「ご忠告、痛み入ります」


エルゼヴィーラは一枚目を読み、二枚目で目を止め、三枚目で笑った。


冷たい笑いだった。


「なるほど。わたくしを迎えるのではなく、ローゼンヴェルを迎えるおつもりでしたのね」


「王家は金が要る。ローゼンヴェル家には港と鉱山と商会への影響力がある。婚約は綺麗な包装紙だ」


「殿下は?」


「知っている」


一瞬だけ、胸の奥に痛みが走った。


だが、それは失恋の痛みではなかった。


やはり、という納得に近かった。


エリアスは悪人ではない。彼はきっと「国のため」だと信じている。エルゼヴィーラを傷つけるつもりはない。むしろ自分が守るのだから問題ないと思っている。


その方が、ずっと残酷だった。


「これを使えば、君は婚約を潰せる」


ノアが言った。


「王宮をひっくり返せる。君を飾りにしようとした連中を、まとめて煙に巻ける」


「捨てたいのは殿下ではありませんわ」


「じゃあ、何を捨てたい?」


エルゼヴィーラは書状を閉じた。


劇場の舞台では、赤い幕が静かに揺れていた。


その向こうに、客席がある。


人々が息を潜めて待つ場所。

嘘が真実になる場所。

醜いものすら、美しく見せられる場所。


エルゼヴィーラは、自分の白薔薇のドレスを見下ろした。


「鼓動のない未来です」


サロメが笑った。


「いい返事」


彼女は鏡台へ戻り、紅を一本取った。


「なら、その格好では駄目ね」


「何をなさるおつもり?」


「作り替えるのよ。王妃になるための令嬢から、今夜を始める女へ」


サロメは容赦がなかった。


白薔薇のドレスの余分なリボンを外し、裾を少し持ち上げ、内側に赤い布を重ねる。清らかすぎる胸元のレースをほどき、首元を開ける。王家の紋章入りの手袋は外され、代わりに黒い薄手の手袋が嵌められる。


白薔薇の飾りには、赤い染料が滲ませられた。


純白だった花が、傷を負ったように赤くなる。


エルゼヴィーラは鏡の中の自分を見た。


まだ侯爵令嬢だった。


けれど、王家のために整えられた白い花ではない。


月の下で赤く灼けた薔薇だった。


サロメが唇に紅を差す。


深い赤。


「泣くつもりなら、この色は似合わないわ」


「では、笑います」


「怒鳴るのは?」


「品がありません」


「刺すのは?」


「必要なら、言葉で」


サロメは満足げに頷いた。


「いいわ。あなた、舞台向きよ」


ノアが壁にもたれて見ていた。


いつもの軽薄な笑みを浮かべているのに、目は静かだった。


「何か?」


エルゼヴィーラが聞く。


「いや」


「お似合いかしら」


「似合いすぎて腹が立つ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「手が震えているぞ」


エルゼヴィーラは、自分の指先を見た。


本当に少し震えていた。


恐怖だろうか。


違う。


たぶん、鼓動だ。


「怖いか?」


ノアが聞いた。


「ええ」


「王宮に戻るのが?」


「いいえ」


「婚約を失うのが?」


「いいえ」


「では?」


エルゼヴィーラは鏡越しにノアを見た。


「この鼓動を知ってしまったことが」


ノアの笑みが、ほんの少し消えた。


その顔を見て、エルゼヴィーラはさらに胸が騒ぐのを感じた。


彼を失うことは、まだ怖くない。


明日消える男なら、それでもいい。


けれど、この鼓動のない未来へ戻ることは、もう怖かった。


劇場の外では、月がさらに赤く滲んでいた。


王宮へ戻る道を、エルゼヴィーラはノアと並んで歩いた。


来た時とは違う道だった。


裏通りを抜け、橋を渡り、王宮へ続く坂道を上がる。遠くに見える王宮は、夜空の下で白く輝いていた。美しく、冷たく、巨大な魔物のようだった。


「あれが君の檻か」


ノアが言った。


「檻というには、あまりに美しいでしょう」


「綺麗な檻ほど厄介だ」


「経験がおあり?」


「俺は檻に入る前に壊す」


「野蛮ですこと」


「君は?」


エルゼヴィーラは足を止めた。


王宮の窓から、光が漏れている。きっと広間では、彼女の不在に気づいた貴族たちがざわめいている。母は青ざめ、父は表情を消し、王妃は怒りを飲み込み、エリアスは彼女を心配しているだろう。


戻れば、まだ間に合うかもしれない。


赤く染めたドレスを着替え、泣いたふりをして、少し迷ってしまったと言えばいい。ノアのことは知らないと言えばいい。婚約発表は少し遅れただけで済む。王太子は彼女を許す。王妃は苦々しくも受け入れる。社交界は数日騒いで、やがて忘れる。


そして彼女は、予定通り穏やかな未来へ入る。


心臓が、ひやりと冷えた。


「わたくしは」


エルゼヴィーラは王宮を見上げた。


「檻を壊すほど野蛮ではありませんわ」


ノアが少しだけ失望したように見えた。


だが彼女は続けた。


「ですから、舞台に変えます」


ノアの目が細くなる。


「いいね」


「あなたは後ろにいて」


「主役を譲れと?」


「今夜の主役は、最初からわたくしです」


「違いない」


王宮の門番は、戻ってきたエルゼヴィーラを見て絶句した。


白薔薇の令嬢が、赤く染まっている。


しかも隣には、余興の奇術師がいる。


「ローゼンヴェル様、そのお姿は」


「婚約発表に戻りました」


「しかし」


「通しなさい」


声は荒げなかった。


それでも門番は道を開けた。


王宮の廊下へ入ると、侍女たちが悲鳴を飲み込んだ。近衛兵が戸惑い、侍従が走る。エルゼヴィーラは足を止めない。


白い大理石に、赤く染めたドレスの裾が映る。


大広間の扉の前で、エリアスが立っていた。


彼はエルゼヴィーラを見るなり、安堵した。


次に、彼女の姿を見て顔を強張らせた。


「エルゼヴィーラ」


「殿下」


「無事でよかった。皆が心配している。何があった?その格好は」


「少し、月を見ておりました」


「月を?」


「ええ。薔薇色の月を」


エリアスの視線がノアに移る。


「君は、先ほどの奇術師だな」


ノアは軽く礼をした。


「光栄です、殿下」


「なぜ彼女と一緒にいる」


「彼女が退屈していたので」


エリアスの眉が動いた。


「退屈?」


エルゼヴィーラは、エリアスを見た。


優しい人。


正しい人。


彼女を美しいものとして大切にしようとした人。


けれど、その優しさの中に、彼女の鼓動はなかった。


「殿下」


「何だ」


「今夜の発表を始めましょう」


「その姿で?」


「ええ。この姿で」


「君は混乱している。少し休んで、着替えてから」


「いいえ」


エルゼヴィーラは微笑んだ。


「戻りましたわ。終わらせるために」


エリアスの顔から血の気が引いた。


広間の扉が開かれる。


ざわめきが、一瞬で消えた。


千本の蝋燭。

数百の視線。

王妃の冷たい目。

宰相の苛立ち。

母の蒼白な顔。

父の固まった横顔。

貴族たちの好奇心。


そのすべてが、エルゼヴィーラへ向けられる。


彼女は怯まなかった。


ノアは一歩後ろに控えた。主役の位置には立たない。けれど、彼の気配は確かに背中にあった。


心臓が走っている。


それが、不思議と彼女を支えた。


王妃が口を開いた。


「ローゼンヴェル嬢。これは何の真似です」


「婚約発表に参りました」


「そのような姿で、王家の広間に?」


「ええ。今夜のわたくしには、この色が似合うようですので」


ざわめきが戻る。


「赤いわ」

「白薔薇のドレスではなかったの?」

「奇術師を連れている」

「正気なのか」

「王太子殿下を侮辱しているのでは」


エルゼヴィーラは、ゆっくりと広間の中央へ進んだ。


床の上に、月光が差している。


薔薇色の月の光だった。


エリアスが彼女の前に立つ。


「エルゼヴィーラ。今ならまだ間に合う。皆の前で少し気分が悪くなったと言えばいい。私が取りなす」


「殿下は、いつもお優しい」


「君を守りたいんだ」


「ええ。存じております」


「なら」


「ですが、わたくしは守られたいのではありません」


エリアスの唇が止まった。


「わたくしは、生きたいのです」


広間が静まり返った。


エルゼヴィーラは王妃へ向き直った。


「王妃陛下。婚約発表の前に、一つだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「何を」


「王家は、わたくしを迎えたいのでしょうか。それとも、ローゼンヴェル家をお求めなのでしょうか」


空気が凍った。


宰相が一歩前に出る。


「ローゼンヴェル嬢。言葉が過ぎますぞ」


「では、言葉ではなく書面で」


エルゼヴィーラが手を上げる。


ノアが、どこからともなく数枚の書状を出した。


奇術のように。


いや、彼にとっては奇術そのものだったのだろう。


赤い花弁が舞った。


蝋燭の火が揺れる。


一枚、二枚、三枚。


王家の印がある書状の写しが、貴族たちの前へ落ちていく。


「これは」

「財産管理協定?」

「ローゼンヴェル家の港湾権を」

「婚姻成立後に王家監督下へ」

「宰相閣下の署名が」


ざわめきが波になる。


王妃の顔が歪んだ。


「控えなさい」


「控えませんわ」


エルゼヴィーラの声は、広間の端まで澄んで届いた。


「わたくしを王家へ迎えるための婚約ではなく、わたくしを通じてローゼンヴェルを王家に取り込むための婚約。そのように理解しても?」


宰相が怒鳴った。


「国のためだ!」


その言葉で、エルゼヴィーラはむしろ安堵した。


隠しきれない本音ほど、扱いやすいものはない。


「ええ。国のためなのでしょう」


彼女はエリアスを見た。


「殿下も、そうお考えでしたのね」


エリアスは何も言わなかった。


その沈黙が、答えだった。


「私は、君を利用しようとしたわけではない」


「ええ。殿下はそうなのでしょう」


「なら、なぜそんな目で見る」


「殿下。わたくしは、あなたが嫌いだったわけではありません」


エリアスの表情が揺れた。


「なら、なぜ」


「あなたといる未来には、鼓動がありませんでした」


彼は理解できない顔をした。


当然だった。


エリアスにとって、穏やかな未来は幸福だった。乱れのない暮らしは愛だった。危険から遠ざけることは優しさだった。


彼は間違った怪物ではない。


優しさを正しく使えない王子だった。


「わたくしは、失うことなど怖くありません」


エルゼヴィーラは続けた。


「婚約を失うことも、王太子妃の座を失うことも、社交界の評判を失うことも、さほど恐ろしくはありません。失うものなど、これまでもいくらでもございましたもの」


母が息を呑む音がした。


父が目を伏せた。


「けれど、何も失わず、何も燃えず、何も疼かず、ただ穏やかに終わる未来だけは怖いのです」


広間の誰かが、小さく息をした。


「殿下は、わたくしを大切にしてくださいました。ですが、わたくしを生かしてはくださいませんでした」


エリアスの顔が、初めて痛みに歪んだ。


「私は、君を閉じ込めたかったわけじゃない」


「存じております」


エルゼヴィーラは優しく言った。


「殿下は、扉のない部屋を愛と呼んだだけですわ」


その瞬間、王宮の空気が変わった。


誰もが彼女を見ていた。


美しい令嬢としてではない。


傷ついた女としてでもない。


舞台の中央に立ち、自分の未来を奪い返す者として。


王妃が立ち上がった。


「ローゼンヴェル嬢。あなたは自分が何を捨てようとしているのか、分かっているのですか」


「ええ」


「王太子妃の座を捨てるのですよ」


「はい」


「王宮で守られる未来を捨てるのですよ」


「はい」


「あなたが望めば、何不自由ない人生が」


「退屈ですわ」


はっきりと告げた。


広間が沈黙した。


エルゼヴィーラは笑った。


「何不自由ない人生。穏やかな未来。美しい部屋。優しい夫。王家の名。皆様が羨む幸福。けれど、それがわたくしを少しずつ殺すのなら、そんな未来はいりません」


宰相が顔を赤くした。


「愚かな。若い娘の一時の激情で」


「生温い方ですこと」


言葉が、刃のように落ちた。


ノアが小さく笑う気配がした。


エルゼヴィーラは手を差し出す。


ノアが、その手に一輪の薔薇を置いた。


白い薔薇だった。


彼女が息を吹きかけると、薔薇の縁が赤く染まった。火がついたわけではない。けれど、まるで内側から灼けるように、赤が花弁へ広がっていく。


「わたくしは今夜、王太子エリアス殿下との婚約をお受けいたしません」


エリアスが目を閉じた。


王妃が椅子の背を握りしめた。


母が泣きそうな顔をした。


父は、ゆっくりと目を開いた。


エルゼヴィーラは続けた。


「ローゼンヴェル家の娘としての責務は果たします。家を売り渡す道具としてではなく、ローゼンヴェルの名を背負う者として」


宰相が何か言おうとした。


その前に、父が口を開いた。


「エルゼヴィーラ」


広間中が侯爵を見た。


ローゼンヴェル侯爵は、しばらく娘を見つめていた。


「……その書状は、本物か」


「写しです。本物は安全な場所に」


ノアが優雅に礼をした。


「念のため、複数の場所に」


侯爵は小さく息を吐いた。


それから王妃へ向き直る。


「陛下。この件について、後日正式な説明を求めます」


王妃の顔が青ざめた。


エルゼヴィーラは父を見た。


怒られると思っていた。


勘当されるかもしれないとも思っていた。


けれど父は、彼女を責めなかった。


ただ、ひどく疲れた顔で言った。


「帰る場所は残しておく」


それだけだった。


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


エルゼヴィーラは頭を下げる。


「ありがとうございます、お父様」


エリアスが、最後に彼女の前へ立った。


「彼を選ぶのか」


ノアの気配が、背中で静かになった。


エルゼヴィーラは振り返らなかった。


「わたくしが選ぶのは、彼そのものではありません」


エリアスの目が揺れる。


「では、何を」


「彼といる時に騒ぐ、わたくしの鼓動です」


それは残酷な答えだった。


けれど、嘘ではなかった。


ノアを愛していると言うには、まだ早い。


彼のことを何も知らない。明日どこへ行くのかも、何を隠しているのかも、本当の目的がどこまでなのかも知らない。


それでも、彼といると心臓が走る。


危険で。

不確かで。

腹立たしくて。

恐ろしくて。

退屈ではない。


エリアスは、長い沈黙の後で言った。


「君は、それで幸せになれるのか」


「わかりませんわ」


エルゼヴィーラは微笑む。


「けれど、わからない未来の方が、今はずっと美しい」


エリアスはもう何も言わなかった。


エルゼヴィーラは広間に背を向けた。


貴族たちは道を開ける。


誰も止めなかった。


いや、止められなかった。


ノアが隣に並ぶ。


「見事な幕引きだった」


「幕引きではありませんわ」


「では?」


エルゼヴィーラは赤い薔薇を手に、広間の扉へ向かう。


「開演です」


王宮を出ると、夜風が熱くなった頬を撫でた。


気づけば、手が震えていた。


緊張が解けたのだろうか。


怒りだろうか。


恐怖だろうか。


どれでもよかった。


震えているということは、自分がまだ生きているということだった。


王宮の階段を下りたところで、ノアが立ち止まった。


「本当にいいのか」


エルゼヴィーラも足を止める。


「何が?」


「今ならまだ戻れる」


「戻れるとお思い?」


「君なら戻れる。王太子はまだ君を完全には諦めていない。侯爵も帰る場所は残すと言った。王妃は怒るだろうが、王家は君を失う方が痛い。社交界は騒ぐが、どうせ新しい噂が出れば忘れる」


「随分と現実的ですのね」


「奇術師は現実を知らないと人を騙せない」


「夢を見せるのでは?」


「夢を見せるには、相手がどこから目を逸らしたいか知る必要がある」


エルゼヴィーラは彼を見た。


月光の下で、ノアの顔は半分だけ明るい。


軽薄で、危険で、正体不明。


けれど今は、少しだけ真剣だった。


「あなたは、わたくしに戻ってほしいの?」


「戻ってほしくはない」


「なら、なぜ聞くの」


「君が自分の足で来たのか、確かめたかった」


エルゼヴィーラは少し笑った。


「失礼な方」


「知ってる」


「わたくしは、連れ出されたのではありません」


「そうだな」


「攫われたのでもありません」


「もちろん」


「あなたに救われたのでもありません」


「そこは少し残念だ」


「図々しい」


ノアが笑う。


その笑みに、また胸が騒いだ。


エルゼヴィーラは手袋を外した。黒い薄手の手袋。サロメが嵌めたものだ。


素手になった指先を、ノアの胸元へそっと置く。


ノアが動きを止めた。


布越しに、彼の鼓動があった。


思ったよりも速い。


「あなたも、走っておりますのね」


「君のせいだ」


「わたくしのせいになさるの?」


「君が王宮を舞台に変えるからだ」


「あなたが薔薇を燃やすからでしょう」


「君が燃えたがっていた」


「勝手なことを」


「当たってるだろ」


エルゼヴィーラは否定しなかった。


ノアの鼓動の上に、指を置いたまま、彼女は薔薇色の月を見上げた。


王宮は背後にある。


戻る道はある。


けれど、もう同じ自分では戻れない。


白薔薇のドレスを着て、穏やかに微笑み、王太子の隣で未来を受け入れる自分は、あの広間に置いてきた。


「帰らないのか?」


ノアが聞いた。


エルゼヴィーラは月を見たまま答える。


「帰る場所ならありますわ」


「なら、なぜ帰らない」


「帰らないのではありません」


彼女はノアを見る。


「もう、帰れないのです」


ノアの笑みが消えた。


それは、彼が初めて見せる素顔に近かった。


「俺のせいか?」


「さあ」


エルゼヴィーラは彼の胸元から指を離した。


「あなたが勝手にわたくしの鼓動を走らせたのでしょう」


「責任を取れと?」


「いいえ」


彼女は微笑んだ。


今夜、大広間で浮かべていたどの笑みとも違うものだった。


「どうぞこのままご勝手に」


ノアは一瞬だけ黙り、それから低く笑った。


「ひどい女だ」


「今頃お気づき?」


「最初から知ってた」


「では逃げればよろしいのに」


「逃げるには、少し遅い」


「帰れないのは、あなたも?」


「たぶんな」


エルゼヴィーラは歩き出した。


王宮とは反対の方向へ。


劇場へ続く夜の道へ。


白かった薔薇は赤く染まり、靴は泥を踏み、髪には夜風が絡んでいる。社交界は明日、彼女を愚かだと笑うだろう。王妃は怒り、宰相は策を巡らせ、王太子は傷つき、侯爵家は揺れる。


それでも、胸は騒いでいた。


怖かった。


こんなにも未来が怖いと思ったのは、初めてだった。


何が待つのか分からない。

誰を失うのか分からない。

ノアがいつまで隣にいるのかも分からない。

この夜の先に幸福がある保証など、どこにもない。


けれど、鼓動がある。


それだけで、退屈な未来よりずっと鮮やかだった。


「エルゼ」


ノアが呼んだ。


今度は咎めなかった。


「何ですの」


「明日の朝、後悔するかもしれないぞ」


「でしょうね」


「いいのか」


「ええ」


彼女は振り返らずに答えた。


「後悔するほどのことを、ようやく選べたのですもの」


ノアが追いつき、隣に並ぶ。


「劇場へ戻るか?」


「その前に、サロメに紅を返さなければ」


「返しても、また塗られるぞ」


「でしょうね」


「嫌か?」


「いいえ」


エルゼヴィーラは、赤く染まった薔薇を指先で回した。


「今夜のわたくしには、あの色が似合うようですから」


ノアが笑った。


「サロメが聞いたら気に入る」


「気に入られたいわけではありませんわ」


「気に入られるさ。あの女は、舞台に上がる女が好きだ」


「では、なおさら戻らなければなりませんね」


「今夜の演目は終わりまして?」


「いいや」


「なら、戻りましょう」


「客席に?」


エルゼヴィーラは彼を横目で見た。


「まさか」


ノアが笑う。


「舞台か」


「ええ」


薔薇色の月が、王都の屋根を照らしていた。


その光の下で、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは、初めて自分の未来を怖いと思った。


怖いから、進む。


怖いから、欲しい。


怖いから、生きている。


王宮の奥で穏やかに枯れるはずだった白薔薇は、今夜、赤く灼けた。


そして彼女は知った。


恐怖と恋は、同じ鼓動で鳴ることがあるのだと。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回も、とある曲をモチーフにして書いてみました。


直接そのままなぞるというより、曲から受け取った「退屈な未来を捨てる衝動」「危うい相手に惹かれてしまう鼓動」「美しく整えられた場所から、赤く灼ける夜へ踏み出す感じ」を、悪役令嬢ものとして形にした作品です。


エルゼヴィーラにとって怖かったのは、何かを失うことではなく、何も起こらないまま綺麗に閉じ込められていく未来でした。


優しい王太子。

美しい王宮。

誰もが羨む婚約。


それでも、そこに自分の鼓動がないのなら、彼女はきっと薔薇色の月の下へ歩いていくのだと思います。


ノアとの関係も、まだ恋と呼ぶには危うく、不確かで、綺麗なだけのものではありません。

けれど、だからこそ彼女は惹かれたのだと思います。


恐怖と恋が、同じ鼓動で鳴る夜。


そんな物語として楽しんでいただけていたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
赤と白の対比が面白かった。 >「見事な幕引きだった」 >「開演です」 普通は『「終演だった」→「開演です」』か『「幕引きだった」→「幕開けです」』だと思うけど、 ずらしているのは何か元ネタあるのかな?…
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