薔薇色の月が昇る夜、私は退屈な未来を捨てた
薔薇色の月が昇っていた。
白くもなく、赤くもなく、夜空の底で淡く滲むような月だった。まるで誰かが銀の皿に薔薇の花弁を擦りつけ、そのまま空へ吊るしたような色をしていた。
王宮の大広間には、千本の蝋燭が灯されている。
金の燭台。
磨き上げられた大理石。
香水と葡萄酒。
絹の衣擦れ。
控えめな笑い声。
作法に縛られた祝福。
そのすべての中心に、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは立っていた。
白薔薇のドレスは、彼女のためだけに仕立てられたものだった。肩から胸元へかけて繊細なレースが重なり、腰には真珠を縫い込んだリボンが落ちる。裾には小さな白薔薇が散らされ、歩くたびに花が床を撫でる。
誰もが美しいと言った。
「まるで月の女神だわ」
「ローゼンヴェル侯爵令嬢は、今夜もお人形のように美しい」
「王太子妃にこれほど相応しい方はいらっしゃらない」
「殿下もお幸せね」
「これ以上ない未来だわ」
これ以上ない未来。
その言葉を聞くたび、エルゼヴィーラの胸の奥は、少しずつ冷えていった。
笑みは崩さない。
目元を柔らかく。
顎を少しだけ引き。
視線は高すぎず、低すぎず。
声は澄ませて、感情は乗せすぎず。
褒め言葉には感謝を。
羨望には謙遜を。
探りには微笑みを。
そうしていれば、誰も彼女が退屈していることに気づかない。
今夜の余興は、王都で評判の奇術師によるものだった。
白い薔薇が炎に包まれた。燃え尽きると思った瞬間、花弁の赤が煙の中で月の形に変わり、天井近くへふわりと浮かぶ。
貴族たちは拍手した。
王妃は上品に頷き、王太子は穏やかに微笑んだ。宰相は隣に控える灰色の侍従へ目配せをした。
その一瞬、侍従の手から、小さな黒い封筒が奇術師の手へ滑り込んだ。
拍手の陰に紛れるような、ほんのわずかな動きだった。
誰も気づかない。
けれどエルゼヴィーラだけは、燃える薔薇から目を逸らせないまま、その指先の震えを見ていた。
灼けた薔薇は、苦しそうなのに美しかった。
「エルゼヴィーラ」
名を呼ばれて、彼女は振り返った。
王太子エリアス・ヴァン・レインが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。金糸の刺繍が入った礼服。淡い金髪。青い瞳。育ちのよさが仕草の端々に滲む、王国で最も美しい未来を約束された男。
「少し、外の空気を吸わないか」
「喜んで」
エルゼヴィーラは差し出された手に指先を預けた。
広間の視線が、二人を追う。
今夜、正式な婚約発表が行われる。
侯爵令嬢エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは、王太子エリアスの婚約者となる。
次期王妃。
王国の薔薇。
王家に迎えられる月。
誰もが、その未来を疑っていなかった。
庭園へ出ると、夜風がレースの袖を撫でた。噴水の水音が遠く聞こえる。薔薇の香りが濃く、月光に濡れた花弁は血の気を失った唇のようにも見えた。
エリアスはしばらく黙って歩いた。
沈黙すら礼儀正しい人だった。
やがて、彼は足を止めた。
「今夜の君は、いつにも増して美しい」
「ありがとうございます、殿下」
「だが、少し疲れているように見える」
エルゼヴィーラは微笑んだ。
「慣れない祝福の多さに、少しだけ」
「結婚したら、君をこんなふうに人目へ晒し続けることはしない」
エルゼヴィーラの指先が、ほんのわずかに止まった。
エリアスはそれに気づかない。
「君は注目を浴びすぎる。美しいから、皆が見る。家柄もある。王宮に入れば、さらに人目は増えるだろう。だが、私は君を守りたい。煩わしい社交も、無遠慮な視線も、噂話も、できるだけ遠ざける」
薔薇の香りが、急に重くなった。
「王宮の奥で、穏やかに暮らせばいい。君は無理に笑う必要もない。何かに心を乱される必要もない。怖いものからは、私が遠ざける」
優しい言葉だった。
きっと、誰が聞いてもそう思う。
けれどエルゼヴィーラには、その言葉が美しい棺の蓋のように聞こえた。
穏やか。
守る。
遠ざける。
乱されない。
怖いもののない未来。
それは、何も起こらない未来だった。
心臓が跳ねることもなく、息を呑むこともなく、怒りで手が震えることもなく、誰かの視線に血が熱くなることもなく、ただ静かに、整えられた部屋の中で花瓶の花のように生きる。
「エルゼヴィーラ?」
「殿下は、わたくしを随分と大切にしてくださるのですね」
「当然だ。君は私の未来の妃だ」
未来。
その言葉だけが、鋭く胸に刺さった。
エルゼヴィーラは恐怖を知っていた。
幼い頃から、何かを失うことには慣れていた。好きだった絵本は王妃教育に不要だと取り上げられた。走ることははしたないと止められた。大声で笑う癖は直された。怒りは醜いと教えられた。欲しがることは浅ましいと躾けられた。
一つずつ失った。
それでも怖くはなかった。
失うことは、ただ軽くなることだった。
けれど今、目の前にいる男が、穏やかな声で自分の未来を語る。
その未来には、鼓動がなかった。
「もうすぐ発表の時間だ」
エリアスは彼女の手を取った。
「戻ろう」
エルゼヴィーラは、その手を見た。
綺麗な手だった。剣を握ることも、泥を掴むことも、誰かを乱暴に引き寄せることも知らない手。
優しくて、正しくて、生温い手。
「少しだけ、月を見てから戻ってもよろしいでしょうか」
「一人で?」
「ええ。ほんの少し」
エリアスは迷ったが、すぐに頷いた。
「わかった。あまり冷えないように」
「お気遣い、痛み入ります」
彼が去っていく。
白薔薇のドレスが、夜風に揺れる。
エルゼヴィーラは庭園の奥へ歩いた。
戻るべきだった。
婚約発表へ。
祝福へ。
王妃になる未来へ。
だが、足は戻らなかった。
庭園の果て、王宮の裏門近くに、ひときわ暗い木陰があった。
そこに男が立っていた。
黒髪。
黒い外套。
細身の長い手足。
笑っているようで、目だけは笑っていない。
王宮の貴族ではない。
けれど、夜の中に立つ姿は、誰よりもこの場に馴染んでいた。
「婚約発表の主役が、こんなところで迷子か」
エルゼヴィーラは足を止めた。
「不躾な方」
「褒め言葉として受け取っておく」
「どなた?」
男は胸に手を当て、芝居がかった礼をした。
「ノア・グレイヴ。今夜の余興に呼ばれた奇術師だ」
「奇術師」
「薔薇を燃やして月に変えた男、と言えば思い出すか」
「見事な奇術でしたわ」
「覚えていて光栄だ」
「それと、拍手の陰で宰相閣下の侍従から封筒を受け取った方、とも」
ノアの目が、ほんのわずかに細くなった。
「よく見てるな」
「退屈な夜は、他人の小さな不自然くらいしか慰めがありませんもの」
「怖い令嬢だ」
「あなたほどではありませんわ」
ノアは少し笑った。
「手品じゃない。奇術だ」
「違いが?」
「手品は人を騙す。奇術は人に見たい夢を見せる」
「わたくしが見たい夢など、ご存じですの?」
ノアは少し笑った。
「少なくとも、王宮の奥で穏やかに枯れる夢じゃない」
エルゼヴィーラの呼吸が止まった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
けれどノアはそれを見逃さなかった。
「君は守られる花じゃない。噛みつく薔薇だろう」
胸の奥で、何かが走った。
それは怒りではなかった。
恐怖でもない。
もっと熱く、もっと速く、もっとどうしようもないものだった。
「随分と勝手なことをおっしゃるのね」
「当たっているから怒った?」
「怒ってなどおりません」
「では、退屈していた?」
エルゼヴィーラは笑った。
今夜初めて、作法ではない笑みだった。
「あなた、首を刎ねられたいの?」
「今の王宮よりは刺激的だ」
「命知らずですこと」
「君ほどじゃない。婚約発表の直前に裏門まで来る令嬢なんて、なかなかいない」
遠くで、彼女を探す声がした。
「ローゼンヴェル様」
「エルゼヴィーラ様」
「どちらに」
ノアが片手を差し出した。
「今夜だけ、退屈じゃない場所へ連れていってやる」
「わたくしを攫うおつもり?」
「君が望むなら」
「望まなければ?」
「俺は煙みたいに消える。君は広間へ戻る。王太子は安心する。貴族たちは祝福する。君は穏やかで、何一つ乱れない未来へ行く」
それは、ひどく恐ろしい話だった。
エルゼヴィーラは差し出された手を見た。
手袋をしていない手だった。指先に小さな火傷の跡がある。赤い染料が爪の横に残っている。生きている手だと思った。
「平坦な人生がお好きなら、わたくしは戻るべきなのでしょうね」
「好きなのか?」
「嫌いですわ」
ノアの口元が上がる。
エルゼヴィーラは手を伸ばさなかった。
代わりに、彼の横を通り過ぎ、裏門へ向かう。
「エスコートなさるのでしょう?」
ノアが片眉を上げた。
「命令か?」
「いいえ」
彼女は振り返る。
薔薇色の月が、その顔を淡く染めていた。
「どうぞこちらへご勝手に」
ノアは、一拍遅れて笑った。
「最高だな、薔薇色の月」
「その呼び名は嫌いです」
「じゃあ、エルゼ」
「許可しておりません」
「今夜だけだ」
「今夜だけなら、なおさら許可いたしませんわ」
言いながら、エルゼヴィーラの胸は高鳴っていた。
王宮の裏門を抜ける。
それだけのことなのに、世界の縁を越えたような気がした。
王都の夜は、王宮の夜とはまったく違った。
馬車の轍。
濡れた石畳。
酒場から漏れる笑い声。
屋台の香辛料。
焦げた砂糖の匂い。
遠くで鳴る楽器。
言い争う男女。
寝ぼけた犬。
赤いランタン。
すべてが近かった。
すべてが生きていた。
エルゼヴィーラはドレスの裾を持ち上げて歩いた。白い靴に泥が跳ねる。普通なら侍女が悲鳴を上げる。母なら眉をひそめる。王妃なら不適切だと言う。
けれど、彼女は少しも不快ではなかった。
「楽しいか?」
ノアが隣で聞いた。
「汚れていますわ」
「答えになっていない」
「楽しいと言ったら、あなたは得意になるでしょう」
「もうなってる」
「では申し上げません」
ノアは声を立てて笑った。
その笑い方は、王宮の誰とも違った。大きすぎるわけではない。下品でもない。ただ、感情を押し殺していない。
エルゼヴィーラは、その笑い声に少し苛立った。
そして、それ以上に惹かれた。
王都劇場は、裏通りの奥にあった。
王宮の大広間に比べれば小さい。外壁は古く、入口の柱には傷がある。だが赤い幕がかかった扉の前には、灯りがいくつも吊るされ、人々が出入りしていた。
「ここが退屈ではない場所?」
「今夜はな」
「明日は?」
「明日の保証が欲しいなら、王太子に戻れ」
エルゼヴィーラはノアを見た。
「あなた、嫌な言い方がお上手ね」
「君もな」
劇場の中は熱気に満ちていた。
香水、酒、汗、化粧、火薬、赤い布、古い木材。王宮の空気が磨かれた銀なら、ここは燃える炭のようだった。
舞台の奥から、女の声がした。
「ノア。遅い」
赤い衣装を纏った女が、鏡台の前に座っていた。艶やかな黒髪を結い上げ、唇には深い紅を差している。鋭い目元。美しいが、近づけば切れそうな女。
「客を拾った」
「捨ててきなさい」
エルゼヴィーラは瞬いた。
ノアが笑う。
「王宮からだぞ」
「なおさらよ。飽きたお嬢様が、一晩だけ悪い夢を見る場所じゃないわ」
女は立ち上がり、エルゼヴィーラを上から下まで見た。
「白薔薇のドレス。真珠。王家の紋章入りの手袋。まあ、眩しいこと」
「あなたは?」
「サロメ・ベルナール。この劇場の歌姫。泣きに来たなら帰りなさい。ここでは涙なんて流行らないわ」
エルゼヴィーラは静かに笑った。
「安心なさって。わたくし、泣き方を忘れてしまいましたの」
サロメの目が、ほんの少し変わった。
「……ふうん」
ノアが舞台袖の机から黒い封筒を取った。
「サロメ。例の書状は?」
「隠してあるわ。まさか本当に使う気?」
「使うかどうかは、彼女が決める」
エルゼヴィーラは視線を向けた。
「わたくし?」
ノアは封筒を開いた。中には数枚の書状が入っていた。王家の印、宰相の署名、ローゼンヴェル家の財産管理に関する文言。
「燃やせ、と?」
エルゼヴィーラは言った。
ノアが笑う。
「そこまで読めるのか」
「先ほどの侍従の手が震えておりましたもの。祝宴の余興に渡すには、あまりに怯えた手でしたわ」
「王宮の裏では、紙も人もよく燃える。俺は薔薇を燃やす役で呼ばれた。ついでに、余計な写しも燃やしておけとさ」
「引き受けたの?」
「報酬は受け取った」
「最低ですわね」
「燃やしてはいない」
「ますます最低ですわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
サロメが鼻で笑った。
「その男はね、金で雇われて、面白そうな方へ裏切るのよ。信用しない方がいいわ」
「ご忠告、痛み入ります」
エルゼヴィーラは一枚目を読み、二枚目で目を止め、三枚目で笑った。
冷たい笑いだった。
「なるほど。わたくしを迎えるのではなく、ローゼンヴェルを迎えるおつもりでしたのね」
「王家は金が要る。ローゼンヴェル家には港と鉱山と商会への影響力がある。婚約は綺麗な包装紙だ」
「殿下は?」
「知っている」
一瞬だけ、胸の奥に痛みが走った。
だが、それは失恋の痛みではなかった。
やはり、という納得に近かった。
エリアスは悪人ではない。彼はきっと「国のため」だと信じている。エルゼヴィーラを傷つけるつもりはない。むしろ自分が守るのだから問題ないと思っている。
その方が、ずっと残酷だった。
「これを使えば、君は婚約を潰せる」
ノアが言った。
「王宮をひっくり返せる。君を飾りにしようとした連中を、まとめて煙に巻ける」
「捨てたいのは殿下ではありませんわ」
「じゃあ、何を捨てたい?」
エルゼヴィーラは書状を閉じた。
劇場の舞台では、赤い幕が静かに揺れていた。
その向こうに、客席がある。
人々が息を潜めて待つ場所。
嘘が真実になる場所。
醜いものすら、美しく見せられる場所。
エルゼヴィーラは、自分の白薔薇のドレスを見下ろした。
「鼓動のない未来です」
サロメが笑った。
「いい返事」
彼女は鏡台へ戻り、紅を一本取った。
「なら、その格好では駄目ね」
「何をなさるおつもり?」
「作り替えるのよ。王妃になるための令嬢から、今夜を始める女へ」
サロメは容赦がなかった。
白薔薇のドレスの余分なリボンを外し、裾を少し持ち上げ、内側に赤い布を重ねる。清らかすぎる胸元のレースをほどき、首元を開ける。王家の紋章入りの手袋は外され、代わりに黒い薄手の手袋が嵌められる。
白薔薇の飾りには、赤い染料が滲ませられた。
純白だった花が、傷を負ったように赤くなる。
エルゼヴィーラは鏡の中の自分を見た。
まだ侯爵令嬢だった。
けれど、王家のために整えられた白い花ではない。
月の下で赤く灼けた薔薇だった。
サロメが唇に紅を差す。
深い赤。
「泣くつもりなら、この色は似合わないわ」
「では、笑います」
「怒鳴るのは?」
「品がありません」
「刺すのは?」
「必要なら、言葉で」
サロメは満足げに頷いた。
「いいわ。あなた、舞台向きよ」
ノアが壁にもたれて見ていた。
いつもの軽薄な笑みを浮かべているのに、目は静かだった。
「何か?」
エルゼヴィーラが聞く。
「いや」
「お似合いかしら」
「似合いすぎて腹が立つ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「手が震えているぞ」
エルゼヴィーラは、自分の指先を見た。
本当に少し震えていた。
恐怖だろうか。
違う。
たぶん、鼓動だ。
「怖いか?」
ノアが聞いた。
「ええ」
「王宮に戻るのが?」
「いいえ」
「婚約を失うのが?」
「いいえ」
「では?」
エルゼヴィーラは鏡越しにノアを見た。
「この鼓動を知ってしまったことが」
ノアの笑みが、ほんの少し消えた。
その顔を見て、エルゼヴィーラはさらに胸が騒ぐのを感じた。
彼を失うことは、まだ怖くない。
明日消える男なら、それでもいい。
けれど、この鼓動のない未来へ戻ることは、もう怖かった。
劇場の外では、月がさらに赤く滲んでいた。
王宮へ戻る道を、エルゼヴィーラはノアと並んで歩いた。
来た時とは違う道だった。
裏通りを抜け、橋を渡り、王宮へ続く坂道を上がる。遠くに見える王宮は、夜空の下で白く輝いていた。美しく、冷たく、巨大な魔物のようだった。
「あれが君の檻か」
ノアが言った。
「檻というには、あまりに美しいでしょう」
「綺麗な檻ほど厄介だ」
「経験がおあり?」
「俺は檻に入る前に壊す」
「野蛮ですこと」
「君は?」
エルゼヴィーラは足を止めた。
王宮の窓から、光が漏れている。きっと広間では、彼女の不在に気づいた貴族たちがざわめいている。母は青ざめ、父は表情を消し、王妃は怒りを飲み込み、エリアスは彼女を心配しているだろう。
戻れば、まだ間に合うかもしれない。
赤く染めたドレスを着替え、泣いたふりをして、少し迷ってしまったと言えばいい。ノアのことは知らないと言えばいい。婚約発表は少し遅れただけで済む。王太子は彼女を許す。王妃は苦々しくも受け入れる。社交界は数日騒いで、やがて忘れる。
そして彼女は、予定通り穏やかな未来へ入る。
心臓が、ひやりと冷えた。
「わたくしは」
エルゼヴィーラは王宮を見上げた。
「檻を壊すほど野蛮ではありませんわ」
ノアが少しだけ失望したように見えた。
だが彼女は続けた。
「ですから、舞台に変えます」
ノアの目が細くなる。
「いいね」
「あなたは後ろにいて」
「主役を譲れと?」
「今夜の主役は、最初からわたくしです」
「違いない」
王宮の門番は、戻ってきたエルゼヴィーラを見て絶句した。
白薔薇の令嬢が、赤く染まっている。
しかも隣には、余興の奇術師がいる。
「ローゼンヴェル様、そのお姿は」
「婚約発表に戻りました」
「しかし」
「通しなさい」
声は荒げなかった。
それでも門番は道を開けた。
王宮の廊下へ入ると、侍女たちが悲鳴を飲み込んだ。近衛兵が戸惑い、侍従が走る。エルゼヴィーラは足を止めない。
白い大理石に、赤く染めたドレスの裾が映る。
大広間の扉の前で、エリアスが立っていた。
彼はエルゼヴィーラを見るなり、安堵した。
次に、彼女の姿を見て顔を強張らせた。
「エルゼヴィーラ」
「殿下」
「無事でよかった。皆が心配している。何があった?その格好は」
「少し、月を見ておりました」
「月を?」
「ええ。薔薇色の月を」
エリアスの視線がノアに移る。
「君は、先ほどの奇術師だな」
ノアは軽く礼をした。
「光栄です、殿下」
「なぜ彼女と一緒にいる」
「彼女が退屈していたので」
エリアスの眉が動いた。
「退屈?」
エルゼヴィーラは、エリアスを見た。
優しい人。
正しい人。
彼女を美しいものとして大切にしようとした人。
けれど、その優しさの中に、彼女の鼓動はなかった。
「殿下」
「何だ」
「今夜の発表を始めましょう」
「その姿で?」
「ええ。この姿で」
「君は混乱している。少し休んで、着替えてから」
「いいえ」
エルゼヴィーラは微笑んだ。
「戻りましたわ。終わらせるために」
エリアスの顔から血の気が引いた。
広間の扉が開かれる。
ざわめきが、一瞬で消えた。
千本の蝋燭。
数百の視線。
王妃の冷たい目。
宰相の苛立ち。
母の蒼白な顔。
父の固まった横顔。
貴族たちの好奇心。
そのすべてが、エルゼヴィーラへ向けられる。
彼女は怯まなかった。
ノアは一歩後ろに控えた。主役の位置には立たない。けれど、彼の気配は確かに背中にあった。
心臓が走っている。
それが、不思議と彼女を支えた。
王妃が口を開いた。
「ローゼンヴェル嬢。これは何の真似です」
「婚約発表に参りました」
「そのような姿で、王家の広間に?」
「ええ。今夜のわたくしには、この色が似合うようですので」
ざわめきが戻る。
「赤いわ」
「白薔薇のドレスではなかったの?」
「奇術師を連れている」
「正気なのか」
「王太子殿下を侮辱しているのでは」
エルゼヴィーラは、ゆっくりと広間の中央へ進んだ。
床の上に、月光が差している。
薔薇色の月の光だった。
エリアスが彼女の前に立つ。
「エルゼヴィーラ。今ならまだ間に合う。皆の前で少し気分が悪くなったと言えばいい。私が取りなす」
「殿下は、いつもお優しい」
「君を守りたいんだ」
「ええ。存じております」
「なら」
「ですが、わたくしは守られたいのではありません」
エリアスの唇が止まった。
「わたくしは、生きたいのです」
広間が静まり返った。
エルゼヴィーラは王妃へ向き直った。
「王妃陛下。婚約発表の前に、一つだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何を」
「王家は、わたくしを迎えたいのでしょうか。それとも、ローゼンヴェル家をお求めなのでしょうか」
空気が凍った。
宰相が一歩前に出る。
「ローゼンヴェル嬢。言葉が過ぎますぞ」
「では、言葉ではなく書面で」
エルゼヴィーラが手を上げる。
ノアが、どこからともなく数枚の書状を出した。
奇術のように。
いや、彼にとっては奇術そのものだったのだろう。
赤い花弁が舞った。
蝋燭の火が揺れる。
一枚、二枚、三枚。
王家の印がある書状の写しが、貴族たちの前へ落ちていく。
「これは」
「財産管理協定?」
「ローゼンヴェル家の港湾権を」
「婚姻成立後に王家監督下へ」
「宰相閣下の署名が」
ざわめきが波になる。
王妃の顔が歪んだ。
「控えなさい」
「控えませんわ」
エルゼヴィーラの声は、広間の端まで澄んで届いた。
「わたくしを王家へ迎えるための婚約ではなく、わたくしを通じてローゼンヴェルを王家に取り込むための婚約。そのように理解しても?」
宰相が怒鳴った。
「国のためだ!」
その言葉で、エルゼヴィーラはむしろ安堵した。
隠しきれない本音ほど、扱いやすいものはない。
「ええ。国のためなのでしょう」
彼女はエリアスを見た。
「殿下も、そうお考えでしたのね」
エリアスは何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
「私は、君を利用しようとしたわけではない」
「ええ。殿下はそうなのでしょう」
「なら、なぜそんな目で見る」
「殿下。わたくしは、あなたが嫌いだったわけではありません」
エリアスの表情が揺れた。
「なら、なぜ」
「あなたといる未来には、鼓動がありませんでした」
彼は理解できない顔をした。
当然だった。
エリアスにとって、穏やかな未来は幸福だった。乱れのない暮らしは愛だった。危険から遠ざけることは優しさだった。
彼は間違った怪物ではない。
優しさを正しく使えない王子だった。
「わたくしは、失うことなど怖くありません」
エルゼヴィーラは続けた。
「婚約を失うことも、王太子妃の座を失うことも、社交界の評判を失うことも、さほど恐ろしくはありません。失うものなど、これまでもいくらでもございましたもの」
母が息を呑む音がした。
父が目を伏せた。
「けれど、何も失わず、何も燃えず、何も疼かず、ただ穏やかに終わる未来だけは怖いのです」
広間の誰かが、小さく息をした。
「殿下は、わたくしを大切にしてくださいました。ですが、わたくしを生かしてはくださいませんでした」
エリアスの顔が、初めて痛みに歪んだ。
「私は、君を閉じ込めたかったわけじゃない」
「存じております」
エルゼヴィーラは優しく言った。
「殿下は、扉のない部屋を愛と呼んだだけですわ」
その瞬間、王宮の空気が変わった。
誰もが彼女を見ていた。
美しい令嬢としてではない。
傷ついた女としてでもない。
舞台の中央に立ち、自分の未来を奪い返す者として。
王妃が立ち上がった。
「ローゼンヴェル嬢。あなたは自分が何を捨てようとしているのか、分かっているのですか」
「ええ」
「王太子妃の座を捨てるのですよ」
「はい」
「王宮で守られる未来を捨てるのですよ」
「はい」
「あなたが望めば、何不自由ない人生が」
「退屈ですわ」
はっきりと告げた。
広間が沈黙した。
エルゼヴィーラは笑った。
「何不自由ない人生。穏やかな未来。美しい部屋。優しい夫。王家の名。皆様が羨む幸福。けれど、それがわたくしを少しずつ殺すのなら、そんな未来はいりません」
宰相が顔を赤くした。
「愚かな。若い娘の一時の激情で」
「生温い方ですこと」
言葉が、刃のように落ちた。
ノアが小さく笑う気配がした。
エルゼヴィーラは手を差し出す。
ノアが、その手に一輪の薔薇を置いた。
白い薔薇だった。
彼女が息を吹きかけると、薔薇の縁が赤く染まった。火がついたわけではない。けれど、まるで内側から灼けるように、赤が花弁へ広がっていく。
「わたくしは今夜、王太子エリアス殿下との婚約をお受けいたしません」
エリアスが目を閉じた。
王妃が椅子の背を握りしめた。
母が泣きそうな顔をした。
父は、ゆっくりと目を開いた。
エルゼヴィーラは続けた。
「ローゼンヴェル家の娘としての責務は果たします。家を売り渡す道具としてではなく、ローゼンヴェルの名を背負う者として」
宰相が何か言おうとした。
その前に、父が口を開いた。
「エルゼヴィーラ」
広間中が侯爵を見た。
ローゼンヴェル侯爵は、しばらく娘を見つめていた。
「……その書状は、本物か」
「写しです。本物は安全な場所に」
ノアが優雅に礼をした。
「念のため、複数の場所に」
侯爵は小さく息を吐いた。
それから王妃へ向き直る。
「陛下。この件について、後日正式な説明を求めます」
王妃の顔が青ざめた。
エルゼヴィーラは父を見た。
怒られると思っていた。
勘当されるかもしれないとも思っていた。
けれど父は、彼女を責めなかった。
ただ、ひどく疲れた顔で言った。
「帰る場所は残しておく」
それだけだった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
エルゼヴィーラは頭を下げる。
「ありがとうございます、お父様」
エリアスが、最後に彼女の前へ立った。
「彼を選ぶのか」
ノアの気配が、背中で静かになった。
エルゼヴィーラは振り返らなかった。
「わたくしが選ぶのは、彼そのものではありません」
エリアスの目が揺れる。
「では、何を」
「彼といる時に騒ぐ、わたくしの鼓動です」
それは残酷な答えだった。
けれど、嘘ではなかった。
ノアを愛していると言うには、まだ早い。
彼のことを何も知らない。明日どこへ行くのかも、何を隠しているのかも、本当の目的がどこまでなのかも知らない。
それでも、彼といると心臓が走る。
危険で。
不確かで。
腹立たしくて。
恐ろしくて。
退屈ではない。
エリアスは、長い沈黙の後で言った。
「君は、それで幸せになれるのか」
「わかりませんわ」
エルゼヴィーラは微笑む。
「けれど、わからない未来の方が、今はずっと美しい」
エリアスはもう何も言わなかった。
エルゼヴィーラは広間に背を向けた。
貴族たちは道を開ける。
誰も止めなかった。
いや、止められなかった。
ノアが隣に並ぶ。
「見事な幕引きだった」
「幕引きではありませんわ」
「では?」
エルゼヴィーラは赤い薔薇を手に、広間の扉へ向かう。
「開演です」
王宮を出ると、夜風が熱くなった頬を撫でた。
気づけば、手が震えていた。
緊張が解けたのだろうか。
怒りだろうか。
恐怖だろうか。
どれでもよかった。
震えているということは、自分がまだ生きているということだった。
王宮の階段を下りたところで、ノアが立ち止まった。
「本当にいいのか」
エルゼヴィーラも足を止める。
「何が?」
「今ならまだ戻れる」
「戻れるとお思い?」
「君なら戻れる。王太子はまだ君を完全には諦めていない。侯爵も帰る場所は残すと言った。王妃は怒るだろうが、王家は君を失う方が痛い。社交界は騒ぐが、どうせ新しい噂が出れば忘れる」
「随分と現実的ですのね」
「奇術師は現実を知らないと人を騙せない」
「夢を見せるのでは?」
「夢を見せるには、相手がどこから目を逸らしたいか知る必要がある」
エルゼヴィーラは彼を見た。
月光の下で、ノアの顔は半分だけ明るい。
軽薄で、危険で、正体不明。
けれど今は、少しだけ真剣だった。
「あなたは、わたくしに戻ってほしいの?」
「戻ってほしくはない」
「なら、なぜ聞くの」
「君が自分の足で来たのか、確かめたかった」
エルゼヴィーラは少し笑った。
「失礼な方」
「知ってる」
「わたくしは、連れ出されたのではありません」
「そうだな」
「攫われたのでもありません」
「もちろん」
「あなたに救われたのでもありません」
「そこは少し残念だ」
「図々しい」
ノアが笑う。
その笑みに、また胸が騒いだ。
エルゼヴィーラは手袋を外した。黒い薄手の手袋。サロメが嵌めたものだ。
素手になった指先を、ノアの胸元へそっと置く。
ノアが動きを止めた。
布越しに、彼の鼓動があった。
思ったよりも速い。
「あなたも、走っておりますのね」
「君のせいだ」
「わたくしのせいになさるの?」
「君が王宮を舞台に変えるからだ」
「あなたが薔薇を燃やすからでしょう」
「君が燃えたがっていた」
「勝手なことを」
「当たってるだろ」
エルゼヴィーラは否定しなかった。
ノアの鼓動の上に、指を置いたまま、彼女は薔薇色の月を見上げた。
王宮は背後にある。
戻る道はある。
けれど、もう同じ自分では戻れない。
白薔薇のドレスを着て、穏やかに微笑み、王太子の隣で未来を受け入れる自分は、あの広間に置いてきた。
「帰らないのか?」
ノアが聞いた。
エルゼヴィーラは月を見たまま答える。
「帰る場所ならありますわ」
「なら、なぜ帰らない」
「帰らないのではありません」
彼女はノアを見る。
「もう、帰れないのです」
ノアの笑みが消えた。
それは、彼が初めて見せる素顔に近かった。
「俺のせいか?」
「さあ」
エルゼヴィーラは彼の胸元から指を離した。
「あなたが勝手にわたくしの鼓動を走らせたのでしょう」
「責任を取れと?」
「いいえ」
彼女は微笑んだ。
今夜、大広間で浮かべていたどの笑みとも違うものだった。
「どうぞこのままご勝手に」
ノアは一瞬だけ黙り、それから低く笑った。
「ひどい女だ」
「今頃お気づき?」
「最初から知ってた」
「では逃げればよろしいのに」
「逃げるには、少し遅い」
「帰れないのは、あなたも?」
「たぶんな」
エルゼヴィーラは歩き出した。
王宮とは反対の方向へ。
劇場へ続く夜の道へ。
白かった薔薇は赤く染まり、靴は泥を踏み、髪には夜風が絡んでいる。社交界は明日、彼女を愚かだと笑うだろう。王妃は怒り、宰相は策を巡らせ、王太子は傷つき、侯爵家は揺れる。
それでも、胸は騒いでいた。
怖かった。
こんなにも未来が怖いと思ったのは、初めてだった。
何が待つのか分からない。
誰を失うのか分からない。
ノアがいつまで隣にいるのかも分からない。
この夜の先に幸福がある保証など、どこにもない。
けれど、鼓動がある。
それだけで、退屈な未来よりずっと鮮やかだった。
「エルゼ」
ノアが呼んだ。
今度は咎めなかった。
「何ですの」
「明日の朝、後悔するかもしれないぞ」
「でしょうね」
「いいのか」
「ええ」
彼女は振り返らずに答えた。
「後悔するほどのことを、ようやく選べたのですもの」
ノアが追いつき、隣に並ぶ。
「劇場へ戻るか?」
「その前に、サロメに紅を返さなければ」
「返しても、また塗られるぞ」
「でしょうね」
「嫌か?」
「いいえ」
エルゼヴィーラは、赤く染まった薔薇を指先で回した。
「今夜のわたくしには、あの色が似合うようですから」
ノアが笑った。
「サロメが聞いたら気に入る」
「気に入られたいわけではありませんわ」
「気に入られるさ。あの女は、舞台に上がる女が好きだ」
「では、なおさら戻らなければなりませんね」
「今夜の演目は終わりまして?」
「いいや」
「なら、戻りましょう」
「客席に?」
エルゼヴィーラは彼を横目で見た。
「まさか」
ノアが笑う。
「舞台か」
「ええ」
薔薇色の月が、王都の屋根を照らしていた。
その光の下で、エルゼヴィーラ・ローゼンヴェルは、初めて自分の未来を怖いと思った。
怖いから、進む。
怖いから、欲しい。
怖いから、生きている。
王宮の奥で穏やかに枯れるはずだった白薔薇は、今夜、赤く灼けた。
そして彼女は知った。
恐怖と恋は、同じ鼓動で鳴ることがあるのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回も、とある曲をモチーフにして書いてみました。
直接そのままなぞるというより、曲から受け取った「退屈な未来を捨てる衝動」「危うい相手に惹かれてしまう鼓動」「美しく整えられた場所から、赤く灼ける夜へ踏み出す感じ」を、悪役令嬢ものとして形にした作品です。
エルゼヴィーラにとって怖かったのは、何かを失うことではなく、何も起こらないまま綺麗に閉じ込められていく未来でした。
優しい王太子。
美しい王宮。
誰もが羨む婚約。
それでも、そこに自分の鼓動がないのなら、彼女はきっと薔薇色の月の下へ歩いていくのだと思います。
ノアとの関係も、まだ恋と呼ぶには危うく、不確かで、綺麗なだけのものではありません。
けれど、だからこそ彼女は惹かれたのだと思います。
恐怖と恋が、同じ鼓動で鳴る夜。
そんな物語として楽しんでいただけていたら嬉しいです。




