第088話 第零礼拝堂の下
階段は、王都の石ではなかった。
地上の建物に使われている白い石材でもない。
下水路で見た灰色の補修石でもない。
もっと黒く、もっと古い。
灯りを向けると、表面に細い模様が浮かぶ。
それは装飾ではなかった。
石そのものに染み込んだ、術式の痕跡だ。
模様は削られていない。
彫られてもいない。
石の内側から浮いている。
まるで、この石材が最初から術式を含んで生まれたかのようだった。
俺は指を近づけかけて、止めた。
触れるな。
今は見るだけだ。
自分にそう言い聞かせる。
この地下では、好奇心も危険になる。
「王都建設以前のものです」
イリスが小さく言った。
「少なくとも、今の王城より古い。教会が作った地下施設ではありません」
「教会が利用しているもの、か」
「はい。たぶん、ずっと後から上に制度を重ねたんです」
俺たちは一列で降りていた。
先頭はセリア。
次にナギ。
俺。
イリス。
ロゼッタ。
最後尾にミュール。
ミュールは本当なら前で感知した方が動きやすい。
だが、この階段では後ろの方が重要だった。
地上から誰かが入ってきた時、最初に気づけるのは彼女だ。
「上、閉じた」
ミュールが言った。
振り返ると、階段の上の入口はもう見えない。
床石が戻ったのか。
それとも、光が届かなくなっただけなのか。
いずれにせよ、俺たちは地下にいる。
完全に。
地上の音は消えていた。
鐘も、人声も、馬車もない。
ただ、俺たちの呼吸だけがある。
その呼吸すら、階段の途中でどこかへ吸われていく。
ここは王都の地下なのに、王都から切り離されている。
地図の下にある場所。
記録の下にある場所。
制度の下にある場所。
俺たちは、そこへ足を踏み入れた。
「怖いか」
ナギが聞いた。
「怖い」
「うん」
「ナギは?」
「怖い。でも、懐かしい気もする」
彼女の声は、階段の壁に吸われるように小さかった。
東雲流の型が、この地下の封印と似ていた。
なら、ナギの一門はこの場所と何らかの関係がある。
それが誇りなのか、罪なのかはまだ分からない。
壁に刻まれた文様が増え始めた。
最初は細い線だけだった。
だが、十段ごとに形が変わる。
三本線。
丸い輪。
鎖のような連結。
剣を模した記号。
冠を模した記号。
手のひらを模した記号。
イリスが息を呑む。
「混ざっています」
「何が」
「奴隷刻印に似た所有権の文様。勇者認定に似た高出力登録。貴族血統の継承線。ジョブ認定の分類印。聖騎士誓約の補助印」
彼女は壁に触れない。
触れずに、目だけで読む。
「全部、別々の制度のはずなのに、ここでは同じ壁に刻まれています」
セリアの足が止まりかけた。
「聖騎士の誓いまで、同じ壁か」
「はい」
「神への誓いだと教えられた」
セリアの声は低い。
「だが、ここでは登録の一種か」
答える者はいなかった。
騎士道。
信仰。
誓約。
美しい言葉の下に、管理の線がある。
それを見せつけられて、セリアが怒らないはずがない。
「私が誓ったものは、何だったのだろうな」
セリアの声は、怒りよりも静かだった。
「神への忠誠。民を守る盾。弱き者を助ける剣。そう信じていた」
「それが嘘だったとは限らない」
俺が言うと、セリアは少しだけ目を伏せた。
「ああ。だから腹立たしい。誓いそのものは、私にとって本物だった。それを誰かが管理の線に接続していた」
信じたものを否定されるより、利用されていたと知る方が痛い。
セリアはその痛みを飲み込み、また前を向いた。
「貴殿」
「分かってる。今は進む」
「ああ。だが、覚えておく」
その言葉は、剣を鞘に納める音に似ていた。
今は抜かない。
だが、忘れない。
階段の途中で、ミュールが急に手を上げた。
全員が止まる。
「音がない」
「静かってことか?」
「違う。音を食べる術式がある」
ミュールは壁の影を睨む。
「普通、地下は響く。足音、息、服の擦れる音。でもここ、途中から返ってこない」
イリスが壁の文様を見た。
「監視用です。音を消すだけではなく、吸った音をどこかへ送っているかもしれません」
「つまり、聞かれている?」
「可能性があります」
ロゼッタが小声で言った。
「なら、ここから先は必要なことだけ話しましょう。固有名詞は避けます」
「俺の名前も?」
「はい。登録名として拾われるかもしれません」
名前すら危険。
その事実が、この地下の異常さを物語っていた。
ロゼッタはすぐに呼び方を変えた。
「前衛、進行を。鍵役、右側の壁を確認。観測役、発光記録。後衛、背後警戒」
「俺は?」
「中心です」
「役名になってない」
「あなたの分類を、こちらから与えない方がいい」
その判断に、ぞくりとした。
名を避ける。
役も避ける。
分類される前に、自分たちの言葉を減らす。
ロゼッタの警戒は、戦場で盾を構えるのと同じくらい実用的だった。
俺は自分の右手を見た。
階段を降りるほど、手の甲の熱が強くなる。
痛みではない。
呼ばれている感覚だ。
だが、その呼び声に返事をしてはいけない。
使っていいか。
俺は心の中で、何度も確認文を繰り返した。
誰に対してでもない。
自分を地下の声へ渡さないために。
階段は長かった。
王都の下に、これほど深い空間があるとは思わなかった。
下水路の匂いはない。
土の湿りも少ない。
あるのは、冷えた石と、古い魔力と、時々壁の奥を走る淡い光だけ。
それは血管のように見えた。
王都という巨大な身体の下で、制度という血を流す管。
その中心へ、俺たちは近づいている。
壁の光は、時々俺の手の熱と同じ拍子で瞬いた。
偶然だと思いたかった。
だが、イリスがちらりとこちらを見るたび、その望みは薄くなる。
地下は俺を呼んでいる。
もしくは、俺の中にある何かが地下へ応答している。
どちらにしても、無視だけでは済まない。
俺は右手を胸元に押し当てた。
使う時は聞く。
地下の声ではなく、隣にいる者の声を。
「前」
セリアが囁いた。
階段の先に、広い踊り場があった。
そこには扉がある。
巨大な扉だった。
教会の大扉のように飾られてはいない。
王城の門のように威圧的でもない。
ただ、分厚い。
開くためではなく、閉じるために作られた扉。
表面には文字が刻まれていた。
イリスが灯りを近づける。
古代文字。
だが、古文書庫で見た記号と同じ系統だ。
「読めるか」
俺が聞くと、イリスは頷いた。
「読めます。けれど、嫌な言葉です」
彼女は一文字ずつ確かめるように読み上げた。
「登録なき者、通行を許さず」
その瞬間、扉の表面に淡い光が走った。
俺たちを見ている。
いや、見ているのではない。
読み取ろうとしている。
名前を。
身分を。
ジョブを。
所有権を。
登録を。
セリアが盾を構えた。
ミュールの爪がわずかに伸びる。
イリスが観測糸を握る。
ロゼッタが記録帳を開く。
ナギが刀の柄に手を置く。
俺は右手を握った。
扉は、俺たちに問いかけている。
お前たちは何者か。
登録されているのか。
許可された者なのか。
俺たちはまだ、その問いへの答えを持っていない。
だが、ここまで来た。
地上に戻るためではない。
この扉の向こうにある、世界の檻を見るために。
扉の光が、セリアの盾をなぞった。
次にミュールの首元。
イリスの胸元。
ロゼッタの手首。
ナギの刀の柄。
そして、俺の右手。
光はそこで止まった。
扉が、俺たちを一人ずつ読んでいる。
登録なき者は通さない。
なら、登録された名を拒む者たちはどうなるのか。
次の瞬間、その答えを突きつけられることになる。
扉の光は、温かくも冷たくもなかった。
ただ、正確だった。
それが怖い。
怒りでも、悪意でも、憎しみでもない。
ただ決められた手順で、俺たちを読む。
この地下にとって、セリアの誇りも、ミュールの痛みも、イリスの恐怖も、ロゼッタの契約も、ナギの喪失も、俺の迷いも関係ない。
分類できるか。
登録されているか。
通してよいか。
それだけだ。
だからこそ、ここで負けてはいけない。
扉の問いに、扉の言葉だけで答えれば、俺たちはまた誰かの記録に戻される。
元聖騎士。
暗殺者。
実験体。
債務者。
剣奴。
未分類の雑用係。
そんな名前ではなく、今の自分たちの名で立つ必要がある。
セリアが息を吸った。
ミュールが一歩、俺の横へ出る。
イリスが観測糸を握り直す。
ロゼッタが記録帳を閉じる。
ナギが刀から手を離し、代わりに胸の前で型を作る。
扉の文字が、さらに強く光った。
登録なき者、通行を許さず。
その言葉が、俺たち一人一人を裁こうとしていた。
地下の最初の審問が、始まる。
誰の記録でもない名を、ここで示すために。
俺たちは進む。




