表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
145/145

第145話 誰も俺の奴隷ではない

 解放者の家へ戻った時、門は開いていた。


 壊されたのではない。


 誰かを迎えるために、開けられていた。


 エナが最初に駆けてきた。


「おかえりなさい」


 その言葉だけで、胸の奥がほどけた。


 ダロは門の横に立ち、照れくさそうに顎を上げる。


「守ってたぞ」


 コルは薬箱を抱えている。


「怪我人、多いです。でも、順番に診ます。命令じゃなく、順番に」


 ロットは泣きながら笑っていた。


 家は混乱していた。


 食料は足りない。


 部屋も足りない。


 世界契約が壊れたことで、行き場を失った人々が次々と訪れている。


 それでも、家は檻ではなかった。


 誰かを閉じ込めるためではなく、帰ってきた者が次の行き先を考えるための場所になっていた。


 ガレスは鍛冶場で鎖を溶かしていた。


「使える鉄は捨てん」


 彼はそう言って、溶けた鉄を新しい鍋の型へ流し込む。


 鎖が鍋になる。


 その光景を見て、ミュールが少し笑った。


 マルタからは山ほど書類が届いていた。


 新しい登録制度の草案。


 奴隷制度崩壊後のギルド対応。


 不正契約の再審査。


 全部、頭が痛くなる内容だ。


 ロゼッタはそれを見て、妙に嬉しそうに言った。


「仕事ですね」


 世界はまだ混乱している。


 完全な楽園ではない。


 命令が消えたからといって、明日から全員が幸せになるわけではない。


 門の近くでは、二人の女が腕を見せ合っていた。


 一人の刻印は完全に消えている。


 もう一人の腕には、焼け跡のような痕が残っていた。


「消えなかった」


 痕の残った女が呟く。


「私だけ、まだ戻れないのかな」


「違う」


 コルが薬箱を抱えたまま言った。


「痕は傷です。命令ではありません」


 女は腕を押さえ、長い間黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


 消えた者と、痕が残った者。


 泣く者と、笑う者。


 自由になった瞬間から走り出せる者と、次の命令を待つ癖が抜けない者。


 世界契約は同じように壊れた。


 だが、人がそこから立ち上がる速さは同じではなかった。


 納屋の前では、連れてこられた元奴隷商会の男が青い顔で立ち尽くしている。


 捕まったのではない。


 逃げ場を失って、ここへ来たのだ。


「名簿が読めないんです」


 男は震える声で言った。


「誰が誰の所有物か、分からない。命令杖も反応しない。どう扱えばいいのか」


 その言葉に、周囲の空気が硬くなった。


 セリアの手が盾へ伸びる。


 ミュールの耳が伏せる。


 だが、ロゼッタが一歩前へ出た。


「まず、名前で呼びます」


「名前」


「分からなければ、聞きます。答えたくない者には、答えない権利があります」


 男は呆然とした。


 商売の手順を失った顔だった。


 ざまぁとしては、あまりに地味だ。


 だが、その地味さが世界の終わりだった。


 もう命令できない。


 もう所有できない。


 人を扱う方法を知らない者ほど、世界の変化を理解できずに立ち尽くしていた。


 けれど、新しい契約が始まっている。


 新しい仕事が生まれている。


 新しい関係を作ろうとする人々がいる。


 セリアは庭で子どもたちに盾の持ち方を教えていた。


「盾は命令で持つものではない」


 子どもには難しい言葉だったのか、首を傾げている。


 セリアは少し困り、それから笑った。


「誰かを守りたい時に、持て」


 その時、庭の端でエナが転んだ。


 抱えていた水桶が倒れ、石畳に水が広がる。


 彼女はすぐ立とうとして、顔をしかめた。


「大丈夫です」


 そう言いながら、足首を押さえている。


 俺は反射的に右手を伸ばしかけた。


 だが、光は出ない。


 治癒師の感覚も、鑑定士の視界もない。


 一瞬、胸の奥が冷える。


 それでも、足は止めなかった。


「動かないで」


 言いかけて、すぐ言い直す。


「動かさないでくれ。痛みが増えるか確かめたい」


 命令ではなく、頼む。


 エナは涙目で頷いた。


 俺は膝をつき、靴紐を緩める。


 腫れの位置を見る。


 熱を持っている場所を見る。


 指先に力が入るか聞く。


 歩けるかどうかを決めつけず、本人の痛みを聞く。


「骨は折れていないと思う。でも今日は運ぶ。コル、冷やす布。ダロ、戸板を持ってきてくれ。ロット、水を拭いて、次に転ばないように」


 言い終えてから、俺は自分の声に気づいた。


 命令ではなかった。


 ただの段取りだった。


 皆が頷き、それぞれ動く。


 エナが小さく笑った。


「レオンさん、やっぱり雑用係ですね」


「元、だ」


「今もです。いい意味で」


 返す言葉に困っていると、セリアが静かに笑った。


「力がなくても、見ている」


 ミュールが頷く。


「聞いてる」


 イリスが布を受け取りながら言う。


「判断しています」


 ロゼッタが帳簿に何かを書き込む。


「雑用係、再評価ですね」


 ナギが短く付け加えた。


「必要」


 胸の奥にあった空洞が、少しだけ形を変えた。


 全ジョブを失った。


 けれど、何もできないわけではない。


 誰かを所有しなくても、命令しなくても、隣で手を伸ばすことはできる。


 ミュールは屋根の上で昼寝をしていた。


 だが、家に近づく怪しい足音だけは誰より早く拾う。


 イリスは壊れた刻印術式の残骸を調べながら、怖い怖いと言いつつ新しい安全手順を書いている。


 ロゼッタは帳簿を広げ、債務ではなく合意の記録を作り始めた。


 ナギは門のそばに座り、開ける時と閉じる時を自分で決めている。


 そして俺は、できることが減った。


 治癒はできない。


 鑑定もできない。


 鍛冶も、薬も、支援も、前のようにはできない。


 だから、できることから始めた。


 水を運ぶ。


 椅子を並べる。


 書類を届ける。


 鍋を洗う。


 昔なら、雑用係と呼ばれた仕事だ。


 今は違う。


 誰かに下に置かれているわけではない。


 自分で選んで、家を回すために動いている。


 夕方、五人が庭に集まった。


 風が通る。


 かつて刻印があった場所には、薄い痕だけが残っている。


 それは消したい過去ではない。


 ここまで来た証だ。


「俺は、君たちを買った」


 俺は言った。


 五人が黙って聞いている。


「その事実は消えない。どんな理由があっても、最初は所有の形から始まった」


 セリアが頷く。


 ミュールは耳を伏せる。


 イリスは観測板を抱く。


 ロゼッタは帳簿を閉じる。


 ナギは俺を見る。


「でも、俺が買ったのは、君たちの命じゃなかった」


 言葉を探す。


 ずっと考えていた。


 この物語の始まりを、どう受け止めればいいのか。


「出会うための、たった一度の機会だった」


 セリアが静かに笑う。


「その後を選んだのは、私たちだ」


 ミュールが言う。


「ミュール、残った」


 イリスが言う。


「私は怖くても、ここを選びました」


 ロゼッタが言う。


「契約ではなく、意思表示です」


 ナギが言う。


「隣、選んだ」


 俺は頷く。


 胸の奥が熱い。


 もう主人ではない。


 彼女たちは奴隷ではない。


 それでも、隣にいる。


 いや、だからこそ隣にいる。


 その時、門の方から声がした。


「新しい相談です」


 エナが手紙を持って走ってくる。


 どこかの村で、壊れた刻印台帳を巡って揉めているらしい。


 世界は相変わらず面倒だ。


 自由になったからこそ、面倒なことが増える。


 セリアが盾を取る。


 ミュールが屋根から降りる。


 イリスが観測板を開く。


 ロゼッタが帳簿を抱える。


 ナギが門を開ける。


 俺はただの手で、手紙を受け取った。


 できることは減った。


 それでも、行ける。


 隣に五人がいる。


 命令ではなく。


 所有ではなく。


 自分の意志で。


 俺が買ったのは、彼女たちの命ではなかった。


 彼女たちと出会うための、たった一度の機会だった。


 そして今、誰も俺の奴隷ではない。


 だからこそ彼女たちは、俺の隣にいる。


 門の外へ出る前に、俺は一度だけ家を振り返った。


 解放者の家。


 最初は仮の拠点だった。


 逃げ込む場所で、守るべき場所で、何度も壊れかけた場所。


 今は、誰かが自分で出ていき、自分で帰ってくる場所になっている。


 エナが門を閉めるかどうか迷っている。


「開けたままでいいか」


 彼女が聞く。


 俺は少し考え、五人を見る。


 セリアが頷く。


 ミュールが屋根を見上げる。


 イリスが風向きを確認する。


 ロゼッタが来客記録の紙を用意する。


 ナギが門の蝶番へ手を置く。


「開けたままでいい」


 俺は言った。


「でも、閉めたい時は閉めよう」


 エナは笑った。


「はい。自分たちで」


 その答えが、この家の今だった。


 開けることも、閉めることも、命令ではない。


 自分たちで決める。


 俺たちは新しい相談の手紙を持って歩き出した。


 世界はまだ不安定だ。


 きっと、俺たちだけでは解決できない問題も多い。


 俺にはもう、万能の力もない。


 それでも、歩ける。


 隣に、五人がいる。


 後ろには、帰る家がある。


 前には、まだ面倒な世界がある。


 それで十分だった。


 道の先で、セリアが盾を肩に掛け直す。


 ミュールが屋根ではなく、今日は俺の横を歩く。


 イリスが観測板に新しい相談の概要を書き込む。


 ロゼッタが契約草案の余白に、旅費の概算を書いている。


 ナギは少し前を歩き、分かれ道で立ち止まる。


「どっち」


 彼女が聞く。


 昔なら、誰かが進むべき道を命じただろう。


 今は違う。


 俺たちは地図を見る。


 相談する。


 間違えるかもしれない道を、自分たちで選ぶ。


「右だな」


 俺が言うと、ロゼッタが眉を上げる。


「理由は?」


「勘」


「鑑定能力は失われていますよ」


「ただの勘だ」


 セリアが笑う。


「なら、なおさら確認が必要だ」


 イリスが地図を見直し、ミュールが匂いを読み、ナギが道の音を聞く。


 結局、右で合っていた。


 俺は少し得意になる。


 ロゼッタがすぐに言った。


「偶然です」


「一回くらい褒めてくれ」


 ミュールが俺の袖を引く。


「主人、すごい」


「その呼び方は」


「癖」


 彼女は少し考える。


「レオン、すごい」


 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。


 主人ではなく、名前で呼ばれる。


 それは小さな変化だ。


 けれど、この物語の終わりにはふさわしい小ささだった。


 俺たちは歩き出す。


 完全な自由など、きっとない。


 誰かと生きる以上、約束も責任も、面倒な相談も生まれる。


 それでも、それは命令ではない。


 所有でもない。


 自分たちで選び続ける関係だ。


 その不安定さを、俺たちはもう怖がるだけではない。


 抱えて歩ける。


 五人が隣にいる。


 俺も、隣にいる。


 誰の主人でもなく。


 誰の所有者でもなく。


 ただ、共に行く者として。


 空は高かった。


 世界契約の刻印陣はもうない。


 その代わり、雲が流れている。


 ただの雲だ。


 意味も、命令も、役割もない。


 それを見上げて、イリスが言った。


「今日の天気、観測できません」


「普通に見ればいい」


「普通に」


 彼女は少し考え、それから空を見た。


「晴れです」


 ミュールが笑う。


「イリス、すごい」


 ロゼッタが帳簿に書く。


「天気、晴れ。観測者イリス」


「書かないでください」


 ナギが道の先を見る。


「行こう」


 セリアが盾を軽く鳴らす。


「ああ。行こう」


 俺は頷く。


 この先も、面倒は続く。


 世界は壊れた檻の後始末で忙しい。


 俺たちも失敗するだろう。


 誰かを助けられない日もあるだろう。


 それでも、命令で正しくされる世界には戻らない。


 間違えながら、相談しながら、選び直しながら進む。


 それが、誰も奴隷ではない世界の始まりだ。


 俺は一歩踏み出した。


 五人も歩き出す。


 同じ方向へ。


 それぞれの足で。


 俺はもう、彼女たちの主人ではない。


 彼女たちはもう、俺の奴隷ではない。


 それでも俺たちは、隣にいる。


 自分の意志で。


 俺が買ったのは、彼女たちの命ではなかった。


 救ったつもりで、所有してしまいかねない危うい入口だった。


 だが、その入口を通って、俺たちは出会った。


 出会った後に、選び直した。


 何度も間違え、何度も話し合い、何度も手を離す練習をした。


 だから今、隣にいることは命令ではない。


 恩でも、契約でも、所有でもない。


 彼女たちが、自分の足で選んだ場所だ。


 遠くで、解放者の家の門が風に揺れた。


 開いたままの門。


 帰ることも、出ていくこともできる門。


 その音を背に、俺たちは新しい相談へ向かう。


 終わりではない。


 命令のない世界で生きるための、最初の続きだった。


 俺たちは、その続きへ歩いていく。


 誰かに決められた道ではなく、自分たちで選んだ道を。何度でも、選び直しながら、歩いていく。これからもずっと。



ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

レオンが得たのは奴隷でも部下でも所有物でもなく、自分の意志で隣に立つ仲間たちでした。

この物語を最後まで見届けていただけたことが、何より嬉しいです。

よろしければ、ブックマーク・評価・いいね・コメントなどで、完結の余韻を残していただけるととても励みになります。


-----

もしよかったら、他の作品も見ていただけますと幸いです。

勇者は最後に現れる 〜追放された義賊・聖女・商人・旅芸人姉妹が、錆びた聖剣の少年を本物の勇者に変えるまで〜

https://ncode.syosetu.com/n2508mi/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ