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第144話 チートを失った主人

 右手を見ても、何も見えなかった。


 刻印線もない。


 ジョブの光もない。


 傷の流れも、素材の性質も、契約の裏も、何も分からない。


 俺の手は、ただの手になっていた。


「治癒を」


 言いかけて、止まる。


 使えない。


 胸元の傷も、手のひらの裂傷も、自分では治せない。


 イリスがすぐに水薬を差し出した。


「飲んでください」


「俺が作った方が効く」


 言ってから、気づく。


 もう作れない。


 イリスの顔が少し痛そうに歪んだ。


 俺は笑おうとして、失敗した。


「悪い」


「謝らないでください」


 セリアが椅子の横に立っている。


「無理に起きるな」


「状況を」


「寝ていろ」


 いつもの調子だ。


 だが、俺は自分の身体の重さに驚いていた。


 支援の感覚がない。


 疲労を逃がす術もない。


 ただ、痛い。


 ただ、重い。


 ただ、弱い。


 ミュールが俺の手を握った。


「手、普通」


「そうだな」


「でも、あったかい」


 その言葉に、胸が詰まる。


 ロゼッタが帳簿を閉じた。


「全ジョブ能力の消失は確認済みです。少なくとも現時点では、治癒、鑑定、錬金、戦闘補正、支援補正、全て反応なし」


「報告が冷静だな」


「泣いた後ですので」


 彼女は平然と言った。


 目元は少し赤い。


 ナギは窓際から言う。


「置いていかない」


「まだ何も言ってない」


「顔」


 また顔に出ているらしい。


 俺は目を閉じる。


 怖かった。


 力を失った自分が、五人の隣にいる資格を失ったような気がした。


 助けられない。


 治せない。


 見抜けない。


 戦えない。


 守れない。


 それなら、俺に何が残るのか。


「レオン」


 セリアの声。


「貴殿は、また他人に価値を決めさせようとしている」


 俺は目を開けた。


「他人?」


「力だ」


 セリアは言う。


「力がある自分には価値があり、力がない自分には価値がない。そう考えるなら、貴殿は力に価値を決めさせている」


 言い返せなかった。


 ミュールが俺の手を握り直す。


「ミュール、便利な主人に戻ってほしいわけじゃない」


 イリスが頷く。


「私を管理しなかった人が、ここにいます」


 ロゼッタが言う。


「契約の本体は、能力ではありません。意思です」


 ナギが短く言う。


「レオン、いる」


 ただいる。


 その言葉が、今の俺には重かった。


 何かできるからではなく、ただいる。


 それで選ばれることに、俺は慣れていない。


 追放された時、役に立たないならいらないと言われた。


 それがずっと、心の底に残っていたのだろう。


 役に立つことで、隣にいる理由を作ろうとしていた。


 五人はそれを、静かに壊していく。


「俺はもう、主人でもない」


 俺が言うと、ロゼッタが首を傾げた。


「法的には、奴隷制度自体が崩壊していますので、そうですね」


「そういう冷静な話ではなく」


「では感情的に言います」


 ロゼッタは少しだけ頬を赤くした。


「私は、命令ではなく、ここにいます」


 セリアも言う。


「私は誓いで隣にいる」


 ミュールが言う。


「ミュール、好きでいる」


 イリスが小さく言う。


「私は、怖くてもここがいいです」


 ナギが言う。


「帰る場所」


 胸が熱くなる。


 俺は何もできない手で、五人の手を握り返した。


 その時、扉が叩かれた。


 リディアが入ってくる。


「解放者の家から手紙よ」


 封筒には、エナの字で宛名が書かれていた。


 レオンさんと、皆さんへ。


 帰ってくる場所は、こちらで守っています。


 その一文を読んだ瞬間、五人の表情が変わった。


 俺も、息を吐いた。


 帰る場所がある。


 力を失っても。


 主人でなくなっても。


 帰る場所が、まだある。


 手紙の続きには、住人たちの名前が並んでいた。


 エナ。


 ダロ。


 コル。


 ロット。


 他にも、家に来たばかりの者たちの拙い署名がある。


 文字が書けない者は、丸や線を描いていた。


 それも署名として扱われている。


 ロゼッタが見たら、きっと正式な書式に整えたがるだろう。


 だが、今の俺には、その不揃いな印が何より嬉しかった。


「帰るか」


 俺が言うと、セリアは即座に首を横に振った。


「今日ではない」


「だよな」


「歩けないだろう」


 ミュールが俺の足を見る。


「運ぶ?」


「それはできれば避けたい」


 ナギが真顔で言う。


「五人なら運べる」


「運ばれる側の尊厳も考えてくれ」


 イリスが笑い、ロゼッタも口元を押さえた。


 笑い声が部屋に落ちる。


 それは、世界契約を壊した後の初めての軽い音だった。


 力を失ったことへの不安は消えない。


 たぶん、これから何度もぶり返す。


 何かを治せない時。


 見抜けない時。


 戦えない時。


 自分は役に立たないと思う日が来る。


 だが、そのたびに、今の言葉を思い出せばいい。


 レオンだから。


 いる。


 帰る場所。


 それらは能力ではない。


 関係の中で受け取った言葉だ。


 俺は手紙を胸元に置いた。


「帰ろう」


 今度は、五人が頷いた。


 すぐではない。


 でも、必ず。


 力を失った主人ではなく。


 もう主人ですらない俺として。


 出発までに三日かかった。


 その三日の間に、俺は何度も自分の無力さを思い知った。


 包帯を替えるのに手間取る。


 薬の配合を思い出そうとして、正確な分量が分からない。


 壊れた金具を見ても、どこを叩けば直るのか分からない。


 人の顔を見ても、体調の細かな変化が読めない。


 世界が急に鈍くなったようだった。


 いや、たぶんこれが普通なのだ。


 俺はずっと、力を通して世界を見ていた。


 その窓が閉じた。


 最初は不安だった。


 だが、閉じたから見えるものもあった。


 セリアが俺の歩幅に合わせていること。


 ミュールが疲れた俺の荷物をさりげなく半分持っていること。


 イリスが薬の説明を、俺が分かる速度でしてくれること。


 ロゼッタが書類の山を見せる前に、要点だけまとめてくれること。


 ナギが休む場所を先に探していること。


 俺が支えていたと思っていた。


 だが、ずっと支えられてもいた。


 力を失って、ようやくそれが見えた。


 出発の朝、セリアが俺の荷袋を見た。


「軽すぎる」


「病み上がりだからな」


「違う。必要な物まで遠慮している」


 彼女は勝手に水袋を入れた。


 ミュールが干し肉を足し、イリスが薬を入れ、ロゼッタが書類を薄くまとめ、ナギが小さな砥石を入れる。


「俺の荷物が、俺以外の判断で増えている」


「相談だ」


 セリアが言う。


「ほぼ決定後の相談だな」


 五人が少し笑った。


 その笑いの中で、俺はようやく思えた。


 力を失った自分にも、明日がある。


 旅支度を終えた後、俺は一人で神殿の中庭へ出た。


 エルヴィアがそこにいた。


 拘束はされていない。


 だが、どこかへ行く様子もない。


 彼女は壊れた刻印陣の欠片を見ていた。


「何も見えませんか」


 そう聞かれ、俺は頷いた。


「見えない」


「不便でしょう」


「かなり」


「後悔していますか」


 俺は少し考えた。


 後悔。


 全くないと言えば嘘になる。


 もっと別の方法があったのではないか。


 力を残せたのではないか。


 そう思う自分はいる。


「怖いとは思ってる」


 俺は答えた。


「でも、戻りたいとは思わない」


 エルヴィアは目を伏せる。


「私は、戻りたいのかもしれません」


「どこへ」


「最初の祈りへ」


 彼女の声は小さかった。


「誰か、この自由を止めてください。そう祈った時へ」


 俺は何も言えなかった。


 その祈りが間違っていたと、簡単には言えない。


 そこには本物の痛みがあった。


 だが、その祈りが世界を檻にした。


 エルヴィアは壊れた術式を見たまま言う。


「貴方たちの世界が、私の恐れた通りにならないことを願います」


「俺もだ」


 俺は言った。


「でも、なったら止める。命令じゃなく」


 エルヴィアは少しだけ笑った。


「不便な方法ですね」


「かなり」


 それが、俺たちの最後の会話になった。


 彼女がどこへ行くのかは分からない。


 裁かれるのか、償うのか、見届けるのか。


 それもまた、誰かが命令で決めるものではなくなっていた。


 中庭へ向かう途中、倒れた柱の陰で子どもの泣き声がした。


 聖都の避難民だろう。


 膝を擦りむき、崩れた石片を抱え込むようにして動けなくなっている。


 俺は反射的に右手を伸ばした。


 治癒師の感覚で傷の深さを見る。


 鑑定士の視界で骨に異常がないか確かめる。


 支援者の力で痛みを逃がす。


 いつもなら、そうしていた。


 だが、何も見えない。


 傷はただの傷で、泣き声はただの泣き声で、俺の右手は普通の手だった。


 背中に冷たいものが走る。


 助けたいのに、何をすればいいのか分からない。


 その一瞬の迷いが、ひどく情けなかった。


「レオン」


 セリアの声がした。


 責める声ではない。


 呼び戻す声だった。


 俺は息を吸った。


 傷を見る。


 血の量を見る。


 子どもの意識を見る。


 瓦礫の位置を見る。


 魔法ではなく、ただ目で見る。


「水を。清潔な布も。石を動かす前に足を固定する」


 言葉が出ると、身体も動いた。


 俺は子どもの目線まで膝をつく。


「痛いか」


 子どもは泣きながら頷いた。


「じゃあ、痛いまま動かす。けど、勝手には動かさない。今から何をするか、先に言う」


 命令ではなく、説明する。


 許可を待ってから、布を当てる。


 セリアが柱を支え、ミュールが周囲を見張り、イリスが水を渡し、ロゼッタが避難先を書き取り、ナギが人の流れを止めた。


 俺は治せなかった。


 だが、悪くしないことはできた。


 順番を決め、手を貸し、次に渡すことはできた。


 子どもが運ばれていった後、右手はやはり光らなかった。


 それでも、さっきより少しだけ震えは小さくなっていた。


 中庭を出ると、五人が待っていた。


「遅い」


 セリアが言う。


「歩くのが普通になったからな」


 ミュールが俺の歩幅を見る。


「練習いる」


 イリスが水薬を差し出し、ロゼッタが道程を確認し、ナギが門へ向かう。


 俺はその中へ戻った。


 普通の青年として。


 それでも、ひとりではなく。


 出発前、俺は右手をもう一度見た。


 何も光らない。


 けれど、そこに五人が順に触れていく。


 セリアが握り、ミュールが指先を重ね、イリスが包帯を直し、ロゼッタが手首の脈を確認し、ナギが短く叩く。


「確認?」


 俺が聞くと、ナギは頷いた。


「いる」


 ただそれだけの確認。


 だが、今の俺にはそれで十分だった。


 力がなくても、ここにいる。


 置いていかれていない。


 その事実を、何度も握り返した。


 普通の手で、何度も。




力がなくても、レオンは置いていかれていませんでした。

普通の手で握り返せるものが残っていることが、この物語の最後の答えへつながります。

次回最終回!!

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