第130話 全てに触れられる手
世界が、俺の右手に重なっていた。
目を閉じても見える。
線。
線。
線。
人と役割を結ぶ線。
人と所有者を結ぶ線。
人と職能を結ぶ線。
人と血筋を結ぶ線。
世界中の登録術式が、白い糸のように広がっている。
その中心に、俺の右手があった。
触れれば動く。
切れば外れる。
繋ぎ替えれば、別の役割へ変わる。
あまりにも簡単だった。
あまりにも恐ろしかった。
「レオン」
セリアの声が遠い。
俺は彼女の方を見る。
彼女の誓約痕も見えた。
聖騎士として教会に繋がれていた線。
冤罪の記録。
騎士団の台帳。
教会承認。
全部が絡まり、彼女の腕に残っている。
今なら外せる。
完全に。
一瞬で。
セリアを、誓約痕の痛みから解放できる。
ミュールの旧所属刻印も見えた。
夜爪が彼女へ残した合言葉。
失敗任務の責任押しつけ。
売却記録。
暗殺者としての身体反応。
それも外せる。
イリスの実験印。
魔塔が彼女を番号として扱った記録。
薬液投与の履歴。
危険物登録。
全部、消せる。
ロゼッタの債務印。
黒杯商会との取引。
家を潰した契約。
支払い不能者としての分類。
破棄できる。
ナギの鍵印。
東方の門。
一門壊滅。
剣奴登録。
開くべき扉と、閉じるべき扉。
その全てに触れられる。
五人を、完全に救える。
その誘惑は、身体の奥へ甘く染み込んだ。
セリアが夜中に痛みで目を覚ますことはなくなる。
ミュールが古い合言葉を聞いて呼吸を乱すこともなくなる。
イリスが実験台の匂いで震えることもなくなる。
ロゼッタが帳簿の空白を見て過去の債務を思い出すこともなくなる。
ナギが眠りの中で東方の門を探すこともなくなる。
全部、消せる。
記憶を奪うのではない。
痛みだけを薄める。
危険反応だけを抑える。
再発だけを防ぐ。
そう言い訳すれば、いくらでも手を伸ばせる。
俺は、彼女たちが苦しむたびに何度も思っていた。
この痛みを消せたら、と。
今、その方法が目の前にある。
そして俺は、自分がそれを欲しがっていることを否定できなかった。
解放者の家も見えた。
エナの割れた刻印。
ダロの再登録拒否。
コルの治療補助記録。
ロットの保護台帳。
マルタのギルド登録。
ガレスの鍛冶師ジョブ。
家の周囲に残る脆い保護線。
それも、もっと強くできる。
誰も入れないように。
誰も奪えないように。
誰も傷つけないように。
右手が震えた。
これが、エルヴィアの見ていた世界か。
痛みが見える。
原因も見える。
治し方も見える。
なら、治したくなる。
その衝動は、善意の顔をしていた。
俺は悪いことをしようとしているわけではない。
むしろ、救いたい。
だからこそ、危ない。
「今なら、できます」
エルヴィアが言う。
「彼女たちの刻印を完全解除し、再発を防ぎ、保護領域へ固定する。解放者の家も、世界契約の認可保護区画へ移行できます」
「固定」
ロゼッタの声が聞こえた。
俺ははっとする。
彼女は俺を見ている。
責める目ではない。
ただ、見ている。
「レオン様。固定、です」
その一語が、右手に流れ込む万能感を少し冷ました。
保護領域へ固定する。
再発を防ぐ。
危険を遮断する。
どれも正しい。
だが、固定された者は、そこから出られるのか。
自分で危険を選ぶことはできるのか。
俺が良いと思う場所に置き続けるなら、それは所有とどこが違う。
ミュールが苦しそうに笑った。
「主人、顔こわい」
「俺が?」
「うん。全部見えてる顔」
全部見えている顔。
その言葉に、胸が刺された。
全部見えていると思った瞬間、人は他人の選択を軽く扱う。
この人は怖がっているだけだ。
この人は混乱しているだけだ。
本当はこっちが安全だ。
そう決めつける。
エルヴィアも、そうやって世界を見たのかもしれない。
全ての痛みが見えるから、全てを管理したくなる。
俺は右手を下ろそうとした。
だが、世界契約が離さない。
白い線が手首に絡みつく。
管理者候補。
強制同期。
権限譲渡準備。
俺の意思とは関係なく、世界が俺を使おうとしている。
「レオンさん、抵抗してください!」
イリスが叫ぶ。
「マルチジョブが、全部の登録線に適合してしまっています。世界契約は、あなたを一番効率のいい端末として認識しています」
「端末」
俺は笑いそうになった。
勇者端末の次は、管理者端末か。
肩書きが変わっても、やることは同じだ。
人を機能として扱う。
俺は右手に力を込める。
「俺は端末じゃない」
白い線が食い込む。
痛みが走る。
同時に、世界中の誰かの痛みも流れ込む。
奴隷印が焼ける痛み。
ジョブ登録で弾かれる悔しさ。
血統証明を失う恐怖。
勇者候補から外される絶望。
管理される安心。
自由になる怖さ。
全部が混ざって、俺の胸を押し潰す。
この痛みを止められるなら、命令してしまえばいい。
そう思った瞬間、五人の刻印が光った。
セリアの腕。
ミュールの首筋。
イリスの背中。
ロゼッタの手首。
ナギの胸元。
白い線が、五人を世界契約へ再接続する。
「くっ」
セリアが膝をつく。
ミュールが喉を押さえる。
イリスが悲鳴を噛み殺す。
ロゼッタの帳簿が床へ落ちる。
ナギの刀が震える。
俺の右手には、五人を止める権限があった。
命令一つで、痛みを止められる。
動くな。
眠れ。
苦しまなくていい。
その言葉が、喉元まで上がってくる。
エルヴィアが静かに言った。
「見てください。貴方が命じれば、彼女たちは救われます」
五人の刻印が、さらに強く光った。
世界契約が、彼女たちを再び檻へ戻そうとしていた。
セリアが苦しみながらも、俺を見た。
「貴殿の手は、便利な手ではない」
「セリア」
「私たちが、そう決めた」
ミュールが首筋を押さえたまま笑う。
「薬箱みたいに、使わない」
イリスが涙を浮かべて続ける。
「万能の器具ではありません。レオンさんの手です」
ロゼッタが震える指で帳簿を拾った。
「権限ではなく、関係の中にある手です」
ナギは短く言った。
「握る手」
その言葉で、俺は右手を見る。
命令線が絡みついている。
世界がこの手を端末にしようとしている。
だが、この手は今まで、命令するためだけにあったわけではない。
セリアの盾を直した。
ミュールの傷に薬を塗った。
イリスの観測板を支えた。
ロゼッタの帳簿を受け取った。
ナギの刀の鞘を渡した。
解放者の家で、震える手を握った。
万能ではなかった。
失敗もした。
届かないこともあった。
それでも、命令権より先に、その記憶がある。
俺はその記憶を、世界契約に渡さない。
それでも、世界契約は諦めない。
右手の中で、別の未来が開いた。
俺が管理者になる未来。
聖都の混乱は三日で収まる。
奴隷市場は保護施設へ置き換わる。
勇者候補は危険度に応じて再配置される。
貴族は血統ではなく管理適性で権限を調整される。
魔塔の実験は安全基準の下で制限される。
解放者の家は、世界で最も安全な場所になる。
結果だけ見れば、悪くない。
むしろ、多くの人が救われる。
だから、世界契約はその未来を見せてくる。
俺が命じたことで救われる人々。
俺を管理者様と呼ぶ子ども。
もう怯えなくていいと涙を流す元奴隷。
争いをやめる兵士。
暴走を止められた魔導師。
美しい未来だった。
だが、その中で誰も俺へ逆らわない。
誰も、俺の決定に文句を言わない。
間違っていても、世界契約が補正する。
不満があっても、感情過負荷として鎮静される。
その未来の俺は、笑っていなかった。
優しい顔をしている。
穏やかに命じている。
そして、誰よりも孤独だった。
五人はそばにいる。
だが、保護対象としている。
俺を止める者ではなく、俺に守られる者として固定されている。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
これがエルヴィアの最後なのかもしれない。
全員を守ろうとして、誰からも止められなくなった人の末路。
俺はその未来を拒む。
たとえ多くの人を救えるとしても、誰にも止められない救済は支配へ変わる。
俺の手は、そうなるための手ではない。
この手は、間違える手だ。
迷う手だ。
誰かに叩かれ、掴まれ、止められる手だ。
完璧ではないから、まだ人の中に置いておける。
世界を整える手ではなく、誰かと同じ高さで震える手でいい。
そう思った瞬間、右手に絡みついた白い線の一本が切れた。
世界契約が戸惑うように明滅する。
端末としての適性ではなく、人としての拒否が、初めて術式に傷をつけた。
小さな傷だった。
けれど、確かな傷だった。




