第125話 聖剣に呑まれる勇者
セリアの盾と聖剣がぶつかった音は、封印室の壁を震わせた。
鐘のような響き。
だが、祈りを告げる音ではない。
命令を広げる音だった。
「命令波、増幅しています!」
イリスの声が鋭く飛ぶ。
セリアの盾に白い文字が這う。
聖騎士誓約に似た文様。
けれど、もっと古く、もっと冷たい。
守れ。
従え。
勇者に道を開け。
そんな意味の圧力が、視界の奥で形になっていく。
セリアは歯を食いしばった。
「道を開けるものか」
盾が軋む。
アルベルトの剣が押し込まれる。
いや、アルベルトの剣ではない。
聖剣が、アルベルトの腕を使っている。
白く染まった目に、本人の意思はほとんど見えない。
それでも口元だけは歪んでいた。
「どけ、聖騎士」
声はアルベルトのものだった。
だが、重なっている。
本人の声と、聖剣の声と、勇者という役割の声。
「勇者の前に立つな」
「私は勇者の従者ではない」
セリアが盾を押し返す。
「私は、私が守ると決めた者の盾だ!」
青白い誓約痕が、彼女の腕で弾けた。
白い命令文字が剥がれ、床へ落ちる。
その一瞬、ミュールが動いた。
低く、速く。
黒い影のようにアルベルトの背後へ回り込む。
「鎖、三本」
彼女の短剣が、聖剣から伸びる光の一本を切り裂いた。
光は切れた。
だが、すぐに再生する。
ミュールの腕に白い火花が散った。
「痛っ」
「無理に切らないでください! 聖剣側が再接続しています!」
イリスが観測板を抱えながら叫ぶ。
「切るなら、接続元をずらす必要があります。鎖そのものではなく、鎖が信じている宛先を」
「宛先?」
ミュールが床を蹴って距離を取る。
「勇者アルベルトという登録名です」
ロゼッタが壁の台帳を読んでいた。
彼女の指が古代文字を追う。
「聖剣管理契約。所有者、教会中枢。使用者、勇者。接続対象、勇者認定者。認定名、アルベルト・グランディア」
「まだ勇者扱いか」
俺は右手を握る。
アルベルトは王都で敗れた。
裁判でも、御前試合でも、勇者としての権威は崩れた。
それでも、聖剣の台帳ではまだ勇者だ。
民衆の記憶。
教会の記録。
聖剣の登録。
その三つが、アルベルトを勇者という檻へ固定している。
ナギが前へ出た。
聖剣の斬撃が横薙ぎに迫る。
速い。
見えた瞬間にはもう届いている。
ナギは受けない。
紙一重で身を沈め、刀の峰で光の軌道をずらした。
白い刃が床を裂き、封印室の石に深い溝を作る。
「重い」
ナギが呟く。
「でも、太い。芯は一つ」
彼女の目は聖剣ではなく、アルベルトの胸を見ていた。
鎖が集まる場所。
勇者認定の核。
そこに、本人の執着が絡みついている。
「俺は勇者だ」
アルベルトが繰り返す。
「俺は、選ばれた」
聖剣がそれに応えるように輝く。
選ばれた。
勇者。
希望。
その言葉が力になる。
だが同時に、鎖にもなる。
俺は右手を伸ばした。
鑑定士の感覚で術式を読む。
治癒師の感覚で歪みを見る。
錬金術師の感覚で接続の素材を見分ける。
聖職者の感覚で信仰波の流れを追う。
戦士の感覚で、次の斬撃の角度を読む。
全部が同時に重なる。
頭が割れそうになる。
それでも、手を離さない。
「レオンさん、正面から干渉しないでください!」
イリスの声が飛ぶ。
「聖剣は、干渉者を従者として登録しようとします!」
その瞬間、右手に白い文字が這った。
役割登録。
勇者補佐。
従者。
雑用係。
最後の文字を見た瞬間、胸の奥に昔の痛みが走った。
白い文字は、ただの文字ではなかった。
皮膚の上で、声になった。
早くしろ。
お前の仕事だろ。
荷物を持て。
鍋を洗え。
剣を磨け。
誰のおかげで飯が食えていると思っている。
あの頃の声が、聖剣の光に混じって戻ってくる。
俺の記憶ではない。
聖剣が、俺の記憶を材料にして命令へ変えている。
役割登録とは、こういうことなのだろう。
本人の中にある傷や習慣を探し、もっとも従いやすい名前を貼る。
俺には雑用係。
セリアには聖騎士。
ミュールには暗殺者。
イリスには実験体。
ロゼッタには債務者。
ナギには鍵。
人を縛る名前は、外から貼られるだけではない。
何度も呼ばれ、何度も従い、何度も諦めるうちに、自分の中にも入り込む。
聖剣はそこを突いてくる。
英雄の剣という名の、もっとも古い役割固定装置。
アルベルトの笑い声。
野営地の荷物。
燃やされたメモ。
追放の言葉。
お前はもういらない。
聖剣は、その記憶を使ってきた。
俺をもう一度、勇者の従者として登録しようとしている。
「ふざけるな」
俺は右手を握り込んだ。
「俺は、もうその場所に戻らない」
五人の声が重なる。
「レオン!」
「主人!」
「レオンさん!」
「レオン様!」
「レオン」
呼び名はばらばらだった。
でも、全部今の俺を呼んでいる。
雑用係ではない。
勇者の従者ではない。
誰かの役割名ではなく、俺自身を。
白い文字が右手から剥がれた。
剥がれた文字は床に落ち、煙のように消える。
その瞬間、アルベルトの顔がわずかに歪んだ。
俺が拒んだことで、聖剣の中にある彼の記憶も揺れたのかもしれない。
アルベルトにとっても、俺は雑用係でなければならなかった。
そうでなければ、彼の勇者としての物語が崩れる。
勇者の隣には、勇者を支える者がいる。
勇者を称える者がいる。
勇者より下の者がいる。
その下に置いていた俺が立ち上がることは、彼の世界の下敷きが抜けることだった。
聖剣はそれを嫌がっている。
つまり、ここにも継ぎ目がある。
俺は痛みを飲み込み、もう一度アルベルトを見た。
俺は息を吐く。
「イリス、接続の弱い場所は」
「アルベルトさんの胸部、勇者認定核です。でも、そこを叩くと本人の自我も巻き込みます」
「巻き込まずにずらす」
「理屈では可能です。ですが、聖剣側が抵抗します」
ロゼッタが声を上げた。
「抵抗の根拠は契約です。所有権が教会中枢にあり、勇者は使用者として登録されている。ならば、使用者本人の意思確認が必要なはずです」
「アルベルトの意思か」
「はい。ですが、今の彼は聖剣に上書きされています」
ミュールが白い鎖を避けながら言う。
「起こせばいい?」
「一瞬でいい」
ロゼッタが頷く。
「本人が『勇者であること』以外の言葉を発すれば、契約の揺らぎになります」
アルベルトは斬り込んでくる。
セリアが受け、ナギが流し、ミュールが鎖を攪乱する。
イリスは解析を続け、ロゼッタは契約の穴を探す。
五人の連携は、王都の御前試合の時よりも深い。
セリアが受ける一撃は、ただの防御ではない。
聖剣が放つ命令波の方向を、盾の角度でずらしている。
ナギが流す斬撃は、ただの回避ではない。
光の刃に混じる接続線だけを見極め、床へ逃がしている。
ミュールが走るたび、聖剣の鎖は彼女を捕まえようと分岐する。
その分だけ、アルベルト本体を縛る線が薄くなる。
イリスは恐怖で顔を白くしながら、誰よりも正確に数値を読み上げている。
ロゼッタは戦場の中央で帳簿を開き、古代契約の言葉を現代の契約論へ翻訳していく。
五人の誰か一人でも欠ければ、この戦いは成立しない。
俺が中心なのではない。
俺の右手は、五人が作った隙間に触れるための手だ。
その事実が、聖剣の命令よりも強く俺を支えた。
命令ではない。
合図ですら、最小限。
互いの癖を知り、痛みを知り、譲れない線を知っているから動ける。
聖剣がどれだけ勇者を強くしても、この連携を命令だけでは作れない。
アルベルトの剣が、再び俺へ迫る。
俺は逃げなかった。
「アルベルト」
白い目が俺を見る。
「お前は、本当に勇者でいたいのか」
「俺は勇者だ」
「それ以外に、お前は何なんだ」
刃が止まった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、白い目の奥に濁った青が戻る。
「俺は」
アルベルトの唇が震えた。
「俺は、選ばれたから」
聖剣が激しく鳴る。
言葉を戻そうとしている。
勇者。
勇者。
勇者。
その単語で彼を埋めようとしている。
だが、ロゼッタが叫んだ。
「揺らぎました!」
イリスが観測板を掲げる。
「接続線、再配置できます!」
俺は右手を伸ばす。
だが、その瞬間、聖剣が封印室全体へ光を放った。
「勇者権限、上位命令」
アルベルトの口から、聖剣の声が出る。
「勇者命令、発令」
封印室の扉の向こうで、いくつもの足音が揃って止まった。
聖都兵たちの声が、遠くから重なる。
「勇者に従え」
その声は、人の声なのに人のものではなかった。
聖剣は、アルベルト一人ではなく、聖都そのものを動かし始めていた。
エルヴィアは、その光景を止めなかった。
彼女はただ、折れかけた聖剣と、命令に引かれる人々を見ている。
「これが勇者制度の本来機能です」
その声は、悲しげですらあった。
「危機の時、民衆は迷います。兵は恐れ、候補者は逃げ、従事者は崩れる。だから勇者の名で統一する」
「統一じゃない。強制だ」
「強制がなければ、守れない瞬間があります」
また、その言葉。
守るための強制。
エルヴィアの思想は、どこまで行ってもそこへ戻る。
俺は扉の向こうから近づく足音を聞いた。
あの中には、何も知らない人間もいる。
勇者を信じていただけの兵。
聖都で認められたいと願った候補者。
神殿で働いていただけの者。
彼らは今、アルベルトの檻に巻き込まれようとしている。
聖剣を折る理由が、また一つ増えた。




