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第112話 管理者になれば守れる

《継承を受諾せよ》


 その文字は、目を閉じても消えなかった。


 まぶたの裏に白く残り、呼吸のたびに濃くなる。


 俺は医務室の壁に手をついた。


 右手が熱い。


 熱いのに、指先だけは冷えている。


「レオン」


 セリアが近づく。


「見えているのか」


「ああ」


「何が」


「管理者継承」


 その言葉だけで、五人の表情が変わった。


 イリスは観測板を抱え直し、ロゼッタは帳簿を開き、ミュールは耳を伏せる。


 ナギは何も言わず、刀の柄へ指を置いた。


 外から命令波がまた強くなる。


 今度は門前集合ではない。


 保護領域内照合。


 待機解除。


 自己申告。


 意味の薄い言葉が、刻印痕の奥へ流し込まれていく。


 エナが寝台の上で呻いた。


 ダロが庭へ行こうとして膝をつく。


 コルが薬箱を抱えたまま、息を詰まらせる。


 五つの亀裂の共鳴で弱まっていた命令波が、中枢の介入で再び強くなっている。


 いや、強くなったというより、こちらの希望を読んで形を変えた。


 本人意思が戻るなら、その本人意思を試す。


 自分で言え。


 自分で申告しろ。


 自分で門へ来い。


 中枢は、自由意思の言葉まで利用しようとしている。


《管理者継承により、対象領域の保護を完了できる》


 白い文字が続く。


《命令波遮断》

《刻印安定化》

《保護対象完全固定》


 完全固定。


 その言葉に吐き気がした。


 だが、同時に胸のどこかが反応した。


 遮断できる。


 安定化できる。


 この家だけは守れる。


 エナが苦しまずに済む。


 ダロが倒れずに済む。


 コルが薬箱を落とさずに済む。


 五人の亀裂も、無理に広がらずに済む。


 もし本当にそれができるなら。


 俺が管理者になれば、この家だけは。


 頭の中に、ありえた未来が流れ込んでくる。


 エナの刻印が静まり、彼女が穏やかに眠る。


 ダロが庭へ戻り、薬草の根を確かめる。


 コルが薬箱を並べ、震えずに布を畳む。


 ロットが逃げたいと言わず、食堂で温かいスープを飲む。


 セリアの誓約痕も、ミュールの旧所属刻印も、イリスの実験印も、ロゼッタの債務印も、ナギの鍵印も、全部静かになる。


 誰も苦しまない。


 誰も命令に引かれない。


 この家だけは、朝を迎えられる。


 それは悪夢ではなかった。


 むしろ、あまりに優しい光景だった。


 だから怖かった。


 悪意なら拒める。


 だが、守りたいものをそのまま見せられると、人は膝を折りそうになる。


「考えている顔です」


 ロゼッタの声がした。


 俺は反射的に言い返しかけ、止まった。


 考えている。


 どうしようもなく考えている。


「……守れるかもしれない」


 言葉が口から落ちた。


「俺が継げば、この家だけは守れるかもしれない」


 医務室が静かになった。


 誰もすぐには責めなかった。


 責めてくれた方が楽だった。


 セリアは俺を見ている。


 ミュールは黒布を握っている。


 イリスは泣きそうな顔で観測板を見ている。


 ナギはまばたきもせず、俺の右手を見ている。


 ロゼッタだけが、帳簿に一行を書いた。


「局所保護の提案。条件提示者、中枢。受益者、解放者の家。対価、レオンさんの管理者化」


「契約みたいに書くな」


「契約です」


 ロゼッタは顔を上げた。


「だから、条件を見ます」


 外でエナが苦しむ声が聞こえる。


 俺の胸が揺れる。


「条件なんて、今は」


「今だからです」


 ロゼッタの声は鋭かった。


「弱っている時に差し出される救済ほど、契約として危険です」


 その言葉は、彼女自身の過去から来ていた。


 飢えた時。


 追い詰められた時。


 泣く余裕もない時。


 救済の名で差し出された契約が、人を所有物に変える。


「でも、俺が継げば」


「守れるかもしれません」


 ロゼッタは否定しなかった。


「そこが危険です。本当に守れるから、危険なんです」


 俺は黙る。


 エナが水を求める声がする。


 マルタが応じる。


 イリスの結界が揺れる。


 目の前には、守りたい人たちがいる。


 俺はきれいな理屈で揺れているのではない。


 この家を守りたい。


 五人を守りたい。


 苦しませたくない。


 その願いが、中枢の提案と同じ方向を向きかけている。


 追放された時、俺には何もなかった。


 勇者パーティでは雑用係と呼ばれ、役立たずと捨てられた。


 それから出会ったのが、セリアだった。


 ミュールだった。


 イリスだった。


 ロゼッタだった。


 ナギだった。


 そして解放者の家だった。


 失いたくない。


 それは本音だ。


 世界の正しさより、目の前の人を守りたいと思う瞬間がある。


 エルヴィアが俺を突くなら、きっとそこだ。


 全員を救うなどと言いながら、最初に手を伸ばすのは自分の大切な人たちだろう、と。


 その指摘を、俺は完全には否定できない。


「レオン」


 セリアが一歩近づく。


「貴殿が私たちを守りたいと思うことは、否定しない」


「なら」


「だが、私たち抜きで私たちの安全を決めるな」


 その言葉に、胸を殴られたような気がした。


 ミュールが続ける。


「ミュール、守られたい。でも、固定されたくない」


 イリスが震える声で言う。


「安定化と固定は違います。中枢は、その違いをわざと消しています」


 ナギが短く言う。


「守る檻は、檻」


 ロゼッタが帳簿を閉じる。


「同意なき保護は、所有と同じです」


 外で命令波がまた上がる。


 エナの刻印痕が赤く光り、彼女が寝台から起き上がろうとした。


 俺は反射的に手を伸ばす。


 だが、エナが自分で手を上げた。


「水、ください」


 命令ではない。


 自分の要求だ。


 マルタが水を渡す。


「歩きたい?」


「歩きたくない」


「どこにいたい?」


「ここ」


 エナは泣きながら言った。


「ここに、いたい」


 その声が、俺の右手を止めた。


 エナは俺を見ていない。


 管理者候補の俺ではなく、マルタから受け取った水杯と、自分の胸の木札を見ている。


 彼女はいま、自分の場所を自分で言った。


 その言葉を守るために俺ができることは、彼女の選択を固定することではない。


 彼女が明日、やっぱり怖いと言える余地を残すことだ。


 ここにいたい。


 外へ出たい。


 眠りたい。


 怒りたい。


 その都度、選び直せること。


 中枢の完全保護には、それがない。


 完全だからこそ、変われない。


 安全だからこそ、出られない。


 守るとは、彼女の代わりに決めることではない。


 彼女が「ここにいたい」と言える場所を、崩さないことだ。


《継承を受諾せよ》


 文字がまた浮かぶ。


 今度は、少しだけ強い。


《拒否は対象領域の損耗を招く》


 脅しではない。


 統計のような言い方だった。


 俺が拒めば、誰かが傷つく。


 それはたぶん本当だ。


 命令しなければ、苦しみは消えない。


 それでも。


「俺は、管理者にならない」


 声に出した。


 医務室の空気が震える。


「この家を守るためでも、五人を守るためでも、俺は誰かを固定する管理者にはならない」


 右手の熱が、痛みに変わった。


 白い文字が一瞬乱れる。


 イリスの観測板が激しく鳴った。


「命令波の発信方向、変わります」


「王都地下か」


「いいえ」


 イリスは顔を上げた。


 その目に、恐怖と確信が同時にあった。


「もっと遠い。王都地下は中継点です。本体は、聖都方向」


 聖都。


 その名が出た瞬間、セリアの誓約痕が淡く熱を持ち、ナギの鍵印の亀裂が青く光った。


 ロゼッタが小さく頷いた。


「では、契約不成立として記録します」


「契約してない」


「だから不成立です」


 ミュールが少しだけ笑った。


 セリアも息を吐く。


 その小さな緩みが、医務室の張り詰めた空気を一瞬だけ和らげた。


 イリスは観測板へ新しい線を書き込む。


「聖都方向の信号は、単純な直線ではありません。王都地下、教会支部、ギルド登録石、貴族家の血統祭壇……複数の中継を使っています」


「社会そのものが中継器か」


「はい」


 彼女は唇を噛む。


「だから、聖都に行かなければ止まりません」


 中枢の白い文字が消える。


 代わりに、遠い祈りの鐘のような音が、家の上空を通り過ぎた。


 その音に、五人の亀裂が順に震えた。


 セリアは首元を押さえ、眉を寄せる。


「この鐘、聖騎士任命式の奥で聞いた音に似ている」


 ミュールは耳を伏せる。


「夜爪の命令音の下にも、同じ音があったかもしれない」


 イリスは顔を青くする。


「魔塔の炉心起動音にも、基礎波形が重なっています」


 ロゼッタは帳簿を閉じた。


「商会の契約印にも、教会認証を使うものがあります」


 ナギは刀の柄を握る。


「神域の門の音」


 ばらばらだった傷が、同じ鐘の下に集まっていく。


 聖都は遠い。


 だが、彼女たちの過去にはずっと、その音が混ざっていた。


 遠い場所ではない。


 彼女たちを縛った全ての奥に、聖都は最初からいた。


 この家を守る戦いは、聖都へ続いていた。


 そして俺たちは、まだその鐘を止める方法を知らない。


 知らないまま、それでも行く理由だけは分かってしまった。


 もう、逃げられない。



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