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君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

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二枚貝はそのままで

「……あれ……?」

 翌朝。目が覚めて隣を見れば、旦那様はもういなかった。昨夜はわりと良い雰囲気で寝た気がするのだけど。

「…………」

 周りを見回しても、室内に人の気配はない。推理小説に倣って旦那様のいたであろう場所に手を伸ばしてみると、まだ温かい……ような、もう若干冷え始めているような、なんともいえない感触だけが指先に伝わった。

 備え付けの時計を見れば、まだ早朝だ。こんな時間に主人が動き回ったら、使用人たちが焦ってしまうのに。というか。

「……起きるまで、待っててくれても良かったのに」

 まあそんな義理はないのかもだけど。寝るときはけっこう良い雰囲気だと思ったのに。

 そう思って唇を尖らせた私は、ようやく自分がベッドの中央付近まで寄っていることに気づいた。

 ……待って? まさか私の寝相がすっごく悪くて、夜中に愛想を尽かされたとか……?

 青褪めていると、普通に奥の衣装室のドアが開いて旦那様が現れる。

「ネリネ? 起きていたのか。おはよう」

「おぉはようございますわっ?」

 それとなく慌てて淑やかに寝癖を押さえて、ささっと手櫛を入れておく。

「旦那様は、よく眠れましたか?」

「……ああ……まあ……」

 それ眠れなかった人の反応ですよね。

 視線をふわふわと斜め上のほうに漂わせた旦那様が、慎重そうに口を動かす。

「……その、飲み物でも、飲むか?」

「よ、よろしいのですか……? 無自覚にベッドを占拠した私に?」

 旦那様の目が、やたらと眠たそうに瞬いて、遥か彼方を見る。

「ああ……調子に乗っても良いと言ったのは、俺だ……」

「そそそそんなに寝相悪かったんですか私……!」

 旦那様の瞬きが爆速になった。

「あっ、いや、君の寝相は良かった! 責めているわけではないんだ。むしろきっちり中央手前から君側のベッドの縁までを適切に往復していた! これは俺の問題であって君のせいじゃない!」

「良かった……」

 ――ん? 旦那様、なんか詳しくない?

 叫んで去っていった旦那様の背中を見送りながら、首を傾げる。

 さては……というかほぼ確定で、眠れなかったんですね、旦那様。私は爆睡しましたが……。

「……えっ?」

 ということは私は、旦那様に寝顔を見られまくっていたことになるのでは――?

 まずい。思わず口を押さえて、それとなく涎とかの形跡がないか確認してしまった。よし、ない。

 そんなふうにばたばたしていると、すぐに旦那様が戻ってきて淡い蜜色の飲み物のグラスを渡してくれる。

「蜂蜜レモン水だ」

「疲労回復健康ドリンク」

 朝から身体サポート成分豊富である。

「旦那様、もしかして朝の日課で筋トレと走り込みとかしていましたか?」

「ああ、現役時代のようなことはできていないが、多少は維持しておきたいからな」

「なるほど。ちなみにどの程度を?」

「三十分ほど筋トレして、十キロほど走ってるだけだよ。ウォーターマン先輩には負ける」

「じゅ……確かにお兄様は毎朝どこかしらの浜辺を飽きるまで走ってから、海で筋肉と肌を冷やすついでに素潜り漁をしてきますが……あのノリに勝たれても困るといいますか」

 だって旦那様にはそこまで野生に帰って欲しくないというか……たぶん海の幸だって、毎朝一掴みずつお兄様の朝の心地良い達成感の戦利品として狩られるとは思ってなかったよ!

 とはいえ旦那様も筋トレのち十キロランニングは軽い朝活みたいな顔をしているけれど、まあそれは格好良い肉体派の範囲です。私はありがたく冷たい蜂蜜レモン水を口に含んだ。美味しーい……。

「そういえば、ボート部といえば合宿がお兄様ですら少し堪える訓練だったと聞いたのですが。特に最終日がすごかったと」

 詳しく聞こうと思っても、お兄様だとすぐ体感のヤバい! すごい! 美味い! みたいな話になってしまって、詳細不明だったんだよね。

「ああ、ボート部の合宿は、前日に一日休養日を取った最終日に、五キロ泳いで、カヤックで二十キロ下って、十五キロ走ってから打ち上げだった。……一応、まだ身体ができていない低学年のうちは、最後の走る部分だけとか最初の水泳だけとか、そういう慈悲はあった」

 私は自分で聞いたくせに反応に困って、渋い顔で蜂蜜レモン水を啜った。十五キロは慈悲。

「あの、それって、打ち上げパーティーをする気力も競技の一部なのでは?」

「どうだろう……打ち上げパーティーは、合宿で毎日力尽きながらやる自炊ではなく、実家が太い父兄の協賛パーティーだったからな。全員咽び泣きながら参加して死ぬほど食べていた」

「怖い」

 王立学院って、王侯貴族とそれに連なる上流に生まれた男子の教育施設だよね?

 ボート部なのに最後に個人戦するの、たぶん群れの序列確認のためだよね?

 なのに自主的に理不尽に耐える側に落ちすぎて、だいぶ尊厳を見失ってない?

 とにかくグラスを空にした私は、旦那様にお礼を言いつつ、本題に戻ることにした。

「ご馳走様でした。あの、やっぱりダメそうでした? 一緒に寝るの……」

「………………いや」

 旦那様は私からグラスを受け取ろうとして掴み損ねながら、呻いた。

「あっ、嫌でしたか……」

「そうじゃない! 思ったよりも……大丈夫そうだった」

 けっこう小声になってしまわれていたが、私は大丈夫だったという言質を確保するために、大きく頷いた。

「大丈夫そうだったんですね! よかったです大丈夫そうで! 嬉しいですね大丈夫そうで! …じゃあまた一緒に寝ましょうね!」

 だってかなり安眠できたんだよね、私。

「え」

 しかし旦那様は、想定外だったような顔をした。

「? 私がいても大丈夫! だったんですよね?」

 朝から蜂蜜レモン水で元気になった私は、気分よく調子に乗った。

「……うん。……うん? ……うん」

 旦那様は頷きながらご自分の蜂蜜レモン水をちびちびと舐め始めてしまった。

 そうして数十分後、お迎えに来てくれたエジェリーは、ご機嫌な私とまだ首を傾げている旦那様を見比べて、小声で聞いてきた。

「あの、奥様? 厚手のネグリジェで大丈夫でしたか?」

「え? 室温? ちょうどよかったよ?」

「……そうでしたか」

 なに、そのちょっと残念そうな反応は。私は困惑しつつも、自室に戻る前に決めておきたいことを聞いた。

「ところで旦那様」

「うん」

「今後の共寝は、どのペースにされますか?」

 旦那様は黙ってしまわれた。

「……提案があるのですが」

 旦那様がものすごく不安そうに私を見た。そんな変なことは言いませんよ。

「コイントスで決めるのはいかがでしょうか」

「コイントス」

「表が出たら一緒に寝る、裏が出たら別々で、みたいに」

「……そんなもので決めてもいいのか?」

「今日は気分が乗らないから止めておこうと言われるよりはいいと思いませんか?」

「それはそうだな……二日に一度か」

 旦那様はそう言って、なぜか枕を掴んだ。

「えっ」

 今の私、二日に一度のペースで一緒に寝ましょうねって言った人になったの? ……じゃなくて、旦那様なんで枕の表裏を見ているの?

「……嫌なら、二回表にならなければ止めておくか?」

「急に少な……んんっ、いえ、それは嫌ですね。ではなく、なぜ枕を構えているのですか?」

「この場でコインを持っていない」

「それはそうですね。……刺繍がある面が表ですか?」

「ああ。表ならよろしく頼む」

 そう言って旦那様は、枕をくるくると回るように天へぶん投げた。

 そして、ぼふんとベッドに落ちた枕は。

「……裏ですね……」

「そこで表を引けない奴としての視線を四方から感じるな……」

 それは仕方ないですね。今のは絶対不正するところでしたよ。



 その晩はひとまず別々に寝た。気分転換にヌエ先生の睡眠学習もした。領地運営の理論上理想的な人口推移の授業をされたので、だいぶ忘れた。

 そして翌日の朝食後。お茶を飲みながら。

 私はもうすぐ婚家に実家の弟が来るという、ちょっとしたレアイベントにそわそわしながら告げた。

「あ、そうでした。ケルッピィのスペースを用意してあげてください」

「ケルッピィ?」

 旦那様が不思議な名前を聞いたような顔をする。

「はい、リナスの愛馬です。気難しいところがあるので、他の馬とは別の待遇にしませんと。水浴びを嗜みますので、できれば噴水のそばに」

「そう、なのか? わかった」

 旦那様は頷いて、控えている使用人たちにそう告げた。

「聞いていたな」

 彼らはちょっと困惑した顔で頷いてくれた。

 そして、日が高くなった頃。私は出迎えのための最高級殻付きホタテ(ウォーターハウスの冷凍便で運よく買えました)を用意して、しっかり髪の日除けをして外に出た。

「リナス!」

 久しぶりに会った弟に破顔して駆け寄る。以前アクアマリン伯爵領に向かう前に実家に立ち寄ったときは、リナスはもちろん王立学院にいたので、会えなかったのである。

「お久しぶりです、姉上」

 リナスは愛馬ケルッピィから軽々と降りて、優雅に礼をしてくれる。

「義兄上におかけしている御迷惑は、軽度で済んでいますか?」

「旦那様が力持ちなので、おそらく軽度で済ませてくださっているかと……」

 リナスは真剣な顔になって、私の後ろから来た旦那様に向き直った。

「どうか今後も姉をよろしくお願いいたします」

 うん、ありがとうねリナス。ウォーターハウスの良心。旦那様は苦笑してくださっているけれど。

「ああ、心得ているつもりだ。よく来てくれたな、リナス殿。こちらの都合に合わせてもらって助かった」

「いいえ、本当に私が実家に帰るついでですので、お気になさらず。移送には注意が必要な物ですし」

 旦那様の上品さに合わせて、リナスも大人っぽく朗らかに会話している。

 しかし私は久しぶりに見た可愛い弟に、お淑やかな姉としての我慢ができなかった。

「ねえ、ところでリナス、また背が伸びた? あと髪型変えたね! かわい……かっこいいよ!」

 だって規律を求められる少年部では結ぶために軽く伸ばしていた髪が、青年部に上がったからか、ふんわり軽やかなウルフカットになっていた。明らかに王都の流行を押さえているのである。

「姉上。褒めてくださるのは嬉しいですが、俺はもう十九です」

 拗ねた顔で見下ろされた。

 ごめんね。お姉ちゃんからするともうその異議申し立てぶりが可愛いんだよ。青年部デビューおめでとう!

 私がニコニコしていると、リナスの愛馬ケルッピィが、少し大袈裟に身体を振った。

「あ、ケルッピィにも少し休んでもらわないとね。リナスは今年もケルッピィと帰るんでしょう?」

「はい、よろしくお願いします」

「……まさかとは思うが、リナス殿は愛馬に騎乗して帰領するのか?」

 旦那様が少し怪訝そうに眉を寄せた。リナスはしっかりと頷いた。

「はい。ケルッピィなら単騎でも安心ですよ」

「単騎……? 侯爵家の次男が、王都から領地まで?」

「ケルッピィは、浅瀬なら突っ切れますから。他の馬に乗った護衛を連れていくよりも格段に早いですし」

 旦那様は、ケルッピィをまじまじと見て、曖昧な表情で微笑む。

「……馬……なのか?」

 私もケルッピィを見た。彼女は少し湿った天然のマリンノートの香りがする、青毛の艶々しっとりした美しい馬である。

「馬ですよ……? まあちょっと泳ぎが得意ですけども。ねー、ケルッピィ」

 人間なのに、五キロ泳いでカヤックで二十キロ下って十五キロ走るのが伝統行事の人たちに言われたくないよねー?

「グルワゥッ!」

 ケルッピィが私に優しい返事をしてくれる。私はいそいそと事前に用意してもらった大きな帆立を掴み、ケルッピィに献上した。

「馬の鳴き声か?」

「怒らせちゃ駄目ですよ? この子、リナスに無礼を働いた人を、水中に引きずり込んじゃったことがありますから……」

 でもケルッピィは、相変わらず人懐っこい馬である。ほら見て、ちゃんと私の手から帆立を殻ごとバリバリ食べてる。

 そんなケルッピィを愛おしそうに見つめながら、リナスが無邪気に笑う。

「ケルッピィは、長距離移動ではトルト走法で走ってくれますから。まったく揺れませんよ」

 ちなみにトルトはこの国の上のさらに国の上のほうにある、かなり寒い国の在来馬独特の走法である。まあ、ケルッピィはそこの出身ではないかも知れないけれど。

「……そうか。では噴水を壊さない程度に水浴びを楽しんでくれ」

「グルルルァゥ!」

 旦那様の言葉に、ケルッピィがご機嫌の声で身体を震わせた。

 後ろにいた使用人たちが、ひっと身を竦ませた。……なんかごめんね? でも大丈夫だよ、ケルッピィは帆立のほうが味が好きみたいだし。

「ああ、ケルッピィのエスコートは僕がしますから、お構いなく」

 そう言って、リナスがケルッピィの馬体を撫でる。

 私は噴水にリナスたちを案内することにした。旦那様もついてきてくださろうとしたけれど、先に戻ってもらうことにする。

 そして私は、それとなく可愛い弟に問いかけた。

「そういえばリナスは、王都のお店には詳しいの?」

「いいえ、まったく……学院も忙しいですし、休日はケルッピィと走るので」

「そっかそっか。ねえ、じゃあ女の子に人気のお店教えてあげようか」

 そろそろ貴方にも必要でしょう? みたいな雰囲気を出してみると、リナスは怪訝そうな顔をした。

「……どのような店なのですか?」

「可愛い缶と蓋と中身のお菓子を選んで、自分の好きな組み合わせの缶を作れるところだよ」

「はぁ……」

 リナスは困惑したように頷く。姉はなにを企んでいるんだろう、と顔に書いてある。鋭いね。

 なので私はとっておきの情報を付け加えた。

「推し缶も作れるよ。もちろんケルッピィのも」

「……ケルッピィ色の、推し缶……」

 リナスの声が揺れた。

「作りに行く?」

「え、いえ、俺は」

「今ならお姉ちゃんが一緒に行ってあげるよ?」

 ここぞとばかりに畳み掛けた私に、リナスがあっと目を見開いて、すぐに眇めた。

「……姉上はどなたの推し缶を作るおつもりですか」

「えっ」

 姉上の犯行予告を押さえるの止めよう?

「それは……乙女の秘密で」

「乙女」

 可愛くない弟は言ってはいけない単語を繰り返した。

「……リナス」

「はい」

「推し缶は私が奢ってあげます」

「ありがとうございます、姉上」

 鷹揚に頷いたリナスは、沼の底のように深い黒目で私を一瞥したケルッピィを、慈しむように噴水の側に繋いだ。

 その背が記憶よりもまた大きくなって、ずいぶんと青年っぽい髪型になっているのを眺めながら、私は悪態をついた。 

 やーい、貴方の姉は、嫁いで数カ月経っても乙女!

 ……なんなら結婚式でさえキスもしてませんよ!


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