ひとまずチョウチョウウオから始めませんか
これまで旦那様が夜中に私を主寝室に呼んでいないことくらい、屋敷内では下位の使用人たちまで知れ渡っていたことである。
結婚初夜でさえ、主寝室でしばらくお話したあとは、私は「今日は疲れましたね」とか言って夫人部屋に戻ったのだ。その後だって、なんの用意もさせていない。それらしい身支度もなければ、不寝番の配置も動かしていないのだから、察するのは当然のことだろう。
ただ、私が来た当初から、それまで女主人がいないあいだ屋敷を取り仕切ってくれていた侍女長のヘンルーダや、屋敷の使用人を束ねる執事長は、きちんと私を女主人として迎え、そう扱ってくれた。
だから、その下に付く者たちも彼らに従ったのだ。
私が屋敷で悠々自適に暮らせているのは、まったくもって私の人徳とかではない。ヘンルーダや執事長の、伯爵家や旦那様に対する忠誠心と、その忠誠心を捧げられるに値する旦那様の現在までの努力と、先代伯爵様の生前のご配慮のおかげである。あと私の実家の侯爵家という後ろ盾。
……そして、私たちは政略結婚後に両片思い恋愛文脈ごっこ中という、高度に曲解された客観的観測がわりと事実だったかもしれないことが判明した、マジョラムによる噂の流布。
これらの総合的要因により、私が女主人であることと、旦那様との初夜がない状況は、旦那様の事情を知らない大多数の使用人たちの中でも、おそらく問題なく両立していたのである。
……つまり、そう。
「とうとう旦那様と奥様が、今夜はご一緒のお部屋で過ごされるのね……」
「いったい何が起きるのかしら……?」
え、何が起きるってそんなに種類あるの……?
廊下を歩きながら、近くの曲がり角の奥から聞こえた声に、私は困惑した。
あっ、禁断の夜食付きカードゲーム大会場外乱闘枕投げ有りとか……? いや、そんなのするの私の実家くらいじゃない……? 寝たら隣の人に物理的に足を引っ張られる徹夜ホラー映画祭なら皆するんだっけ? しないよね……。
しかし使用人たちが混乱するのも無理はない。
急いでいろいろ用意してくれている使用人たちのひそひそ話は、私が地獄耳なだけで、私の後ろにいるヘンルーダには聞こえていないはずだし、彼女たちもまさか私に聞こえているとは思っていないだろう。
でも私は、少しだけヒールの音が響くように歩いた。
すぐに彼女たちは会話を止めてくれる。
……だって気まずいし……。別にまだやるべきことまではやらないし……でも私、ここにいまーす……。
そして夜。エジェリーに「大丈夫ですよ、奥様。不寝番も、もう奥様の切実な悲鳴と単なる動揺の鳴き声は聞き分けられます」と送り出された私は、旦那様の寝室へと侵入した。ねえ、私ってなんなの?
「あ……あの……参りました」
しかし微笑んでくださった旦那様の服がなんだか薄い。夏用の寝巻の上下に、さらりとしたガウンしか羽織っていない気がする。私は目を伏せて降参することにした。
「……ええと、ココアでも飲むか?」
「歯磨きをしてきたので……」
「ああ、そうなのか」
旦那様は頷いて、それからこちらを気遣うように言った。
「もし何か思うところがあるなら、早めに教えてくれると嬉しい」
「い、いえ、これは少々緊張しているだけで! ただメダカやハダカカメガイ(クリオネ)やハダカゾウクラゲを見るのと同じで! びっくりしただけで……!」
焦って顔を上げて必死に言い繕った私に、旦那様は微妙な声で呟いた。
「ハダカゾウクラゲ……」
「はだか……」
私は冷静な淑女として観察し、呟いた。奴らは身体がほぼ透明に透けている。ハダカゾウクラゲは巻貝で、巻貝を捨てたゾウクラゲ。しかし旦那様は。
「……服、着てますね」
「着てるな」
「じゃあ大丈夫ですね……?」
ハダカゾウクラゲに比べたら、旦那様があまり透けない皮膚と布一枚以上を備えているなんてそんなに緊張することじゃないよ。たぶんきっとおそらく。
「そう、だな……うん。ハダカイワシよりはマシだろう。少し待っていてくれ。俺も歯を磨いてくる」
なぜか鱗が剥がれてベージュ色になりがちな深海魚(干すと美味しい)の名前を呟いた旦那様は、軽めに頷いて、奥のたぶんバスルームだと思われる扉の先に行ってしまわれた。
私は冷静にその背中を見送ってから、察しの良い貴婦人として気づいた。……あっ、さっきのココア、飲みたいですって甘えたほうが良かったやつ? でも、日々美味しいお魚を食べるのに、健康な歯は必須だからね……。
居た堪れなくなって、きょろきょろと周囲を見回しておく。
するとベッドサイドに備えられた小さな本棚に、目が吸い寄せられた。
「……おお……!」
そこには、私が書いた現実逃避本(三百六十五日間水族館に引き籠もるときの楽しみ方!)が収納されていた。
物音を立てないように、そーっと抜き出して、上下左右裏表を見て、パラパラと捲ってページの様子を確かめる。
「……読まれてる……すごい……恥ずかしい……」
露骨な傷みはないのに、ページは開きやすいし、ほんのり開き癖もついているような気がする。しかも第二版って書いてある。初版三冊なのに。
私は無駄に厚い背表紙を棚の天板につけて直角に立て、無慈悲にも一番クセがついていそうなページを割り出すことにした。
「あ、あ、わぁー……」
トドについてやたら語っているページが開いてしまった。というか、小さな栞が挟まっている。ベルーガの。
理解した瞬間、私は素早く本を閉じて、棚に戻した。旦那様、ペットを自認する面倒な妻の生態について、真剣に勉強してくださっていた可能性が高い。
そうして他に気になった本を抜き出したところで、旦那様が戻ってこられた。
「あっ、その……この本は?」
私は新しく手に取った本を見せた。『HaPpy&Love C著 ルイェールのお目覚め!』というなかなかクセの強い本である。
「ああ、個人的にも古代都市ルイェールについて調べていたんだ」
「なるほど……?」
「タイトルと著者名に不定の表記を感じるが、内容は意外と真面目なルイェールの研究書だ」
私は奥付を開いて著者の経歴を眺めた。
「あ、もしかしてハリー・フィリス・ラブキュート先生の新しいペンネームですか、これ」
ウォーターハウス侯爵領で、よくルイェールについて研究をされていた方である。
「スリーピーハーピィ先生の別名義で、エメリーン様のお好きな映画の設定考証もされていたはずです」
「そうなのか。道理で……遺物の解説自体はまともなのに、古代遺物が流れ着く理由はルイェールが寝惚けている説を強固な前提にしているフシがあったわけだ」
旦那様はそう言って、ベッドに腰を掛けた。キシッと、控えめに今夜のバトルフィールドが軋む音が聞こえた。
「る、ルイェールの神秘には普通に魅せられている方ですからね。どうでしたか? 何かおもしろ……気になる記述はありましたか?」
旦那様が、ちらりと私を横目に見た。
「最近読んだ部分に書いてあったんだが。ルイェールでは、魔力の高さが髪に出る者がいたらしいな」
「……そ、そんなことも書いてあったんですねー!」
私の声が淑やかに高くなった。
「まあそれはいいんだが」
「い、いいんですか」
「ああ。だが、君が来た頃から領地に増えた古代都市由来の漂流物については、調べなければならない」
「……えーっと」
――そんなに増えたの?
私がバクバクしたばかりの心臓を抱えて固まっていると、旦那様は、まな板の上の鯉を落ち着かせるような顔で微笑んでくださった。
そして立ち上がって、ベッドから少し離れた位置にあるキャビネットを開けて、中からガラスのケースを取り出して見せてくださる。
「これは先週に流れ着いた物だそうだ」
「そ、それは私のせいではないのでは」
被疑者の自白のような声色で呻いた私に、旦那様は軽く頷いた。
「うん。だからこそ、危険なんだが……」
「あっ、その水玉パール帆立貝のやつ可愛いですね?」
「そうだな」
思わず手を伸ばした私から、旦那様はやんわりとガラスケースを遠ざけた。
「王都の危険物解析班によると、すぐに爆発するような代物は紛れ込んでいないらしい。だから流れ着いた物は、ウォーターハウス侯爵家に協力を仰いで、そちらの研究所で調べてもらうことにした」
「なるほど」
私は腕を後ろ手に組んで、旦那様を警戒させないようにケースを眺めることにした。爆発しないなら触っても良くない?
「それで、君の弟であるリナス殿がちょうど明後日に王都から実家に帰るそうで、彼に預けるように言われている」
「リナスに?」
「ああ。この家に立ち寄ってくれるそうだ」
「……おお……」
久しぶりに我が弟に会うチャンスだね! 楽しみ!
ちょっと気分が上がりつつも、私はガラスケースの中に気になる物を見つけて首を傾げた。
「あの、ところでこの計測器のような物は? ルイェールの遺物っぽくないような……」
磁気コンパスと気圧計を組み合わせた、おそらく魔力計測器だと思われる小型のそれは、繊細な盤面とシンプルな構造をしているように見えて、シンプルな形と複雑な構造をしているルイェールの物とは異なるように見える。
「ああ、ルイェール産らしき漂着物に紛れて、一つだけ現代の魔力計測器が混じっていたんだ。でも、壊れ方が妙でな。外部刺激ではなく、内部から魔力回路を破壊されている形跡がある」
私は困惑した。それは話が変わってきている。
「海の中で、ですか?」
「海の中で、だ」
「……海底で何か大きな魔力反応に触れすぎたとか……?」
「あるいは、触れようとして拒まれたか」
私は『HaPpy&Love C著 ルイェールのお目覚め!』のほうを見た。
「……ルイェール、寝惚けて自衛したんですかね……」
「かもしれないな」
まあ、寝ると決めたら、ゆっくり寝たいよね。
あ。
「……その、そろそろ寝ようか」
旦那様が、視線を時計のほうに向けながら言った。
「は、はい。明日の予定もありますからね」
私はそわそわと何も起こさない前提のバトルフィールドもといベッドに向かった。
そして私たちは、ベッドの端と端でいったん立ち尽くした。
「……ええと」
緊張する……。旦那様もしてる……。
しかし向き合わなければならない。私は声を張った。
「あのっ! ひとまずチョウチョウウオから始めませんか?」
なんだか戦いの前の名乗りのようになってしまった。
「……チョウチョウウオ」
ベッドの反対側から困惑の声が聞こえた。ちなみにチョウチョウウオは、ペア行動多めのなんか良い感じの綺麗な黄色い熱帯魚である。美味しいらしい。
「い、いずれはコンビクトシクリッドかもですけど……! ひとまずは、チョウチョウウオから……」
「……うん」
合意は得られた。ちなみにコンビクトシクリッドは主に一夫一妻制の仲良さげなシマシマの熱帯魚である。味は淡白らしいけれど、肉質は良いとか。
よし。私はしずしずとベッドに上がった。
反対側で、私よりも一・五倍くらいベッドを軋ませて、旦那様もベッドに上がる。
重量感に敗北した私は、無になるためにベッドの端で横になった。
そして天井を見上げて内心首を傾げた。
あれっ、夫婦の共寝って、こんな感じだったっけ。
いや確か恋愛小説で読んだ感じだと、旦那様に良い感じにベッドに連れ込まれるような感じで……。
まあ甘えに来たわけじゃないからね。先に私が動いちゃったし。
反対側の端……縁? に寝転がった旦那様が、もう一度起き上がって、ベッドサイド以外の明かりを消した。戻ってきた。またベッドが軋んだ。なんだか心臓に悪い。ドキドキする。助けて。
思わずさらにベッドの縁に寄ろうとした私は、ものの見事にずり落ちそうになった。薄暗い室内で、音もなくベッドから滑り落ちる貴婦人はちょっと嫌だ。そう思って必死に手を中央のほうに伸ばして、ベッドシーツを掴んでしまった。
手が当たった。何にって旦那様の手に。
「っ……!」
思わず引っ込めそうになった指先を留めて、私は静かに身体をベッドに戻すと、指先を旦那様の手に乗せた。
だって、他所を向いているのに、手まで慌てて離したら、なんだか拒絶しているみたいだ。私は恥ずかしいだけで、嫌なわけじゃない。
指が、絡まるようにきゅっと握られた。
私よりも一回り大きくて、しっかりとしていて、でも繊細で私のことをいつも大事に扱ってくれる手だ。
だけど、エスコートされるときよりも離れた状態で、ただちょっと手を繋いでいるだけなのに、私の心臓はバクバクと早くなっていて、それが伝わらない距離に少しだけ安心した。
「その……ネリネ」
旦那様の声が、なんとなく普段よりも低く、掠れたように聞こえた。
「……いつも、ありがとう。君を好きになって、本当に良かったと思う」
「キョッ」
不意打ちすぎてあり得ない鳴き声が口から溢れた。
「んんっ……君が来てくれてから、毎日が……なんというか、明るくなった気がするんだ……うん。そうだな、楽しいことが、かなり増えた」
旦那様がけっこう笑っていることが、背中の揺れから伝わる。ねぇ、それ鳴き声のせいですよね?
「だから、とても感謝している。……俺は、いたらないところばかりだが……どうか、許してほしい」
私が口をパクパクとエア緋鯉ごっこ(顔真っ赤)しているうちに、旦那様はふっと言い切った感じで呟く。
「……おやすみ」
えっ、待って。私まだ何も返してない。
「おやすみなさい、旦那様」
そう言うだけではなんだか物足りなくて、こそっと付け加える。
「大好きです」
冗談めかしてしまったけれど、本音だから許されるだろう。
隣から、微かにひゅっと息を飲んだような気配がして、指先の力が僅かに強くなる。
それで嫌がられたわけではないと安心した私は、ちょうど打ち寄せてきた眠気に身を任せることにした。
旦那様の手、温かくて安心したし。




