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君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

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トド期終了のお知らせ

「……ところで実家には?」

「帰りません」

「良かった……」

 こうして実家に帰らなければならないトド期はなかったことにした私は、優雅に旦那様の執務室から退出した。パリュールのデザイン案は、一日自室に持ち帰って検討することにするね。

 そう決めた私は、出来る妻として、さっそくエジェリーたちに手伝って貰って、手持ちのジュエリーを精査し直して最も使いやすいパリュールのデザインを選び抜こうと――

 ――と、思ったんだけどね。自室に戻るまでは。

「疲れた……」

 今の私は……全てを見聞きしてしまったエジェリーとマジョラムだけを残して私室に引き篭もり、ソファの上でラストトドの姿勢になっていた。

 だって本当にいっぱいいっぱいなんだよ、頭の中。

 まさか、ここにきてトド化して保っていたアイデンティティが、完全崩壊してしまうなんて!

 いや、いいんだけどね? 『ペットのトドです』よりも、『旦那様にずっと愛されていた妻でした』のほうが――

「――ぴぇっ……」

 クッションに突っ伏して、襲い来る恥ずかしさと嬉しさにじたばたしないように震える。

 えっ、旦那様って私のこと好きなの?

 私はおろおろと、絶対に呆れているであろう侍女たちに問いかけた。

「エジェリー、マジョラム……現実ってなんだっけ……」

「恋に浮かれて哲学の道を走ろうとする状況のことですかね」

「ソファで泳ぐ時間とかですか?」

「具体的ぃ……」

 もう一度クッションに逃げ込んで――これまで存在しなかった妄想上の愛人と戦い続けた挙句、あろうことが第二王子殿下や王女殿下を旦那様の本命だと思い込んで、一人で迷走していた記憶をうっすら思い出しかけて――思い出したら死ぬタイプの走馬灯を彼方に流し返す。

「……私は愛人とか疑ってなかった。旦那様は私のこと、最初から……わりと好き。よし」 

「旦那様は奥様のこと、とても好きだと思いますよ?」

 マジョラムの不思議そうな修正に、身を起こそうとしていた私はまたクッションに倒れた。

「え、エジェリー、私が今日やらなきゃいけないこと、なんだっけ」

「ジュエリーの確認と、今夜着用される夜着の確認ですね」

「今夜っ?」

 私は飛び起きた。今夜とは今日の夜である。そして夜着なんていつも着ているものを、わざわざ日中に確認するわけではない。

 つまり、それはちょっと面子を気にした夜着のことを指しているのであり、それが何かというと、妻が旦那様とまあうん。それ。添い寝というか間合いを測りながら寝台というバトルリングで共寝するにしても、ほどよく薄手で一張羅の寝間着じゃないと貴族夫人らしさが消失するもんね。

「……でも、そんな、提案した直後に押しかけなくても」

「初回の日を空けると気後れしませんか? それに来週はあまり望ましくないのでは?」

「あー……うん」

 そうだね。そろそろ浮腫みが気になる時期に入るね。

 エジェリーに諭された私は、来たる一大事に動揺してソファから立ち上がった。もはやトドをやっていられる状況じゃない。

 こうして私は、一番生地とボタンとリボンがしっかりしていてなるべく「私はベッドの上にあるだけのおまけの飾り枕です、お構いなく」と言い張れそうな夜着を選び抜き、昼食と夕食は控えめにしようと考えた。


 でも無理だった。

 そう。だって昼食は、いつの間にか出来る男シモンによって、中庭で楽しめることになっていたのだ。

 おそらく密室でうだうだきゅいきゅいあーだこーだ謝罪合戦していたどこかの夫妻に疲れたので、もう風通しの良い場所にやんわりとソイツらを放牧しようと思ったのだろう。ごめんね。

 というわけでお知らせされた私は、帽子をしっかり被って余計な髪を収納して、中庭に来た。

「わぁ……」

 私が引き篭もっていた間に咲いたっぽいハイビスカスとブーゲンビリアが綺麗だね!

 中央には噴水があって、それを取り囲むように咲き誇る花木を、中庭を囲むテラスの内側から眺める。

 けれど別方向から聞こえた足音に、私は過敏に反応した。

「……こっちに食事を用意してある」

 警戒ではないけれど若干の構えを見せた私に、旦那様はなんとも度し難いものを見る表情で仰ってくれた。これは。

「……え、餌付け……」

 私は思わず控えめに呻いた。

 誰も否定してくれなかった。


 そうして朝から大変面倒だったであろうシモンとマジョラムとエジェリーにも休憩してきてもらうことにして、私は旦那様とテラス席に座った。中庭が見やすいように、丸テーブルに置かれた椅子は、向かい合わせではなく斜め横向きになっている。

「食事の前に、今後の予定を少しだけいいか?」

「はい……」

 旦那様が咳払いをして、まずそう言った。私はテーブルの上の美味しそうな料理の群れから、おそるおそる旦那様に目を移した。

「来週末に、領地に戻る予定だっただろう」

「……はい」

 あっまさか、今日の全キャンセルのせいで予定が狂ったという苦情……?

「なので、来週の始めに水族館に行けるだろうか?」

「あっ、はい! 行けます!」

 ご褒美回の話だったね! 私は全力で頷いた。さすが旦那様、妻への福利厚生が手厚い! 私は旦那様の愛人を疑って一人で凹んで引きこもったせいで流れた約束を、ちゃんとやり直してくれるなんて……。

 私は思わず感動して旦那様を見つめた。

 噴水の冷たさを通り抜けた風がふわりと吹き込む日陰は穏やかなのに。

 視界の外で眩しいくらいの日差しに照らされて、花の咲き乱れた中庭が鮮やかなのに。

 それを背景にしている旦那様が、何よりも静かに目を惹きつけてキラキラして見えた。

「で、では、お聞きしたいのですが」

「……なんだ?」

 旦那様は警戒しているわけではなさそうだけど、少し視線を泳がせた。けれど今の私に引くという思考はなかった。

「その……日中は、どのくらい調子に乗っても良いのでしょうか?」

「うん?」

 だって好きだって言ってくれたし、水族館もちゃんと振り替えてくれたし。もしかして、旦那様って私のことを、かなり大切にしてくださっているのでは? 

「いえ、いつも、乗ってはいましたが……夜はともかく、日中はもう少しお側にいても良いのかな? と……その、妻っぽい感じで」

「…………いても良いのだと思う」

 旦那様は微妙な片言で言葉を返してくださった。そしてふいと私から視線を外す。

「食べよう」

 でも、さすがに私も変な勘違いできないくらいに、旦那様の横顔は微笑んでいた。たぶんきっと、お料理が美味しそうというだけではないはずだ。

 とはいえ――冷たくしたトマトスープと鶏肉のハーブ焼き。生ハムを詰めて揚げた鱒に、チーズとオリーブとカリふわのパン。ハーブと果物とナッツのサラダ。

 冷やした果実水と、蜂蜜のクッキーまである。これは旦那様も嬉しいだろう。私はもはや楽しい。

 スープとサラダ以外は、広いとはいえテラス席に収めるために、大皿から取る形式になっている。使用人は本当に最低限の人数に遠目で待機してもらうだけらしく、さっそく旦那様が私のお皿に生ハム詰めの鱒を取り分けてくださった。

「美味しいですね……」

「うん……」

 あれ、なんか気まずい。というよりも、嫌じゃないのに落ち着かない。気恥ずかしい……?

 そしてさっきから、私も旦那様も、妙にグラスや食器の扱いが拙い。なんかいつもよりも指先がぎこちなくて、カチャカチャしてる……。

 ありがとうシモン。私たちを風通しの良い日陰に外干ししてくれて……食堂では耐えきれなかったと思う。

「す、涼しいですね」

「そうだな……」

 火照ったように赤い顔の旦那様が頷く。

「ブーゲンビリアの花みたいな鮮やかなところは、実は花じゃないんですよね……」

「そうだな……」

 私はとりあえず果実水を一口飲んだ。

「これは亀の日光浴日和ですね……」

「そうだな……」

「そういえば東洋にはカスタードプティングに発酵調味料と海藻を混ぜて、人工雲丹を作り出す技術があるとか……」

「どうかな……豆乳でやったほうが近いんじゃないか……?」

 こうして私たちは、とてもつつがなく食事を終えた。

「またこうやってお食事できれば嬉しいです」

 私は蜂蜜クッキーの余韻に浸りながらそう告げた。緊張はしたけど、風に当たりながら食べる食事ってそれ自体がスパイスだよね。もちろん元から美味しいお料理だったこともあるけれど。

「うん。そうだな、領地の屋敷の庭なら、夜でもできると思うから、浜焼きでもやろうか」

「え? お庭で浜焼き、ですか……!」

 さすが旦那様、レスポンスが早い!

 私が目を輝かせたことがわかったようで、旦那様はくすくすと笑った。

「パエリアも作ろうか。以前に出先でやったとき、楽しそうだったし」

「浜焼きパエリアお家パーティー会……! そんなことがあっていいんですか?」

「いいんじゃないかな」

 どうやら旦那様も、かなり緊張を解してくださったらしい。

 私はまた内心でシモンに感謝した。ありがとうシモン、私たちを庭に放流してくれて……たぶん拾ってきた亀のお世話も最後までやるタイプだよね、助かる。

 旦那様が「そろそろ室内に戻ろうか」と立ち上がって、手を差し出してくれる。

「ネリネも、夜のほうが楽なんだろう? もちろん、休日に昼食をこうやって過ごすことも可能だが」

「あ……はい」

 私は手を借りる前に、少しだけ自分の帽子を直して苦笑した。

 言えないよね。――私の髪、日光で発光するんです、なんて。

 旦那様はご自分の事情を打ち明けてくださったのにね。

「……あ、そういえば旦那様」

「なんだ?」

 立ち上がった私は、髪繋がりで、ふともう帽子を被るからと外してしまったカーネーションの髪飾りのことを思い出した。

 あのカーネーション、旦那様に目を逸らされてから色々あってハーフタイムに入ったときに「これは似合ってないと思われたみたいだから、髪から外して」ってエジェリーに頼んだんだよね。でも、「おそらく違いますので、気になるなら直接聞かれたほうがよろしいですね」と淑やかに諭されたんだった。 

「その……午前中に私が髪に挿していたカーネーション、やっぱり似合ってませんでしたか?」

「え……そこも誤解していたのか?」

 旦那様にびっくりした顔で「誤解」って言われたね、さすがエジェリー。

「……似合っていた。ごめん、可愛すぎて直視できなかっただけだ」

 私は旦那様の顔を見られなくなった。


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