座礁船の後悔と航海について
「――とにかく、誤解は解けただろうか」
同じく紅茶で一息入れた旦那様が呟く。
「はい。それで、その……」
私は紅茶を置き、同じく旦那様が紅茶をテーブルに戻されたのを確認してから問いかけた。
「旦那様は、ご自分の症状を、改善されたいのですか? それとも現状維持を?」
旦那様の頬と耳は、ぶわわっと赤くなってしまった。
「すみません」
でもここ聞かないと、私もどうしたらいいかわからないからね。
「いや、いいんだ……。ずっと、現状維持で良いと思っていたんだが……今は、か、改善できるなら、とは思っている」
「はひ」
ねぇ、相槌で噛んだ。どうしよう助けて。
私はとりあえず、もう空になっていたティーカップを掴み、無駄に傾けた。新しいのを淹れてくれようとしていたマジョラムに、困ったような顔をされた。
……まあ旦那様も、成人男性だもんね? お兄様なんて、なんかよくわからないけどすごいって漏れ聞こえてくるし……。
とにかく飲んだふりをしたティーカップをテーブルに返して、私は必死に落ち着こうとした。うん、素数でも数えよっか。高速サメが一匹! 爆速シャチが二頭! 海面に跳ねたマッコウクジラが四頭! ……海底からメガロドンが八匹! 月光の海からシロナガスクジラは十六……ダメだ脳内がうるさくなった、しかも素数って一から始まらなくない?
それで呆れて少し落ち着いた私の脳裏には、冷静な疑問が浮かび上がった。
――ん、あれ? 旦那様が改善したいなって心変わりされた理由、というか、相手? って……? 誰?
「あの、その場合の、対象? 意図? みたいなのは……わ、私ですか? それとも別の?」
私とは別の、すごく色っぽい人がいた可能性も、まだ――
「君と」
旦那様の声に、私は慌てて姿勢を正した。
「ちゃんと、胸を張って夫婦だと言えるように、なりたいと思っている」
――私だった……! ……泣いていい?
「あの……あのっ、じゃあ、頑張らずに頑張りましょうね!」
気の利いたこと一つ言えなくなって、私はとりあえず気合いを入れることにした。
「頑張らずに頑張る?」
旦那様はキョトンとされてしまった。聞いたことない文句言われたな……みたいな顔をされてる。でも、これに関しては私にも言い分はある。
「だって旦那様は、そもそも頑張りすぎてそうなったのでは?」
「えっ?」
「え?」
おっと? 確かに……とかですらないびっくりした返答で、つい私もびっくりしちゃったね。
「ご自覚されていなかったんですか?」
旦那様は、かなり――一人遺された若い領主として理想的な行動をするために、良い人脈を築いて、必要な物を手配して、正当な努力と自信と権力を理由に、正しく背筋を伸ばしている。たぶん無理をしているわけではないけれど、常に気は張っているだろう。
中身は私に求婚しちゃったくらいに面白いのに、だ。つまりこの世で一番面白いまである素敵な人だし、私が特に支えにもなっていなかったのは事実であるとしても、やっぱり旦那様の心構えの問題も大きい。
「旦那様は、責任感の強い大真面目な方ですよ。それはとても良いことで、自堕落な私としては、凄いなぁって尊敬するばかりですけれど……でも、ご自分の息抜きとかは、あまり得意ではないのでは?」
殿下の謎行動だって、そりゃ九割はご自分の興味本位かも知れないけれど、それでも万年気を張っている旦那様を気遣っている可能性はたぶんまあちょっと一応微量にはあると思うの。
「私相手なら、気を使う必要性もゼロに等しいので、今後は気楽になさってください。私は旦那様のことがとても好きなので」
そう言うと、旦那様はたぶん照れたらしく、目を伏せて頷かれた。
「……うん」
「あ、でもっ」
「……どうした?」
「私では性的魅力は足りない気がします?」
「それは」
旦那様からの視線が少々恨めしそうなものに変わった。
「……問題ないので、……気にしないでほしい」
「あっはい」
……私でいいとかだいぶ特殊性癖では……?
気まずくなった私は、マジョラムが淹れてくれたお茶に口をつけた。そして気づいた。
――むしろ最初のお相手がノーマル過ぎたのでは?
「旦那様ってどなたと、ええっと、あれこれしようとして気づいたんです?」
「まだ続くのかこの会話……」
「深海の未知は脅威として捨て置かず興味を持って潜り調べるものだという家訓で育ちまして……」
明らかにげんなりされてしまったが、私が言い訳すると、旦那様が苦い顔で話してくださった。
「そうか……。成人祝いという名目で、先輩たちにそういう店の女性を紹介されたことがあって……」
「へぇ……」
私はカチャリとカップを置いた。
まあ女性側はあんまり詳しくは語られず、殿方に身を委ねておきなさいみたいな感じだからね。男性側はそういうノリもあるだろう。
「で、駄目だったと」
「急に直球だな」
「私以外のお相手の話だったので、つい」
旦那様がぽかんと私を見た。
「……は?」
私は自爆を悟った。
「………………きゅいきゅいきゅっきゅきゅぅぅぅー……?」
鳴いた。妙に甲高い声で。私は鳴いた。というか震えた。ちなみにイルカは声帯ではなく噴気孔という器官で鳴いている。そして人間以外の生物は音で意思疎通をしているのであって、明確な言葉を選び続けて接続詞を使い長文で敬語等を絡めて適切なお気持ちを込めた対話を試みているわけではないのであり、
「それで誤魔化すのはどうかと思うぞ」
「わたしひとのことばはなせないです」
「そうか。どうやら意思疎通はできているので問題ないぞ」
大問題ですよ……。
恥の上塗りを重ねて固めて顔を覆っている私の斜め後ろから、エジェリーが慰めるように髪を整えて肩を撫でてくれた。でもたぶん、奥様それ鳴いたから余計に恥ずかしいことになっているのでは? とは思ってると思う。
「……ネリネ」
「ふぇ、ぁい」
旦那様に声を掛けられて、仕方なく、私は顔を上げた。
「俺は、君が好きだ」
「………………っ」
「一生大切にしたいと、思っている」
「…………ゅ」
「だから……できれば、よそ見せずに待っていてほしい」
「っ……はい、わかりました」
私はまた鳴きそうになるのと心臓が崩壊しそうになるのに耐えながら頷いた。どうしよう、海底まで潜ってけっこう粘ってから浮上した人みたいな体調になってる……。
けれど真っ赤になって真剣に私を見てくださっている旦那様を見ると、心拍数が跳ね上がって酸素がぐるぐると全身に供給されておかしくなりそうな理由を、ちゃんと口にしなければならないと思えた。
「……私は、もともと旦那様しか見てませんよ?」
呼吸を整えるように、溢れてくる気持ちを出す。
「だって、旦那様と一緒にいると、毎日が楽しいので……あ、気負わないでくださいね? 私、放っておかれても、旦那様が近くにいてくださると、勝手に楽しくなっているので」
「……ありがとう」
目に毒なくらい、柔らかくて甘そうな笑みがかえってきた。え、この人、私の夫なの……? すごい……。
照れた私は、思わず話をずらすことにした。
「で、でも、具体的にどうしましょうね? お医者様にはご相談されていますか?」
「……昔に一度だけ。相手がいるわけでもなかったし、特に改善するために手段を尽くしていたわけではない」
「そうでしたか」
私はお淑やかさを取り戻した素振りでゆったりと頷いた。
「では、試しに一緒に寝てみます?」
「えっ……」
あれっ、今「えっ」って言ったの旦那様だけじゃなくて、旦那様の後ろにいるシモンと私の後ろのエジェリーのほうからも聞こえなかった? あとマジョラムはその場で微妙に跳ねたよね?
私は四人を見て、そしてようやく私がまた事故を起しかけたことに気づいた。
「あっ、添い寝です、添い寝っ! 私も、そういうことには疎いので……ふわっと旦那様って格好いいなぁと思っていても、それが繁殖行動に結びつく感覚があまりわからないので……!」
「そう、なのか……」
旦那様は微妙なお顔になってしまわれたけど、これはまだ私の中ではかすり傷!
「どちらかというと、異性というか人として好き、みたいな……?」
あれ、シモンのみならず後方のエジェリーからも微妙な視線を感じるような?
「あ、あ、ええと、イルカやラッコの交尾なら見たことはありますが……! ラッコってロマンスの欠片も無いんですよねぇ……!」
私は慌てて取り繕おうとした。 旦那様も頷いて乗ってくださる。
「あ、ああ……しょせんイタチの仲間だからな」
「可愛い顔してわりと害獣なんですよね……」
イタチは言わずもがな、ラッコも養殖中の貝とか食べちゃうからね。高級食材大好きの大食漢だし。しかも食べ方がちょっと雑。
「うん……交尾についてはな、雄が雌に噛み付いて押さえつけるのが当然の哺乳類もそこそこいるし、虫なんか雌が最後に雄を捕食して栄養にする奴もいるし……そもそも繁殖が必要なこと自体が生物の最大の欠陥なんだと思う」
「わかります。人間とか無駄に知能あるせいで、家の繋がりとか見栄とか恋愛感情とかいろんなものに振り回されていて、しょせんまだまだ進化途中の生物なんだなぁって感じですし」
「知能といえば、シャチはなんであんなに餌に対して極悪非道なんだ」
「他に娯楽が無いからですかね……?」
捕食対象でときどき遊ぶんだよね、あの子たち。
「ああ、天敵もいないしな……もしかすると、あれくらいの程よい知能のほうが、架空の神に救いを求めだす人間より楽かも知れない」
旦那様はしみじみと納得されたご様子である。
なので私は救いを求める人間としてこそっと囁いた。
「……あの、私は優しくが希望です」
「急に話を戻すな」
この流れならいけると思ったんだけど。まあ、昼間だからね。窓のカーテンが控えめにしか開けられてなかったから、忘れてたかも。
そして憮然とした顔になってしまった旦那様は、胸を抑えてため息をつくと、眉を寄せて眼尻を下げた。
「わかった。心に刻んでおく」
その返答と表情は――けっこう私の心に刻まれてしまった気がした。




