氷解の真上の告白
こうして私たちは、いったん心臓の激しい動悸を収めるべく、長めに三十分のハーフタイムを挟むことにした、それぞれセコンドもとい侍女や従者たちに精神的に寄りかかりながら、いったんこの場を撤退することにしたのだ。つまり、三十分後に旦那様の執務室に出直して、人払いをして第二ラウンドを開始するのである。
……はて、知らないあいだにシャドーボクシング免許皆伝になっていた私に、勝ち目はあるのだろうか……? デバフスキルツリーを伸ばしていた気がするよ。
「あの、奥様……」
しかし自室に戻ると、初手でエジェリーがなんだか気まずそうに口を開いた。
「申し訳ございません。まさか、ご存じなかったとは思い至らず……今まで気の利かない振る舞いばかり重ねてしまいました」
「え?」私は愕然とエジェリーの顔を見た。「エジェリーは、何か知っていたの……?」
エジェリーは目を伏せて頷いた。
「はい。ウォーターハウス侯爵から……奥様についていくことを決めたときに、ご説明いただきました」
んんんんん?
「その……アクアマリン伯爵の事情を理由に……奥様が、初夜になにも無くとも、とりあえず気にするなと……」
「お、お父様ぁぁぁ……?」
なんの話かはもう直接旦那様に聞くけど、なんでそんな重要でしかなさそうな案件を、一番当事者の娘には伝えてくださらなかったんです?
私は頭を抱えた。そういう方向で主家が侍女に迷惑をかけるな、である。
というかあの、そういえばなかった初夜とかいう貴族的な義務的なあれやそれ、お父様公認だったの? うわぁ……。
「ということは、お母様もお兄様もご存知だったわけかな、私が初夜無し伯爵夫人なの……」
「……おそらくは」
「えぇ……? うん、そうだよね、お母様とお兄様が知らないわけないよね? なんで当事者の私だけ知らなかったの? ――誰かが私に言うだろ! を全員がやったの……?」
いやもう絶対にそう。どうして。私が気の利かない実家に負の念を送っていると、エジェリーはどうにか私の機嫌を立て直そうと、優しく言ってくれた。
「きっとリナス様はご存知ないと思いますよ」
「うん……。知ってたら大丈夫? くらい言ってくれるはず、あの子は……たぶん」
どうかな、自信なくなってきたよ。リナスのせいではなくて、私が不甲斐ないせいだけど。
助けてリナス、ウォーターハウス侯爵家の良識はあなただけが担っているから!
私は弟に実家の未来のすべてを託して、虚弱な貴婦人のごとくよろよろと椅子に座った。すかさず横からマジョラムが近づいてきた。
「あの、奥様。私も、謝らなければならないことがございます」
「え、なに……?」
恐る恐る問うと、マジョラムは申し訳無さそうに両手の人差し指の先をつんつんと合わせた。
「奥様と旦那様が、両想い前提で、あえて両片想いふうに交流をされているのだと思って、積極的に広めてしまいました……屋敷中に」
「あ、うん……ありがとう。それでだいぶ助かってた」
具体的には、初夜どころか毎晩安眠してる伯爵夫人っぽいトドへの視線がね、とても生暖かった。
こうして、考えることが多すぎて二十五分間ひとまずぼけーっと頭を休ませた私は、再び旦那様と対面した。それぞれバックのシモンとエジェリー(頼もしいセコンド)と、お茶を用意してくれているマジョラム(癒やし枠兼レフェリー)だけを残して、シモンが徹底的に人払いをした。
そして、向かいのソファで文字通り沈み込んでいらっしゃる旦那様は、本当にこの世の終わりみたいな気配を背負って俯かれていた。
「……あの、言いたくないようなら、無理はなさらず」
私は思わずそう言った。なにしろ真相究明! よりももう旦那様って私のこともしかして好きなのでは? のほうが気になっているし、もうほぼ確定しているので。
「いや、……心の準備に逃げたら、言えなくなる。今言ってしまったほうが良い」
しかし旦那様はそう言って首を横に振り、顔を上げた。
「……これは自暴自棄なのか……? いや、だが……自意識過剰かも知れないし……」
すぐに鬱々と下がっていった。後ろのシモンが、もうしばらくだけお待ちくださいという気配を出した。
「……今から、死ぬほど女々しいことをいうが、どうか露骨には引かないでほしい」
やがて旦那様が再度顔を上げられた。かなり赤い目元になっていた。
「え、え、え?」
怖い話? 女々しいくらいで死なないでください? そんなに引く話?
私が動揺していると、旦那様はぼそりと言った。
「機能、しないんだ」
「…………へ?」
「その……きのう、が……男の」
旦那様の声がさらに小さくなる。
「あ、あのっ、聞こえました……!」
私は全力で頷いた。予想外の角度から来たから驚いただけだ。いや、どう足掻いても淑女には刺激が強い話ではあるけれどね?
「……器質性の、つまり、物理的な問題があるわけじゃないんだ。心因性のもののはずなんだが……」
旦那様は言い訳したそうに呟いている。私は引いてませんをアピールするために、軽く頷きながら平静を装って旦那様を見続けた。うん、本当はエジェリーやシモンのほうに視線を彷徨わせたい。だってえっと、つまりどういうことかというと、物理的にできないアレですよね? わたしそういうのしゅくじょだからよくわかんないです。
「それは……おつらいのでしょうね……?」
あれ……? 待って、そんな……君を愛することができないって、あの、君を愛することができない(物理)だったの?
そもそも私、水棲生物の交尾は何度か観察したことあるけど、ヒト科の人間は別に一切慣れてないから……わりと刺激が、強いんですけど……?
という諸々の言葉を飲み込んで、私はなるべくオロオロしないようにオロオロした。
「ちなみに、無性愛や、同性愛が、お好みで、異性は対象外、ということではなく?」
「違うと思う。……そういう状態にならないんだ。なっても、保たない」
旦那様の声はかなり虚ろである。
「それは、ええと……ええと? トドや冷凍マグロでは気分が上がらないという問題ではないと?」
「トドは置いておくとして、冷凍マグロで気分が上がっていたら、それはそれでまずいんじゃないか?」
「おっしゃる通りですね……」
さすがに切り身になるまでは、わぁ脂が乗ってそう、ってなるだけで、美味しそうまではいかないもんね、マグロ。
完全に返答に困っていると、旦那様は深く息を吐いた。
「聞き苦しい話をしたな。すまない」
「いいえ、あの、話してくださって、ありがとうございます。私こそ、余計な勘違いをしておりましたことを謝罪致します」
「いや、勘違いさせて本当に悪かった」
私は軽く首を横に振り、深めにソファの座面に座り直した。
もちろん旦那様の心理的な苦痛は、私が慮っても余りあるくらいだろう。
だから、喜ぶつもりはない……のだが、旦那様に他の相手の影がなかったことに、思いのほか安心してしまった私がいた。
「あ、それで旦那様は、婚約をされていなかったのですね?」
少し落ち着いたことで閃くも、旦那様はゆっくりと首を横に振る。
「いや。婚約者を決めていなかったのは、単純に、伯爵家の跡継ぎとして学べる期間が短かったからだ。だから他の嫡子たちのように、貴族の婚約者を見つけて仲を育む、という場合ではなかった。父が亡くなっていて、祖父も持病があったから」
「そうでしたか……」
私は、旦那様の告白後から立ち尽くしていたマジョラムが、ようやくテーブルに置いてくれた紅茶を眺めながら頷いた。
本来ならば、今のこの国の貴族の嫡子は、学校を卒業して、生活を安定させて婚約者と結婚し、祖父から当主の座を受け継いだばかりの父を補佐しながら、まだまだすべての責任を負わずに学べる環境にあるはずだった。
そして自分の嫡子が学校を卒業し、自分の補佐として動けるようになった頃に、ようやく父から爵位を受け継ぐ。
だが旦那様には、その時間がなかったのだ。だから婚約者にかける時間を省いたのか。
「それに、縁戚や婚約者の家に後ろ盾を頼むよりも、俺が若くても一人で継げるように学ぶほうが良いだろうと、祖父と相談して決めたんだ」
それはきっと、旦那様がお祖父様にかなり見込まれていたからだろう。旦那様がよほど優秀でなければ、お祖父様はおそらく後ろ盾となる家と婚約相手探しに奔走したはずだ。
「だから、結婚相手は、優秀であれば身分は問わないつもりだった。運良く学のある下位貴族の娘を見つけられるといいな、という感覚だったんだ」
なるほど、と頷きかけて、大変なことに気づく。
「……どうしたんだ、その表情は」
「私……学のない正反対の娘だったので……」
離縁の危機に白目を向かないよう耐えて淑やかな顔をするしかないよ。
女学院にも行っていないし、控えめにいって侯爵令嬢という地位だけですべてを解決してもらってきたよね……。
「君は、ご実家の水族館で働いていただろう?」
「お手伝いしていた程度でしたので、働いていたとまでは」
あ、いや、いま働いていたってことにすれば解決したよね? うわ、正直に言ってしまった……。
私は慌てて両手で口を押さえたが、もう遅い。
しかし旦那様は、軽く首を傾げてから微笑んだ。
「水族館に行ったときに、君の書いた本を読んだんだ」
「えっ」
私はソファの上で身体を浮かせようとした。同時に足が滑って無駄に弾んだ。ぽよんて。ソファで遊んだわけじゃないです。
「もちろん、水族館へは女性ではなくエマニュエル殿下と行ったんだ」
「いえ一緒に行かれたお相手の話ではなくて、まあ安心しましたけれど、私のあれを? あれを読んだんですか? あの、半日で回れるように簡単な水族館のパンフレットを作れって言われたのに、ちょうどものすっごく行きたくない夜会の前で、美容に気を使わなきゃと思えば思うほど深夜に筆が乗りすぎて、ただの分厚い本になってしまった『三百六十五日間水族館に引き籠もるときの楽しみ方』を……? 面白がって製本だけされたあと、こんな本誰が読むんだ? ってほぼ誰にもページを捲られずに水族館の情報資料室の本棚の片隅に押し込まれていたはずのあれを手に取ったと……?」
「あの本、そんな経緯で作られていたのか……道理で他で見かけたことがなかったわけだ……。実は、殿下が水族館の情報資料室にサメ映画が大量に置いてあることに大興奮した挙げ句、幻の『シン・クリスタルスカル迷走シャークジョーク』? とやらを見つけて、絶対に観たいと言って視聴覚室に籠もってしまわれて……俺にはよくわからない類いものだったから、本を読んで待つことにしたんだ」
……えっ、あの、「はー? 海を知らない奴らはこんなサメ映画が面白いと思ってんのかー? マジありえねーウケるー!」と、ウォーターハウス侯爵領の皆で笑っていたはずなのに、後日製作者側から、あんなのウォーターハウス侯爵領でしか流行ってないしウォーターハウス侯爵領で売れたおかげで続編も作った、全部君たちの責任だよ! とか言われたあの、いろんな意味で恥ずかしいサメ(?)映画コレクション群のファンが、まさか他所の土地にも生息していた……? えっ、殿下、イン・ディ・ジョーダンだけでなくそっちもいけたの? まさかお兄様たちと同類なの? ちなみにまだまだ毎年のように増えてるよ!
「そこで見つけた君の本は、とても面白くて。こんなに細やかで想像力豊かで斬新な発想の人がいたなんてと、深く感動したんだ。そして、著者を見た。君の名前が書いてあったんだ」
私の混乱をよそに、旦那様は、優しく真摯に語った。まさに紳士である。そして、殊更嬉しそうに微笑んでくれた。
「ネリネ・ウォーターマン、と。ウォーターハウス侯爵家の御令嬢だということはすぐにわかったから、殿下に尋ねたんだ」
「え」
「殿下は、そういえば妹がそんな令嬢がいるとか来ないとか話していたと言って、調べてくださった」
「え」
一瞬すごく良い話風味だったのに、急展開で事故だよ?
「ま、待ってください。エメリーン殿下からの評判を、エマニュエル殿下から聞いたのですか……?」
よくそんな情報筋からの話を聞いて、私と結婚したね? どんなに殿下たちが優しく穏便に迂遠に教えてくれたとしても、私が謎に表に出てこない碌でもない女ってことしかわからなくなかった?
「ああ。長年シュノーケリングに興味があって君と話したかったのに、何度茶会に招待しても来ないし夜会でも目を合わせただけで逃げられると仰っていた」
「ほらぁ……」
怖い。私はソファの上で力尽きた。でもだって公衆の面前で王女様に怒られる可能性は、侯爵令嬢として回避したかったんですよぉ……。
しかしソファの上で脱力するわけにもいかないので、頑張って姿勢を保つ。
「……あの、では、どうしてレッドベリルを王女殿下に……?」
妻がアホでごめんなさい代だったりした?
「王女殿下には、このパリュールの石を集めるのに、お力をお借りしたんだ」
「あっ、そういう……?」
旦那様が、テーブルの脇に置かれていたパリュールのデザイン画を、再び広げてくださる。
「このあたりの脇石の分に使うべき色のアクアマリンが、いくつか足りなくて……なるべくアクアマリン領産の物を探したかったし。それと、最近の王宮での流行を教わったり、ダイヤモンドの最新カットについても、詳しい者を紹介していただいたりしたんだ」
「なる……ほど……?」
指し示された部分の、凝った宝石指定のある書き込みに、私は動揺しながら頷いた。いいんだろうか、伯爵家のお金でそんなことをして。
「だから、アクアマリンを中心にベリル系を多く揃えている商人が、珍しく入手できたと言っていたレッドベリルを、お礼に王女殿下に献上して……」
「なるほど……」
本当に、個人的な御礼として推し活ジュエリーを贈っただけだったとはね。
そして旦那様は私のパリュール目的で石集めしているとご存知だったから、エメリーン様はニコニコしながらレッドベリルは大したことないと仰っていたのか。
「ああ、でも妻にはお手柔らかにお願いしますとは言った」
「……あっ、ありがとうございました」
妻が引き籠もりトドな挙句、レッドベリルを理由に旦那様との熱愛を疑ってごめんなさい。
私はデザイン画を改めて見直した。すごい。可愛くて綺麗でかっこいい。実際に光る実物が見たい。
「ですが、よろしいのですか? 私に、ここまで……その、アクアマリン領の威信を与えてしまって……」
「うん。ネリネが付けてくれたほうが助かるんだ。今のアクアマリンにはそれなりの力がある。そのことを、ウォーターハウス侯爵家出身の君なら、嫌味なく伝えてくれるはずだから」
ああ、それはそうかも……そうかな……?
確かに、ウォーターハウス侯爵家の娘でもある私が贅沢品を身に着けても、それはまあ当たり前ではある。
だから、私がアクアマリンの豪華なネックレスをつけたところで、アクアマリン伯爵家は急に金回りが良くなったという露骨なアピールではなく、ウォーターハウス侯爵家と友好的な関係である示唆にしかならない……かもしれないけれど。
いまいち不信感が拭えない私の視線に気づいたのか、旦那様が苦笑する。
「それに、今なら先祖代々の家宝をバラして組み替えてしまっても誰も反対してこない」
「それは……」
「ちょうどいいだろう? 俺の祖母や母が使用中だったならともかく、このまま流行遅れのデザインとして倉庫に眠らせて日の目を見ないんじゃ、せっかくの宝石がもったいない」
「そうですが……」
「王家や最上位の貴族が持つ歴史的な家宝ならともかく、アクアマリン所有くらいのものなら、今後のためにネリネや子孫たちが着けられるデザインにしたほうが、っ……!」
旦那様は、何かに引っ掛かったように言葉を急停止させてしまわれた。ちょっと顔色はよろしくない。
「あの、大切に使わせていただきますね。そういうことなら」
私は自滅してしまわれたらしい旦那様を救助しようと、全力で頷いた。えっ、本当にこれ私が貰っていいの?
「そうしてくれ……」
旦那様が、深く息を吐いた。私は、わかりました、と告げて、両サイドのセコンドから感じる視線の温度と同じくらいに飲みやすくなった紅茶をいただくことにした。




