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12 ガラスの向こう

「好きな人が、できちまったんだ」

 夕方の店内でお茶を楽しんでいたのは、ワインを水にするスエイと、工事現場で現場をまとめる親方だった。ダイハチさんというらしい。

 二人は、早めに仕事が終わって飲みにいくのもどうかと話していたら、ここにたどりついたという。

 それでお茶を飲んだダイハチさんが、こう言った。


「好きな人が、できちまったんだ」

 もう一度言った。

「え、ダイハチさん、結婚してるっすよね?」

「ああ」

 ダイハチさんは、がっしりとした体つきの角刈りで、40歳くらいだろうか。腕が丸太のように太い。

 お茶とクロワッサンを楽しんでいた。


「ああ、それって尊敬する人、みたいな話っすか?」

「いや恋愛だ。今日も、女性向けの店はないかという計画も含めてこの店に来た」

「やばいっすね……」

 スエイが頭をかいた。


 僕が離れようとしたら、スエイが走ってきて腕をつかむと、テーブルへと引っぱっていく。

「え? え?」

「ちょっと一緒に聞いてもらっていいすか」

「ええ?」

「その人は?」

 ダイハチさんが、じろりと僕を見た。


「この店員さん、ここでなんでも相談屋やってる人なんすよ。なにを隠そう、おれも、この人にワインを水にすることを相談して、すっきりしたんす」

 スエイは、スキルを重視した仕事に移るわけではなく、まだ工事現場で働く仕事をしているようだ。

 それもいいと思う。スキルを活用することは、選択肢のひとつでしかない。


「なんでも相談屋ではなく」

「いや、結論はもう出てる」

 ダイハチさんは言った。


「離婚だ」

「は?」

「え?」

 僕とスエイは同時に言った。


「おれは、20年大工をやってきた。最近では大きな仕事も任せてもらえるようになってきた。なぜだかわかるか」

「まじめに、やってきたからっすか?」

「おれは、正面から向き合ってきた。すべてのことに。大工の仕事から逃げたことはない。体も心も潰れかけたこともあったが、生きのびた。そして一人前の大工になったんだ。かみさんとのこともそうだ。正面から向き合った。彼女もその気持ちについてきてくれた。いまも向き合っている」

「おかみさんは、現場の差し入れなんかもしてくれるんす」

 スエイが補足した。

「だが」

 ダイハチさんは首を振った。


「あんなに女性が輝いて見えるのは、かみさん以来だ。いやかみさん以上かもしれない」

「いや、気持ちがブレることくらい、ありますって」

「バカ野郎!」

 ダイハチさんの声は大きかったので、僕まで、びくっ、としてしまった。


「いいかスエイ。すべてのことに、正面から向き合うんだ。そうしなければなにも解決しない。自分の気持ちにちゃんと向き合うなら、気のせいなんて存在しないんだ!」

「はい!」

「他の女性との恋を始めるから、まず離婚だ」

「でもそんな」

 ダイハチさんは、スエイの襟をつかんだ。

「かみさんを確保しながら、安全圏から他の女に手を出すような人間になれってのか? そんな、正面から向き合うことを放棄した、最低の浮気野郎になれっていうのか!」

「ち、ちがうっす!」

「そうだろう」

 ダイハチさんが手を離すと、スエイは大きく息を吸った。


「花屋の彼女だ。彼女に、これから花屋に通うと申し出る。そして家に帰って、かみさんに説明する。これから花屋に通う日々が始まる。それは恋愛をするためのものだ。申し訳ないが離婚してくれ、と話す」

「ちょっとちょっと! 待ってくださいっすよ! 話したこともないんすか?」

「ない」

「あの……。それに、おかみさん、そんなこと言われたらショック受けちゃいますよ!」

「それはそうだ。おれは、そのケアに向き合わなければならない」

 スエイを押しのけ、ダイハチさんは出ていってしまった。


「ちょっと、おかみさん呼んでくるんで、ダイハチさん、見ててもらっていいすか?」

「呼んできたら、まずいんじゃないですか」

「そうか、そうかもしれない。ああなっちゃったらもう、親方はもう、本当に、ええ、どうしよう、どうしよう」

「とにかく止めましょう」

「そっすね!」

 僕らも店を出た。


「ちょ、ダイハチさん……!」

 スエイが腕をつかんで引っぱるが、まったく問題にしていなかった。体格が違いすぎる。

「その花屋というのは、この先の十字路にあるお店のことですね?」

 僕は気をそらすつもりで話しかけた。

「ああ、そうだ……」

「しかし、それは正しいのでしょうか」

 僕が言うと、ダイハチさんは、ぴくり、と眉を動かした。

 足は止まらない。


「なに?」

「ダイハチさんが、真正面から向き合うのはいいでしょう。しかし他の人までそれに付き合わせるのですか? 自分が花屋の彼女を好きになったから、離婚してくれというのは、浮気をするのと同じくらい身勝手ではないですか?」

「なんだと?」

 じろりと見るその迫力。

 僕など指でノックアウトさせられそうだ。


「そうでしょう。ダイハチさんは、浮気する前に言っているけれども、実質、浮気がバレたあとの行動を取っているようなものだ。もうダイハチさんの行動は決まっているのだから、浮気をしている。それに奥さんを付き合わせている」

「……それが」

「それが?」

「それが、物事に、正面から向き合うということだ! すべての人間はそうすべきだ!」

 ダイハチさんは、スエイを引きずりながらずんずん歩き始めた。


 僕らは夕方のオレンジの光の中を歩いていた。

 道がちょうど光り輝き、その先にある十字路に続いている。

 そして道を渡った先に、右手の角に、花屋が見える。

 どこか運命的なものを感じる光景だった。


 僕は左腕にしがみついてみるが、まったく問題にされない。

「は、話したこともないんですよね、彼女と!」

 引きずられる。

「ない。仕事場に向かう途中、いつも目に入るだけだ」

「じゃあ、他の女性はどうなんですか」

「そもそも目に入らない。おれは、仕事と家の往復をするだけだ」

「くっ、だったら道を変えたらどうです? 目に入らなくなりますよ!」

「もう目に入ってしまった。それに道を変えるつもりもない。ただまっすぐに向き合い、進むのみだ」

 相当な頑固者だ。


 僕は手を離した。

「えっ、ちょ、アールさん!」

 スエイもつられて手を離す。

 道を渡り、ダイハチさんは店に入っていった。壁が大きなガラス窓になっていて、中の様子がよく見える。


「い、行っちゃったっすよ!」

「うん」

「うんって! あー、おかみさんになんて言えば……。あ! いまのうちに、どこか別のところへ旅行に行ってもらいましょうか!」

 スエイは現実逃避を始めていたが、僕はじっと店内を見ていた。


 ダイハチさんは店員となにか話をすると、出てきた。


「あー、出てきたー! はえー!」

 僕はダイハチさんに駆け寄った。


「どうでした?」

「あ? ああ……」

 ダイハチさんは、どこか呆然としたような、なんとも言えない表情をしていた。


「どうしました?」

「いや……。気のせいだった……」

「気のせい? そんな言葉、似合いませんよ」

 僕の言葉に、ダイハチさんの顔に力がもどった。


「ああ。そうだな、向き合わなければならない。……輝いていなかった」

「輝いていない?」

「ああ、あ?」

 振り返ったダイハチさんは、店内の彼女に、目を見開いた。


「……輝いている」

「輝いて見えるんですか?」

「ああ」

「つまり、仕事をしている彼女が輝いていると?」

「あ」

 ダイハチさんは、なにか考え事をしながら歩き始めた。


「……どうやっちゃったんすか?」

 僕らは彼の後ろ姿を見ていた。

「現場って、木造?」

「え?」

「工事の現場」

「いろいろっす。急になんすか」

「ガラスは使わない?」

「使わないことはないすけど、だいたい、おれらは基礎的な部分が多いんで、ガラスをはめる段階には、あんまり関わらないんすよね」

「じゃあこういうガラスは?」

「こんなきれいなガラスはあんまり使わないっすね」

 スエイは花屋のガラスを見た。

「現場に女性は?」

「いないっすね」

「なるほど」


 ダイハチさんのスキルは、ガラス越しに見た異性が魅力的に感じるようになる、というものだ。

 よほど仕事熱心なのか、ガラスがすくない現場なのかはわからないが、花屋以外には目に入らなかったらしい。


「ダイハチさんは、視力はいい?」

「ああ、めちゃくちゃいいっすよ。遠くも近くも」

「なるほど」

 だったらメガネをかけることもないだろう。


 さてなんとか、彼女はそれほど魅力的に見えるわけじゃない、というところに持っていけたが、この間に、どうにかうまく、ガラス越しで見た異性が魅力的に感じるようになる、ということを伝えて……。


「どうしたもんだろう」

 なんとか、協会でスキルを調べるような……。うーん。

「え、なんすか?」

「うーん」

「なんすか、あの、それより離婚話、どうなるんすか? アールさん、なんとかしてくださいよ!」

「うーん」

 ちょっと手順を間違えたらまた思い込みそうだ。


「うーん」

「アールさんって!」

「そうか」

 メガネをかけるなら、誰も彼も魅力的に見えるだろう。

 危ないと思ったが、むしろ全員の魅力が底上げされるならありだ。奥さんが一番に変わりないかもしれない。

 とすると、メガネをかけてもらったほうがいいか。

 

「伊達メガネか……!」

「なにが伊達メガネなんすか! それよりなんとか考えてくださいよ!」

「なるほどね」

「なにがなんすか!」

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