第3章「帰郷」
ラデュレーを後にして、ゼームは花の形を模して創造
した幻獣タウ・レーアに乗って一路「神々の森」を目指
して飛行していた。
「神々の森」・・神州大陸の北方を埋め尽くすこの森
は、樹海と呼ぶに相応しい質量を誇っていた。
平野部や、町や村に住む人間や神々は滅多にこの森の
内部に足を踏み入れる事は無かった。
その為、昆虫から大小様々な動物や鳥類、苔から巨樹
に至る迄、多種多様な動植物がそこには存在していた。
また、動植物に関する神々や精霊、水や鉱物など自然
物に関わりの深い神々等も、森の外部の神々や人間達と
は一線を画して数多く住み、「神々の森」と呼ぶに相応
しい世界を形作っていた。
「・・もう、「神々の森」の入り口か。」
ゼームは下界の景色を見下ろし、幻獣に空中への一時
停止を命じた。
ゼームの眼下には、既に果てし無い木々の連なりが、
無限とも思える程の広さで続いていた。
ゼームの視界の片隅を、さえずりながら小鳥達の群れ
が飛び去って行った。
「シエゾはもっと北西の方角だったか・・。」
ゼームはふと、夢の中で見た自分の誕生した土地の事
を思い出していた。
懐かしさを抱いているのだろうか。
ゼームは自分でも分かりかねる感慨を胸に、北とおぼ
しい方角へと目を向けた。
薄い灰色の雲の広がる曇天の空と、濃緑の葉を天へと
向けて広げる木々の海原が地の果て迄続いていた。
広漠たる森林は、その下に無数の動物達の命の営みを
抱きつつも、ただ限り無い静謐を湛えていた。
ゼームの生まれた土地は、今どうなっているのだろう
か。あの祠の木々は今も、雄大に聳え立っているのだろ
うか。村人達や精霊達は、今どんな暮らしを送っている
のだろうか。
「・・レウ・ファーの方は、待たせておこうか。」
誰の理解も及ばない暫しの黙考の後、ゼームはそう独
り言を漏らすと、北西のシエゾ地方を目指して飛ぶよう
に幻獣に命令した。
◆
「神々の森」を通り過ぎ、海にも程近い場所迄来ると
それ迄の濃く深い緑に包まれた眼下の眺めも一変した。
ゼームの記憶では、既にシエゾ地方に入り、シーボー
ムと言う村の上に差しかかった筈だった。
一変し過ぎている、と、ゼームは珍しく驚きを露にし
た。
馬車や人力車が行き交うにしては広い舗装道路が村の
中を走り、広く整地された剥き出しの地面には真新しい
住宅がまばらに建っていた。
村と言うよりも、田舎町とでも表現する方が正しかっ
た。
ゼームがシエゾを離れて神国神殿に移ってから、ほん
の百二十年程しか経っていなかった。人間にとっては一
生を少し越える程の長い歳月ではあったが、神としての
命を生きるゼームにとっては僅かな時間でしかなかった
のだった。
神や人間の手によって、時には山が切り開かれ、海や
川が埋め立てられる事もある。たったの半年で何もかも
が変わってしまう土地もあった。
その事がシーボームの村に当て嵌まる場合もあるのだ
と、ゼームは分かっているつもりだったのだが。
ただならない驚きを抱いてしまうのは、やはりゼーム
と言えども自らの誕生地・・故郷とでも呼ぶべき土地に
何かしらの愛着を持っていたからなのだろう。
幻獣タウ・レーアに腰を掛けたまま、シーボームの上
空を遅い速度で進んでいると、様々な変化がゼームの目
に飛び込んで来た。
村の近くにも広がっていた森林や野原は、見る影も無
く舗装道路や大小の建物に変貌していた。
簡素で質朴な木造の平屋建て位しか無かった家並みは
コンクリートや金属を多用した造りの物ばかりになって
しまっていた。
空を行くゼームの姿に、時折、物珍しさと畏敬の眼差
しを注ぐ人間達も何人かいた。
人々の行き交う道に立てられた色とりどりの看板の表
示によって、ゼームは、かつての小さな村落・・シーボ
ーム村が、シーボーム町に変わってしまった事を思い知
った。
変わり果てた町並みを見下ろしながら、ゼームは方向
を変え、自分の生まれた祠のある森を目指す事にした。
町の中心を外れると、農林業によって生活を立ててい
た百二十年前と余り変わっていないのか、田畑やそこで
働く人間達の様子がゼームの目に入った。
勿論、その一方で、小綺麗な住宅の建つ真新しい造成
地も田畑と同じ位の広さを占めていた。ただ、どの造成
地も剥き出しの赤土ばかりが目立つのみで、建物自体は
僅かな数しか建っていなかった。
所々に残る、森や林の茂みの名残の小さな木立がゼー
ムの哀れみを誘った。切り崩されて内側の地層が露出し
た上にささやかに生い茂る草木は、ゼームに切り分けら
れたケーキを連想させた。
今や町と化したシーボームの周辺の景色もまた、町の
中心に劣らない変貌を遂げており、それを見下ろすゼー
ムの哀しみはそう長い時間を置かずに怒りへと変わって
いった。
町の周辺部・・百二十年前には人家など殆ど無かった
里山や「神々の森」との境界部の森に至る迄が、悉く開
発という名の蹂躪を受け、赤茶けた土の色をゼームの目
に無残に晒していた。
神国のある神州大陸の中とは言え、北方の辺鄙な田舎
町にしては珍しい大型の土木作業機械や、トラックなど
の大型車があちこちの作業現場に見掛ける事が出来た。
大規模に山肌が切り崩され、そこに生えていた木々は
一か所にうず高く積み上げられていた。忙しそうに新た
な木々を運び込む現場もあった。
見事な大木迄もが無造作に大まかに砕かれて積み上げ
られている様子に、それらが木材としてではなくゴミと
して処分されるのではないかという不審感をゼームに抱
かせた。
「一体、これはどういう事だ……?」
殆ど歩く様な速度で幻獣を飛行させ、ゼームは眉間に
皺を寄せて呟いた。
ゼームの抱く漠然とした不審感は、木々の積み上げら
れた中にあった一枚のひしゃげた立て札を見て、はっき
りとした疑問へと変わった。
幻獣に座ったまま地上へと降下し、ゼームはひしゃげ
て皺だらけになった一枚の鉄製の立て札を覗き込んだ。
・・下記の地域の許可無き開発を禁ず「神国国土庁」
「どう言う事だ?」
ゼームはもう一度呟いた。
ひしゃげた立て札は、今迄の開発制限地域が、どう言
う訳か今は開発可能になっている事を物語っていた。
だが、他の地域ならいざ知らず、「神々の森」との境
界部の森林は、みだりに切り開いてよい土地などではな
い筈だった。
そもそも、「神々の森」の存在する神州大陸北方は、
あらゆる種類の開発や、神人の移入迄もが厳しく制限さ
れている地域だった。
「神々の森」に属する神々や精霊、動植物の営みと、
都市生活に属する神や人間との間に起こる摩擦や衝突を
出来る限り避ける為の、両者の厳格な棲み分けを大きな
目的としていた為だった。
「神々の森」へとつながる周辺の森林についても、木
材の切り出しや、生活に必要な山野草の栽培など、近く
の町や村の人間達の手が入る事は認められてはいたが、
常に神国本部の監視の目が光っていた。
そんな土地が、大規模な開発工事に晒されるなど・・
考えれば考える程、ゼームの疑問は大きく膨れ上がって
いった。
既に上空からゼームが見渡しただけでも、百二十年前
のシーボームの村が三つ四つ入る程の広さの森林が切り
開かれていた。
自分の生まれた辺りはどうなっているのか。ゼームが
そんな事を思いながら地面の上に下り立ったところで、
子供の悲鳴らしきものが辺りに響き渡った。
「?」
ゼームが辺りを見回すと、悲鳴の後にすぐ、柄の悪そ
うな男達の怒鳴り声が続いた。
「このクソガキ!!オレ達の獲物を横取りするとは、大
した了見だぜ!」
木々がごみとして積み上げられた所から少し離れた、
「作業員休憩所」と看板のある小さなプレハブ小屋の向
こうから、黒髪の小柄な少年が飛び出して来た。
すぐにその後を、大柄な男達が四人、少年を追い掛け
て姿を現した。
どちらも大きな背負い袋からはみ出さんばかりに根付
きの草木を詰め込んでいた。
丁度、シーボームの様子について尋ねたいと思ってい
たところだったので、ゼームは再び幻獣に座ると、彼ら
の方へと近付いて行った。
「・・お前達。」
「何だ何だ?」
いつもの様に穏やかにゼームが呼び掛けると、男達は
うっとおしそうに突然出現した女神に目を向けた。
相手が神であっても、弱ければ殴り掛かろうと言う様
な好戦的な目付きを男達はしていたが、男の一人は女神
に見覚えがあった。
右だけが長いおかっぱの髪、左肩から伸びた剣の様な
葉と薄紅の花の蕾・・。
「ロ……ロウ・ゼーム……様っ!?」
彼の顔は緊張に引きつり、すぐに恐怖にも近い色を浮
かべて後ずさった。
彼ははっきりと思い出していた。緑の幻神、ロウ・ゼ
ーム。彼の女神が何を愛しているのか。そして、何をす
ればその女神の怒りに触れるのかも。
少年は思わぬ成り行きに、ただぼんやりとゼームと男
達の顔を見比べていた。
「私を知っているのか?・・ならば話は早い。お前達は
ここで一体何をしているのだ?」
シーボームの事を尋ねる前に、ゼームは半ば威圧的な
眼差しを彼等に向けた。
男達の袋の中身と行動から、既に、ゼームは男達の素
姓を見抜いていた。山に生えている珍しい野草や花木の
類を盗掘して趣味家に高額で売りつける事を商売にして
いるのだろう。今回は、何かの原因で少年と争いになっ
たのだろう・・と。
そうした、金目当てに森林を荒らす盗掘者は、ゼーム
の怒りに触れるに充分な人間だった。
「……お、お許しを……。い、い、命ばかりは……。」
レウ・ファーをも圧倒するゼームの一瞥に並の人間が
耐えられる訳も無く、大の男達はその場にへなへなと座
り込み、ただ怯えて震え続けるしかなかった。
「では去れ。」
ゼームが短くそう言うと、彼等は袋を投げ捨て、半ば
這う様にして一目散に走り去ってしまった。
「おおお、お、おい!あの女神、一体、なな、何の神な
んだよ!」
どもりながら男の一人が、ゼームを知っていた男に尋
ねた。
が、彼は震えて強張る足を必死で引きずって逃げるの
に夢中で、答える事も出来なかった。
◆
「お前も盗掘者か?」
男達に向けられた時とさほど変わりの無い厳しさを伴
って、ゼームは少年に問い掛けた。
相手が子供であろうとも、ゼームにとっては手加減の
対象とはならない様だった。
「ひっ!」
少年は、ゼームの冷厳な表情に涙ぐみ、怯えて立ち尽
くしてしまった。
「ち、違う・・。」
それだけを必死の思いで少年が呟くと、
「そうか・・。」
ゼームの声に深く柔らかな響きが混じり始めた。
まだ怯えて震えている少年を見下ろし、ゼームは穏や
かな調子で問い掛けた。
「お前の親か仲間は何処に居る?久し振りにこの土地を
訪れてみれば、この様な変わり様……。誰か、事情の分
かる者に尋ねたいのだが……。」
穏やかに尋ねるゼームの声音に、少年の怯えも幾分治
まり、彼は小さな声で、
「こ……この奥の地区に、ボクと爺ちゃん達が……。」
少年はプレハブ小屋の向こうの、まだ木々の茂みの残
っている所にあった小さな旧道を指差して答えた。
「そうか。ならば案内を頼む。・・私はロウ・ゼームと
言う。お前の名は?」
「ヒロト。ヒロト・シモサト……。」
ヒロトはそう答えると、先刻の男達が放り捨てた袋を
全て拾い集め、よろよろと歩き出した。
一見、盗掘した物の横取りとも思える行為だったが、
ゼームは敢えて咎める事もせずに、ヒロトの横に幻獣タ
ウ・レーアを付かせた。
「この上に載せるといい。案内がその調子では心もと無
いからな。」
「あ……ありがとう。」
男達の持っていた袋を全て幻獣に載せると、元々持っ
ていた自分の袋を背負い直し、ヒロトは軽々とした足取
りで歩き始めた。
ずっと森で暮らして来たのだろう。ゼームはヒロトの
身軽で素早い身のこなしに、昔からのシーボームの暮ら
しをしている人間達の匂いを感じ取っていた。
工事の現場から山道へと入り、小さな道を三十分歩い
た所に、ヒロトの家のある集落があった。
山、とは言っても高さは殆ど無く、なだらかな斜面に
階段状の田畑が作られ、十数件の民家が寄り添い合う様
にして木々の生い茂る間に挟まれていた。
シーボームがまだ村だった頃の、百二十年前と殆ど変
わりの無い集落の姿がそこにはあった。
ただ、この地区にも「開発工事」や「シーボーム森林
公園開発予定地」「住民立ち退き」等の看板が、至る所
に立ち並んでいた。
ヒロトの家は集落を見下ろせる小高い場所にあった。
生け垣に取り囲まれた内側に入ると、様々な山野草の
苗を植え付けた鉢やプランターが庭中に並び、生け垣の
隙間からは畑にびっしりと植えられた、作物ではないも
のが見えた。あれも何かの野草の苗の様だった。
「爺ちゃん、帰ったよ!」
粗末な木の引き戸を開け、ヒロトは土間に背負い袋を
下ろした。
ヒロトの声に裏庭の方から姿を現したのは、ゼームよ
りはやや背の低い白髪の老人だった。畑仕事をしていた
らしく、軍手や衣服は土で黒く汚れていた。
「お帰り。・・おや、この方は・・?」
そうヒロトに問い掛ける内にも、老人の目には記憶の
光が閃き、すぐに驚きと戸惑いの色が皺の多い顔に浮か
んだ。
「ロウ・ゼーム様?」
「私を知っているのか?」
ゼームの問いに、老人は恭しく頭を下げた。
「当然ですじゃ。・・いつ神国からお戻りになられまし
た?……まあ、お上がり下され。大したもてなしも出来
ませんが……。」
家の中へとゼームは招かれ、奥の部屋へと通された。
ヒロトは幻獣から荷物を降ろし、土間の隅へと袋を並
べ始めた。
老人は、ヒロトの父方の祖父で、セデトと名乗った。
この集落で生まれ育ち、若い頃は植物の研究を志して世
界各地を旅して回った事もあったが、今はシーボーム周
辺やシエゾ地方の植物の研究を手掛けていると語った。
通された居間の片隅には、博士号の証書や、各地の研
究者達からの手紙の束が無造作に積み重ねられていた。
「・・そうか……。孫に、研究用の苗を集めさせていた
のか。」
ゼームの言葉を、セデトは溜め息をついて半分だけ否
定した。
「はい。以前はそうでした。・・しかし、今は、開発工
事によって絶滅しかかっているものなどを、保存用、繁
殖用として孫と一緒に集めておるのです。」
その作業中、盗掘者達に見とがめられ、先刻ゼームが
見掛けた様なトラブルにヒロトは遭遇してしまったのだ
った。
「この村の変わり様についてだが。」
ゼームの問いに、セデトは憎悪すら感じさせる様な勢
いで、村の様子を一変させてしまった開発工事について
話し始めた。
セデトの話では、三年程前に、新しくシーボームの土
地神として迎えられたランタと言う男が全ての原因らし
かった。
土地神ランタの指導の下、昔からの質素で慎ましい生
活を送っていた村人達のほぼ全員が、強引で急速だと口
を揃える開発工事が進められたのだった。
村は真新しい住宅や小綺麗な建物の並ぶ町へと作り変
えられ、周囲の森林は瞬く間に切り崩されていった。
森林公園の建設や宅地造成の工事は、今も続けられて
いたのだった。
セデト達の住んでいるこの地区も、森林公園の工事の
為に住人の立ち退きの命令が出されていた。
多額の立ち退き料だけでなく、夜間のやくざ者の騒音
や、小さな放火など、姑息な嫌がらせもあった為に、殆
ど全ての住人が逃げ出す様に立ち去ってしまった。
昔ながらの信心深い村人達は、町の中に出来た新しい
家へと半ば無理矢理に移らされていった。だが、移る時
に、彼等はランタに捨て台詞を残す事を忘れてはいなか
った。
いつか必ず、森の神々の怒りに触れるだろう。例え神
国本部がこの様な乱暴を許したとしても、「神々の森」
の者達は許しはしない。ひ弱な土地神如き、ひとひねり
で葬り去られるだろう・・。
果たして、村人達の言葉通り、土地神を誅するに相応
しい緑の幻神がこの土地に戻って来たのだった。
「・・結局、嫌がらせは落ち着きましたが、今この地区
にはわしらだけ。後は工事で住む場所を奪われた精霊達
が少し居るだけですじゃ。」
セデトは溜め息をつき、肩を落とした。
「まだこの上工事は続くと言うのか……。」
シーボーム周辺の地図を思い出しながらゼームは呟い
た。想像の中で、地図の森は虫食いの穴だらけになって
いった。
セデトは、疲れ切った表情で、ゼームへと深々と頭を
下げた。
「お願いします。どうか、暫くここに留まって、土地神
と私達との話し合いの仲立ちをしてもらえんでしょうか
……。かつて、この土地の人間や精霊から深い信仰を受
けたあなたの言葉ならば、土地神もむげに扱ったりはし
ますまい……。」
セデトの願いを耳にしながら、ゼームは穏やかに、落
ち着いた様子で出された茶を口にした。
ただ、静けさと穏やかさを湛えるばかりのゼームの瞳
が、額を床に擦り付けんばかりに頭を下げているセデト
を映した。
「私に、助力を乞うと言うのか……。」
そっとゼームは呟いた。
目の前の老学者は、どの様な神に助けを求めているの
か、本当に分かっているのだろうか。
単なる自然保護を司る神ならば、神国神殿にもいる。
・・山も、町も、砂漠も、この地上の全てが深き緑に
沈む事が私の願い。
ラノとの別れ際に交わした言葉が、ゼームの脳裏を掠
めた。
ロウ・ゼーム・・この地上の全てに、深き緑をもたら
す女神。
老人は、その女神に助けを求めた事の意味を、今は分
かってはいなかった。
「よかろう。暫くこの土地に留まる事にしよう……。」
既にゼームの神霊力に感応したものか、小さな窓の向
こうに並ぶ生け垣の木々が、風も無いのにざわざわと大
きく揺れた。