第2章「緑の潤う処」
ザードがレウ・ファーと共に去って、レウ・ファー達
がドミュスティル市で神国の神々に宣戦布告を行ってか
ら後も、バギルは冥界行きを取り止めて神国神殿に留ま
っていた。
「――まあいい。私も忙しい身だ。君の修行に付き合う
時間を他の仕事に回す事が出来る。――しっかりやりた
まえ。」
冥王ヴァンザキロルは、いつもの素っ気無さでバギル
の神国神殿滞在の連絡を受け取ったのだった。
ザードを連れ戻す迄、冥界での修行再開はいつになる
のかも分からなかった。ラデュレーの場所を突き止める
事も出来ず、何の手掛かりも無いままバギルは苛々とし
ながら神国神殿で数日を過ごしてしまったのだった。
そんなある日の事、北方の地父神サウルスから、紫昏
が神国神殿に来てバキルやレックス達戦神に話をしたい
という連絡があった。
サウルスもまた、自分の司るガザ大陸の北方を留守に
して神国神殿に留まり続けていたのだった。
神国神殿本殿の一室――サウルスの私室としてあてが
われている部屋にバギルがやって来ると、既にレックス
が真紅のマントを広げ、ソファの上にふんぞり返って待
っていた。
質朴な、土の茶色と森の深緑の色とでまとめられた室
内に、レックスの緋色の髪と真紅のマントは燃える様な
輝きを放っていた。
「よお。おめえも来たのか。」
部屋に入って来たバギルの姿を認めると、レックスは
何処か不機嫌そうな表情で声を掛けた。
部屋の主であるサウルスは、紅茶と菓子を切らしてい
たと言って、本殿の下の階に買い物に下りていた。
神国神殿の本殿の中には、会議室や大浴場、温室や遊
戯場は言うに及ばず、終日営業の雑貨屋やレストラン街
迄もがあった。神域も一つの街ならば、本殿自体もまた
一つの街と言えた。
不機嫌そうなレックスの様子に、何と無く居心地の悪
い思いを感じながらも、バギルはレックスの向かいのソ
ファへと腰を下ろしてサウルスと紫昏を待つ事にした。
「あのおカマ野郎に逃げられたんだってなぁ?」
レックスは腕組みしたまま顎を引き、吐き捨てる様に
言ってバキルを睨め付けた。並の神々ならば縮み上がっ
てしまう様な迫力があった。
「――ああ、ファイオとかいう幻神の事か……。」
バギルはようやく、この前のラシル湖での事件の事を
レックスが言っているのだと気付いた。
レックスが、ラノをバギルが守り切れなかった事を責
めているのだという事も、ようやくバギルは理解した。
「てめえがだらしねえから、ラノが襲われる事になった
んだ!」
喧嘩の口火を切ったのは、レックスの方だった。
四方位神の仲間であるラノが襲われて、またレウ・フ
ァー達に殴り込みをかけようにもラデュレーの位置は依
然として掴めず、レックスはずっと苛立っていたのだっ
た。
レックスの一方的な物の言い方に、バキルの眉がぴく
りと動いた。流石のバギルも腹を立て始めたのだった。
「――だったら、てめえがチェルロに行っていれば良か
ったんじゃねえのか?」
歯を剥き、バギルは苛立たしげにレックスを睨み付け
た。
バギルがラノの神殿に行っていた時に、レックスは別
の地方に降下した邪神の方に手を取られていた。それは
バギルも充分判っていたのだったが、血の上り始めた
頭ではそんな事を考慮する余裕も無かった。
「ンだとぉっ!?」
二神の睨み合いは瞬く間に取っ組み合いの喧嘩に変わ
ってしまった。
殴り合いの格闘ではバギルの方に分があったものの、
狭い部屋の中と言う事と、火炎術を使ってはならないと
いう理性が一応は互いに働いた為、五分五分の幼稚な殴
り合いと掴み合いの様相を呈していた。
ソファは真っ二つに折られ、壁中に穴が空き、サウル
スが趣味で収集していた素焼きの土器の数々もことごと
く粉砕されていった。
幼稚な殴り合いとは言え、二神の体力は人間の子供の
それではなかったのだった。
「――そうですか、ティラルはラノの所へ見舞いに行っ
たのですか。」
「ワシの部屋でバギルとレックスが待っておる。皆でこ
れからの事を話して――。」
扉の向こうに近付いて来る、紫昏とサウルスの話し声
も、相手をぶん殴る事しか頭に無いレックスとバギルに
は聞こえてはいなかった。
「まあ、お入り下され。」
神州大陸の東にあるカチュグ半島の護法庁から、仕事
もそこそこに紫昏は神国神殿へとやって来たのだった。
サウルスに促され、部屋に入った紫昏が見たものは、
無残に破壊された壁や調度品の数々だった。
「なッッ!何じゃこれはぁっっ!!」
大地を揺さぶるかの様な地の神の一喝に、レックスと
バギルの殴り合う音は一瞬にして消し飛んだ。
「全くお前達と言う奴はぁっ!」
サウルスの一喝に掴み合ったまま凍り付いていたレッ
クスとバギルの脳天に、容赦の無い拳骨が炸裂した。
「……折角苦労して手に入れたと言うのに……。」
絨毯の上に散乱する土器の破片を一枚つまみ上げ、サ
ウルスは涙混じりに溜め息をついた。
暫くの間、サウルスは肩を落として土器の破片を見つ
め続けていた。サウルスの怒りを恐れて、その場の誰も
が迂闊に声を掛ける事も出来なかった。
「――取り敢えず、ここは後で片付けるとして、何処か
会議室にでも移ろうか。」
土器の破片を未練げにその場に置くと、サウルスは立
ち上がって紫昏達を促した。
「そ、そうですね……。」
大切なコレクションを破壊されたサウルスの怒りが言
葉や振る舞いの端々にくすぶっているのを感じ取り、紫
昏は少し引きつった笑みを浮かべた。
◆
同じ階の小さな会議室に移ると、レックスとバギルは
ずきずきと疼く頭を押さえつつ、互いに顔を背け合って
椅子に座った。
「――で。護法庁の方には、何か情報は入っていねえの
か?」
疼く頭をさすりながら、レックスは自分の向かいに腰
を下ろした紫昏に問い掛けた。
紫昏は背広のネクタイを緩めながら、ゆっくりと頭を
横に振った。
「いや……。今は取り敢えず、護法庁も、対策本部を作
る様に動いている――ところだ。」
切れ者の長官と名高い紫昏にしては、歯切れの悪い返
事に、レックスとバギルは訝しげな目を向けた。
紫昏は溜め息混じりに言葉を続けた。
「仮にも神国の中枢に居た神の反乱だから、ドミュステ
ィル等の地方の警察に任せるだけではなく、護法庁が先
頭に出て動くべき事件だと私は考えて――動いているん
だが……。」
「――護法庁の中も、充分にまとまっていないと言う訳
ですな?」
紫昏の隣に腰を下ろしたサウルスが、言葉を選びなが
ら口を開いた。レウ・ファーが神国の中枢に居た神故に
それぞれの立場の神々にとって都合の悪い事や関わり合
いになりたくない事も多いのだろう。
レウ・ファーが神国から奪い去った莫大な量の情報の
中には、そうした神々にとって憂いの種となるものもあ
るのだろう。
護法庁の内外で足を引っ張り合ったり、圧力を掛けた
りといった邪魔が入っている事は、想像に難くはなかっ
た。
「何考えてんだよ!こんな大事件なのに、そんな呑気な
事って!」
古びて表面の剥げた机を叩き、バギルは身を乗り出し
た。
「そう。大事件だ。――だから私も、私のやり方で当面
は動く事にした。」
ゆっくりとした口調で話しながらも、紫昏の深みがか
った緑の瞳は鋭い光を湛えてバギル達を見つめた。
「レウ・ファーや幻神達に関する情報は、即、護法庁の
私の所に上がってくる様に各地の警察や神殿に手を回し
て来た。――そして、その情報は私から、神国神殿の君
達に送る。」
紫昏の言葉に、レックスとバギルの口許が綻んだ。
紫昏はやや不敵な笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「魔神や魔物――地上の世界を脅かす存在に対抗するの
に、戦神や武神の協力を得るのは神国の伝統であり、護
法庁の慣例でもある。君達が独自に動いても、護法庁の
連中も文句は言えないさ……。」
いつ紫昏から報告が入っても動ける様に準備してくる
と、レックスとバギルは勇んで会議室を飛び出して行っ
た。
紫昏としては、もっと頭数が多いと助かると内心は思
っていたが、名だたる戦神達の多くは、邪神の降下に備
えて各地に散っていた。また中には、既に定着した邪神
の破壊を試みる為に駆り出された者達もいた。
いずれは、戦神達を多く集める算段もしなければなら
ないだろう、と、紫昏は考えを巡らせた。
「護法庁長官殿の動きを、こそこそと封じにかかってお
られる様ですのう、老神達は……。」
レックス達が乱暴に閉めた扉へ目を向けたまま、サウ
ルスは溜め息混じりに紫昏へと声を掛けた。
錆の浮かんだパイプ椅子に腰を下ろしたまま、紫昏は
腕組みをして微動だにしなかった。レックスとバギルに
向けた不敵な笑みは強張り、そのまま険しい表情へと入
れ替わった。
「恐らくは。滅多な事は口に出来ませんが。――私の経
験上、ここまで護法庁の対策本部結成が遅れているのは
「奥の院」の圧力以外の何物でもないでしょう。」
眉間に刻まれた皺が深くなり、きつく結ばれた紫昏の
唇が僅かに開くと長い溜め息が漏らされた。
「院の方々が、一体何を企んでいるか迄は分かりません
が……。」
◆
かなり遅い昼食を自室で取り、ラノは食後の茶を口に
した。
花の茶の爽やかな香りが、沈みがちな心を僅かに和ま
せていた。
少しずつではあったが、ラノの心も落ち着きを取り戻
しつつあった。
微かな甘味を含んだ茶の香りと味とを楽しんだ後、湖
の景色を眺めようとラノが窓辺に立ったところで、若い
女の神官の澄んだ声が部屋の扉を叩いた。
「ラノ様――。ティラル様がお見えになっています。」
神官の言葉に、ラノは僅かに身を強張らせた。
ファイオに「深い闇」を奪われたあの時――誰にも、
隣に居たバギルにさえも知られてはいないとは言え、「
深い闇」の中に垣間見た自分自身のティラルやゼームへ
と抱いていた昏い想念は、まだラノの記憶に生々しく残
っていたのだった。
「――通してちょうだい。」
微かな震えが声に混じった様だった。
何も心配する事など無い。いつも通り、普通に振る舞
っていればいい――。
ラノは何度か自分にそう言い聞かせ、扉の前へと足を
向けた。
ラノが扉を開けると、その前には神官に付き添われた
ティラルが花束を持って立っていた。
白い霧の様にこぼれ咲くカスミ草に、柔らかな薄紅の
小輪咲きの薔薇の花。
そんな花束の向こうにある、美しい艶を帯びて肩迄流
れる黒髪の、凛々しく端正な風神の容貌――その取り合
わせが決して似合わない訳ではなかったのだが、寡黙で
女性に対しては何処か不器用なティラルの性格からは考
えにくい贈り物ではあった。
凛々しい風神殿の贈り物に、うっとりと羨ましげな視
線を送る神官を下がらせ、ラノはティラルを部屋へと招
き入れた。
「元気そうで安心したよ。――君の所に見舞いに行くと
言ったら、……その、女の神官達が、持って行く様にと
用意してね……。」
慣れない贈り物に、ティラルは少しぎこちない口調で
ラノに花束を手渡した。
「ありがとう。」
ティラルの様子にラノは微笑み、口許を綻ばせた。
ティラルの神殿にも、若い女の神官が何人か居た。彼
女等が花束を用意して、女性への贈り物をあれこれとテ
ィラルに講義する様子が容易に想像出来た。
ティラルをテーブルの前に座らせ、ラノはクローゼッ
トを開いて花瓶を探し始めた。
「――寝ていなくていいのかい?」
心配そうなティラルの問いに、ラノは背を向けたまま
衣服を掻き分け、クローゼットの奥に仕舞っていた箱を
幾つか引っ張り出した。
「ええ、大分具合は良くなったの――。」
敢えて幾らかゆっくりと、ラノは箱を開いて中身を確
かめていった。
ティラルと向き合うのを少しでも避けようという心理
が働いていた様だった。
目的の鮮やかな青緑色の花瓶が見つかった時、ラノは
無意識の内に微かな溜め息を漏らした。
「食事をしていたのかい?」
テーブルの上に残されていた皿やグラスに気付き、テ
ィラルは何気無く尋ねた。
「ええ。――そうだわ、お茶でもどうかしら?」
花束の包みを解いて花瓶に活けると、ラノは思い立っ
た様に棚の一隅に置いてあったティーカップを取りにテ
ーブルを離れた。
ラノが今しがた食事に使っていたものを除いて、二つ
のカップが棚の中にはあった。
カップの底に装飾的な字体で焼き付けられている、金
色の「ゼーム」という文字がラノの目にとまり、カップ
へと伸ばされた手が固まった。
だが、僅かに悲しげに目を伏せた後、ラノは「ティラ
ル」と書いてある方のカップを手に取ると、テーブルの
方に戻って来たのだった。
「今年採れたばかりの花で作ったのよ。」
カップに茶を注いでいるラノの脳裏を、ゼームの面影
が揺れていた。
「ああ……。確か、湖の近くにみんなで去年植えたあの
花か――。」
みんなで、とティラルが口にしたところで、ラノのポ
ットを持つ手が微かに震えた。
みんな――の中には、勿論ゼームも含まれていた。
ラノのそんな様子に、ラノがゼームの事で何事かを悲
しみ、今迄沈み込んでいた事をティラルはやっと気付い
た。
何事か――ゼームがレウ・ファーの下に去ってしま
い、神国の神々に敵対してしまったという事位しか、テ
ィラルには想像出来なかったが。
ラノの入れてくれた茶を口に含みながら、ティラルも
また、ゼームの面影を悲しい思いを抱きながら脳裏に浮
かべた。
ほんのつい数日前迄、当然の事としてゼームもこの部
屋の中に居た。その事すら言葉にするのを憚られる様な
ラノの雰囲気に、ティラルは憐れみの目を向けた。
暫くの間、気まずい沈黙が二神の間を流れた。
女性の扱いに慣れた者ならば、こんな時は気の利いた
話題でも口にするのだろう。だが、ティラルはそれだけ
の経験も話題も持ち合わせてはいなかった。
「――お代わりはどうかしら?」
「ありがとう。」
互いが互いをいたわり合う様な想いを感じ合いながら
も、部屋の空気は重く、息苦しく立ち込めていった。
「――ラノ様。御来客中に申し訳ございません。お見舞
状が何通か届いております。」
扉の向こうから響く神官の声に、二神共、何故か救わ
れた様な気持ちになり、同時にほっと溜め息をついたの
だった。
◆
神国神殿――その本殿から離れた神域の奥深く。
生い茂る木々に覆われたドーム状の建物が「奥の院」
だった。
その地下深くに広がる半球状の巨大な広間に、様々な
姿の神々が集まり、思い思いに空中を漂っていた。
幾枚もの翼を広げた者、輝く宝玉が房状に集まった体
の者、或いは全く人間と変わらない姿の者。彼等は全て
「奥の院」に所属する神々だった。
「奥の院」に所属する証として、彼等は集会の際には
一つの瞳の周囲に五つの黒点の散りばめられた紋章を衣
服に付けていた。
――夢と幻の原初、全ては輝ける一つであった。
何者かの詠唱が始まり、神々のざわめきは即座に鎮ま
った。
――世界は私であり、私は世界そのものであった。
――今、世界に生み出され、私は世界から隔てられ
てしまった。
――私は余りに卑小で、世界は余りに偉大である。
――私は願う。
――輝ける原初への還元。無限なる世界との合一。
――私は願う。
――世界に生み出された私が、今度は世界を生み出
す事を。
――世界を生み出し、形作る力を!
――創造神イジャ・ヴォイの力を私に!
詠唱の終わりと共に、広間の床に仄かな照明が灯り、
青いマントの神が姿を現した。
「今日はまた随分と集まったものじゃな。」
青いマントの神の近くに立つ、白く長い顎髭を垂らし
た老神が、広間を見上げながら感心した。
「今日は、レウ・ファーについての報告だったな。」
青いフード越しにその神が言葉を発すると、その側に
浮かぶ双面で球状の体を持つ神が、恭しく片方の顔を下
げて答えた。
「はい。左様でございます。」
球状の神はふわふわと広間の上の方に浮かび上がり、
集まった神々に向けて発表を始めた。
「――過日、機械神レウ・ファーは、神国神殿より幻神
ヒウ・ザードと共に逃亡――。」
発表を聞いているのか、いないのか、浮遊する神々は
再び口々に喋り始め、広間にざわめきが広がった。
「――幻神共を率い、神国の神々に対して宣戦布告。主
張としては、独り成りの国家を興す事、神国の既存の秩
序の破壊、等ですな。今のところ、レウ・ファーの行動
は我々の思惑通りに進んでいる様子――。」
広間の宙空に映写されるレウ・ファーや幻神達の資料
を見ながら、神々はめいめい、興味深げに喋り続けてい
た。
「――ダイナ山脈の封印の場所にヒウ・ザードが居合わ
せて封印が解かれなんだら、まだ、レウ・ファーの事に
見向きもしておらんのだろうな。」
「まあ、そう言うなよ。……そう言えば、このヒウ・ザ
ードとか言う幻神、レウ・ファーの神霊石を半分取り込
んだのだったね。」
「レウ・ファーはなしてまた、幻神達を手下にしたのだ
なや?ただの格好付けかやぁ?」
「おや、知らんのか。まあ、それもあろうが、表向きの
主張を――この場合、独り成りの国作りじゃな――尤も
らしく見せる為と、それに何より幻神の神霊力をだなあ
――。」
発表が終わってもまだ、長い時間、神々は饒舌に喋り
続けていた。
どの位経ったのか、神々の話の輪の中から、老神が一
神離れて広間の床の方へと降下して行った。
白髪も随分と抜け、つるつるとした光沢を持つ地肌が
うっすらと見えていた。顔には深い皺が刻まれており、
目が開いたか閉じたかも分からない程だった。
彼はゆったりとした白い貫頭衣を翻し、青い神影の前
に下り立った。
床に広がる巨大な瞳と六枚の花弁の紋章――その中央
に、青いマントの神は黙然と佇んでいた。
「今日は退出いたします。レウ・ファー如きよりも、ワ
シにはヌマンティアの遺物の研究が性に合っております
ので。」
ヌマンティア。確かに老神はそう口にした。
武装魔導集団ヌマンティア――それは遙かな太古の時
代、恐るべき科学力と狂気の実験で世界を震撼させた異
形の神々の集まりだった。
ゴレミカやラー・クレチカ達の働きで、彼等は虚空の
深淵へと追放され、地上に残った創造物や知識、技術は
殆ど全て破壊や封印が行われ、現在の地上にはヌマンテ
ィアの存在したという証拠すら残っていなかった。
現在の神国では、ヌマンティアやそれに関わる事柄を
口にする事も怖ましい事とされていた。
ヌマンティアの遺物の研究――老神はそう言った。
ヌマンティアの業により生まれし神――数日前に、レ
ウ・ファーが神国神殿から逃亡する様子を見ていた青い
マントの神は、レウ・ファーの事をそう言い表した。
神国の様々な機関や分野の長老格の集まりである筈の
「奥の院」の彼等が、忌まわしい太古の邪悪な神々の研
究に手を染めている事実は、外部の神々には全く知られ
ていない事だった。
「そうか――ゼバエノよ。お主の研究は、確か、「神々
の森」の地下に封印されている魔神の発掘と聞いた様に
思うが――。」
婉曲な表現をしつつも、この青い神は「奥の院」に所
属する全ての者の研究内容も、その進み具合も知悉して
いたのだった。
「はっはっはっ!長年、封印の破壊に失敗し続けました
が、今度こそはしくじりはしませぬぞ。――では、これ
にて。」
にこやかに笑い声を上げはしたが、ゼバエノと呼ばれ
る老神の表情は、冷たく硬かった。
ゼバエノが広間から立ち去った後、青いマントの神は
広間の上層でまだ話し続けている神々の姿を見上げた。
「レウ・ファーの次の行動は、レイライン集束点の占拠
か。」
その言葉に、いつの間に戻って来たものか、発表を終
えた球状の神が答えた。
「はい。左様でございます。今のところ、レウ・ファー
の秘密文書の解読は一つ所のみ、それも半分程の終了。
奴め、やっと「神々の森」に集束点があるという事を知
ったというところですな。」
まるでラデュレーで見て来たかの様な詳しさで、球状
の神はレウ・ファーの情報処理の様子を報告した。
「では、奴等の最初の行動は、「神々の森」の集束点の
占拠だな。」
先刻、ゼバエノは「神々の森」に封印された魔神の研
究をしていると告げた。
もしかしたら、ゼバエノの動きとレウ・ファー達は衝
突するかも知れなかった。
それはそれで別に構わない――目深に被った青いフー
ドの下で、その神は成り行きを楽しむかの様に、嘲笑に
唇を歪めた。
◆
食器とティーカップを神官に片付けさせた後、息苦し
い沈黙の再来を恐れて、ラノは気分が優れないと言い訳
をして横になる事にした。
「――ごめんなさい、ティラル……。折角来てくれたの
に。」
疲労と悩みに顔を曇らせるラノに、ティラルは優しく
声を掛けた。
「仕方無いよ……。謝る事は無いさ……。」
――出来る事ならば、側に居て看病をしてやりたいの
だが。
ベッドの横の椅子に腰を下ろし、翳りを帯びたラノの
顔を見つめながら、ティラルは言葉を飲み込んだ。
レウ・ファーの暗躍に備え、ティラルもまた、神国神
殿に留まらなければならなかった。
それに、ティラルが今のラノの側に居る事は却ってラ
ノの心を乱しているのだと、漠然と感じ取っていたのだ
った。
「もう神国神殿に行かなくては……。レックス
達の事も心配だし。」
豊かに波打つラノの柔らかな髪に手を伸ばしかけ――
しかし、ティラルは羽根布団を掛け直す仕草でそれをご
まかした。
ティラルから反らされたラノの瞳の中に、一瞬、微か
な拒絶の感情が浮かんでいたのを認めたからだった。
自分が戦神としてレウ・ファー達と戦うという事が、
ゼームとも戦うという事になる。
その事を恐らくはラノは思い悩んでいるのだろう、と
もティラルはラノの胸中を想像してみた。
確かに、ティラルのその想像も幾らかは当たってはい
たのだったが、「深い闇」の中に垣間見た自身の昏い想
いにラノが打ちのめされている事など、ティラルには想
像も出来ない事だった。
「ゆっくり休むといい――。」
ラノの胸中が分からなくても、今ラノの側に居る事が
逆にラノの心を乱しているという事は、はっきりとティ
ラルは理解していた。
もう一度優しくティラルは声を掛けると、椅子から立
ち上がった。
「――ありがとう、ティラル……。」
ラノはそれだけをやっと呟いた。
羽根布団の中にラノがもぐり込もうとするシーツの音
を背に、ティラルはラノの部屋を後にした。
重い足取りで神殿の長い廊下を歩きながら、ティラル
はラノを襲ったファイオや、レウ・ファー、そして自分
の大切な友でもあるゼームの事などを思い返していた。
ティラルが歩む廊下の壁には、涼しげな水色を基調と
した何枚かの絵が掛けられていた。
ふと、何気無くティラルが一枚の絵に目を向けた。
それは丁度、ティラル達を描いたものだった。
ラノの神官の一人が、ラノへの捧げ物として描いたの
だと聞いた覚えがあった。
横に長い画面の中央で、踊る様な仕草で髪を広げ、水
を振り撒くラノと、その横で一つの樹木の様に両腕を広
げて天を見上げるゼーム。
ティラルは白銀の甲冑を纏い、二柱の女神を微風で優
しく包み込んでいた。
絵の中の三神は幸せそうに、満ち足りた表情で微笑み
合いながら、ティラルの眼前に在った。
――心の「深い闇」……。
ティラルは不意に、ラノから奪い取られたと言う心の
暗黒の力の事を思い出した。
絵の中で美しい笑顔に輝いているこの水の女神の心の
中には、一体どんな暗闇があったと言うのだろうか。
ティラルは悲しげに目を伏せ、やがて顔を上げると、
再び歩き始めた。




