閑話:シリュス視点
明け方の冷え切った空気を切り裂くように、馬車が石畳を駆けていく。
車輪の軋む音と、遠ざかる学園の静寂。
一度城へ戻り、直ちに彼女――アナスタシアを追う準備を整えねばならない。
向かい側に座るゼノス・ヴァルカニスが、背もたれに深く身を預けながら、私の顔をじっと覗き込んできた。
その瞳には、親友としての礼節の中に、隠しきれない好奇の色が混じっている。
「らしくないな、シリュス。お前があんな贈り物をするなんて」
「……合理的に判断しただけだ」
無意識に、指先が自分の左手首をなぞっている。
そこにはもう、数刻前まであったはずの魔導具の感触はない。
「……あの実家へ戻るにあたり、毒を盛られる可能性を考慮した。本来なら指先ひとつ動かすのも苦痛なはずの状態で、一人でも戦おうと無理に立ち上がるような危うい女だからな。」
口から出たのは、我ながら白々しいほどに乾いた言葉だった。
ゼノスは茶化すこともなく、ただ鼻を鳴らして窓の外へ視線を投げた。
その無言の反応が、かえって私の胸をじりじりと焦がす。
……嘘だ。
合理的などという言葉で片付けられるほど、私の心は軽くなかった。
あのブレスレットは、私が幼い頃、アイゼン家の自室に籠もり、震える手で初めて魔力を吹き込んだ魔道具だ。
当時のアイゼン家は、家門の純潔を病的にまで重んじる祖母がすべてを支配していた。
彼女にとって、異国の地から嫁いだ第一夫人の息子である私は、自身の認めぬ血筋を引く「欠陥品」でしかなかった。
ある日、私は母から完全に隔離され、食事の同席すら許されず、祖母と二人きりで卓を囲むことになった。
な銀食器に盛られた、冷え切ったスープ。
一口啜るたびに、喉を焼くような苦みと、内臓はねじ切れるように鈍痛が襲う。
体内の魔力を必死に巡らせ、毒の浸食を辛うじて食い止める。
向かいの席で、祖母は無表情に私を観察していた。
私が「人間」として失格し、無様にのたうち回る瞬間を、今か今かと待ちわびているかのように。
誰の助けも求められず、己の魔力だけを頼りに、毒を中和する術式を魔石に刻み込んだあの夜。
指先から血が滲むほど魔石を強く握りしめ、必死に「生」へと縋り付いた。
あれは、私の執念そのものだ。
(……それを、なぜ。まだ出会ったばかりの彼女に)
扉の先で、傷だらけの身体を引きずりながら一人でも戦おうと瞳を燃やしていた彼女。
実の家族に命を買い叩かれ、それでもなお、自分を盤面の駒として冷徹に数えてみせたあの痛々しいほどに鋭い横顔。
抱き上げた腕の中に残った、驚くほど細く、脆い質量。
かつての、毒の盛られた皿を前に、独り静かに絶望と向き合っていた幼い私と、彼女が重なってしまったのだろうか。
あんな身体で、私と同じ地獄を歩ませたくない。
彼女の瞳から、二度と光を奪わせたくない。
それは理屈などではない。
臓腑を掻き回されるような、苛立ちに近い衝動だった。
ゼノスが口を開いて、余計な詮索を受ける前にこちらから先手を打つ。
「……質問を変えよう、ゼノス。お前こそ、どういうつもりでアレを渡した」
私は努めて低く、冷徹な声を投げ返した。
ドレスの装飾の下、彼女が大切そうに触れていたあの黄金の細工と紅蓮の魔石がはめ込まれた短剣。
「あれはヴァルカニス家伝来の魔剣『陽炎』の番の刀――『不知火』であろう」
ゼノスは一瞬、知っていたのかと眉を上げたが、すぐにどこか申し訳なさを孕んだ苦笑いを浮かべた。
「ああ、あれな。……先代からは『すでにお前の魔力で染め切った所有物だ、好きに使え』と言われているんだ」
「染め切ったと言っても、本来は次世代の当主へと受け継がれるべきものだろう。なぜお前の私物になる」
「正確には、俺の魔力が濃く染まりすぎたらしい。歴代の当主でも、二振りの魔剣をここまで完全に染め上げた者はいないそうだ。……おそらく、他の誰かがこの色を塗り替えるのは、もう不可能だろうな」
魔石に己の魔力を通わせる行為は、白い布地を染める工程に似ている。
使い手の魔力が薄ければ他の色に染まりやすくなり、逆に魔石の位が高ければ、染め上げるには膨大な魔力が必要となる。
ゼノスはその上質かつ圧倒的な魔力で、歴代の誰もが成し得なかった「魔剣の完全な私物化」を、無自覚にやってのけたのだ。
学園時代から異質な存在だとは思っていたが、その底知れなさを今更ながらに思い知らされる。
「……そうなれば、ヴァルカニス家の古老たちが黙っていないだろう」
「ご明察。だからあの魔剣を二振りも腰に下げていると、視線が少し痛くてな。彼女が受け取ってくれるなら、俺としても助かるんだ」
かつて『陽炎』を打った刀鍛冶は、その剣の持つ力に恐れを抱いたという。
いつかこの魔剣が制御不能な災厄となった時、誰がそれを止めるのか。
ゆえに鍛冶師は、同じ鉱石からもう一振りの刃を打った。それが番の刃――『不知火』だ。
『陽炎』と同じ炎を操り、そして、狂った主の心臓を正確に貫くための魔剣。
もし夫である『陽炎』が道を踏み外せば、その手で葬り、共に地獄へ落ちる。
それは守護の象徴であると同時に、あまりに重く、残酷なまでの「番」の誓いだった。
「……本当は短剣だけ渡して、魔力登録までさせる気はなかったんだ。登録ができなくても、護身用の隠し武器にはちょうどいい代物だと思ってたんだがな」
ゼノスが、遠くを見つめるように目を細める。
「倒れる直前、力が暴走していた時の彼女の気配をふと思い出して……もしかして、と思って試させたら。登録できちまったんだよ。彼女」
心臓を、鋭い氷の棘で貫かれたような錯覚。
あの時、彼女の手の中で『不知火』が放った、熱を帯びた魔力の脈動。
認めたくない現実から逃れるように、私は視線を逸らした。
「……登録できた、だと?」
「ああ。本来なら番との夜を幾度も重ね、相手を『陽炎』の主の魔力で完全に染め抜いて初めて、登録が可能になる刀だ。歴代の当主すら凌駕する俺の魔質に、あの子は真っ向から適合してみせた。……他人同士でそんな奇跡が起きるなんて、運命みたいなオトギ話の類だと思ってたんだがな」
ゼノスの言葉が、冷たい毒のように私の胸に染み渡る。
本来ならば、幾夜もの交情を経て魔力を溶け合わせ、魂の形を削り合うようにしてようやく結ばれるはずの、あまりに重い契約。
それを、縁もゆかりもない他人である彼女が、あんなにも容易く、そして純粋に満たしてしまった。
その事実がどうしても許せなくて、腹の底からどろりとした、どす黒い名状し難い感情が溢れ出す。
なぜこれほどまでに頭に血が上っているのか、自分でも正体が掴めない。
ゼノスは私と同じような歪な環境で育ち、誰よりも互いの辛苦を理解してきた、唯一無二だと思っている。
彼の実力も、その高潔さも、私は知っているはずなのに。
それなのに――彼と彼女が「運命」という鎖で繋がれたことが、耐えがたいほどに不快だった。
「……お前は、彼女を迎え入れるつもりなのか」
口から零れた言葉は、自分でも驚くほど硬く、そして焦燥に満ちていた。
ゼノスが目を丸くして私を見ている。
……無理もない、私自身、自分に驚いているのだ。
王直属の魔導師団の団長として、あらゆる事象を合理的に処理してきた私が、このような俗っぽい、嫉妬に近い感情で親友を問いただすなど。
「……それを聞いて、お前はどうするつもりだ? シリュス」
ゼノスの声は真剣で、けれど残酷なほどに核心を突いていた。
ちょうどその時、馬車が王城の重厚な正門を潜り、静かに停車した。
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
私は逃げるように視線を逸らすと、扉が開くと同時にゼノスを置いて馬車を降りた。
背後に親友の視線を感じながら、早足で城内にある魔導師団の寮……自室へと向かう。
この胸の奥で渦巻く、正体不明の苛立ちをこれ以上、悟られるわけにはいかない。
無意識に触れた廊下の壁のところどころが、指先から漏れ出した冷気で白く凍りついていく。
後で部下たちが騒ぎ立てるだろうが、今の私にはそれを抑える手間すら煩わしい。
欲しいものはすべて手に入れてきた。
アイゼン家での地位、王直属の魔導師団長の座、そして比類なき魔術の知識。
だが。
あのアナスタシアという存在を前にして、自分がどうしたいのか、私自身にも分からないのだ。
祖母の影響で、女性という生き物には嫌悪と警戒しかなかった。
『毒を飲んでも表情ひとつ変えない恐ろしい男。お前は人間じゃない』……そう罵られ、凍りついていた私の世界。
ゼノスと彼女はお似合いだろう。
彼の温かな陽の光に守られて、安心した表情を浮かべる彼女は、きっと美しい。
(……腹立たしいな)
胸の奥がじりじりと焼け、得体の知れない感情が募る。
あの『不知火』が彼女を受け入れたということは、彼女もまた、ゼノスに対して、悪意のない心地よさを感じているということだ。
私という存在は、彼女にとって「容疑者」と断じた、ただの冷徹な監視役でしかないのだろうか。
だが、思い出してしまう。
『シリュス様は、本当にお優しいのですね』と、真っ直ぐに私を見つめて言った、彼女の言葉を。
恥ずかしそうに、けれど温かく微笑んだ彼女の瞳。
あの一瞬、私の凍てついた世界の底で、確かに氷の溶ける音がしたのだ。
人間ではないと蔑まれた私に、彼女だけが「優しい」と、そう笑いかけた。
「……効率は悪いが」
明け方の冷気に紛れ、自分でも驚くほど固い決意を込めた独白が零れた。
「……諦めるのは、性に合わない」
魔術への探求よりも、家門の掌握よりも。
親友である男に嫉妬し、惨めな思いを抱えてでも。
たとえ世界の摂理に背くことになろうとも、その運命ごと、私の魔力で塗り潰してやる。
あの、他人に自分の価値を決められ続けてきた孤独な少女を。
今度は私の魔力で、誰にも触れられないほど深く、染め上げてしまいたい。
シリュス・アイゼンは、自らの内に芽生えた、どす黒いほど純粋な独占欲を、初めて自覚した。




