第一章 足立すみれ
神様は、気まぐれ。
産まれた瞬間から、神様の気分次第で運命が決まる。
神様が良い気分だったら、その時産まれた人たちは、「勝ち組」になれる。
その「勝ち組」の人たちは、「良い人生」を送れる。
成績も良く、生徒会長にも、社長にも、大統領にもなれるチャンスを得る。
じゃあ神様の気分がよくない時に産まれた人たちは?
その人たちは、「勝ち組」の人たちと真逆の人生を送る。すなわち「負け組」だ。
いつも人に怒られたり、手を上げられたり、馬鹿にされたり。いや、もっとひどいことをされる人もいるかもしれない。
私が言いたいのは、「人生とは、神様の気分によって左右する、不平等な運命」ということだ。
たまに豊臣秀吉みたいに駆け上がってくる人もいる。その人たちは産まれた時、「勝ち組」になる権利以外に、何か特別なものを授かったのかもしれない。
私は「負け組」だ。両親は私が幼い時に二人とも交通事故で亡くなってしまった。バイト先のコンビニのでは毎日上司に怒られ、クレーマーにはくだらないことで怒鳴られる。
「あなたねぇ、仕事が遅いのよ!チンタラしてないでさっさとやりなさいよ!」
「申し訳ありません…」
「あなた、足立さんっていうのね。覚えておくわ」
クレーマーはフンッと言い、ビニールを提げて出ていった。
これがいつもの光景だ。
月明かりもない夜、街灯だけが静かに光っている。周りには蛾が舞っていた。
気がつくと私は下を向いて歩いていた。疲れているのだろう。
ため息をついてオートロック式の自動ドアを通り過ぎた。
私は「負け組」。運命はそう簡単には変わらない。
でも、「負け組」の私にも唯一、神様がくれたものがある。
「ただいま、こはく」
「ナオーン」
そう、こはくだ。
「ごめんね、こはく。遅くなっちゃって」
「ナーン」
こはくは私の飼っている猫。ゴミ捨て場の隅でうずくまっているのを私が見つけたのだ。
「負け組」の私が神様からもらった、唯一のプレゼント。唯一の幸せ……。
こはくはゆっくり、ゆっくりと近づいてきた。以前は駆け足で出迎えてくれたが、今の こはくはゆっくり歩くだけで精一杯なのだ。
こはくは今年で十六歳。見た目は変わらなくても、こはくの寿命はもうすぐ尽きることは、一目でわかる。
「もう今年で十六歳ですよね。年を取って、腎臓の機能が低下しています。おそらく最期は老衰かと……」
獣医にはそう言われた。もってあと数日だとも。
でも私はその実感が湧かなかった。こはくとの日々が、永遠に続くと思っていた。
数日、数日。数日って何日?あと何日で、こはくは逝ってしまうの?
私がこはくを撫でると、こはくはそのまま自分の額を私の掌に擦り付けた。こはくの額の毛が冷えた私の手を温めてくれた。
掌にまとわりつく茶色い毛が、愛おしくてたまらなかった。
神様は、私からこの感触すら、奪おうとしている。
部屋では、時計の音だけが、静かに響いていた。
このまま時間が止まれば、どれほど気が楽だろう。
あと数日でこはくはいなくなってしまう。こはくがいなくなったら、私はどうなってしまうのだろう。
獣医にはこはくを集中治療室に入れることを勧められたが、私は最期までこはくを家にいさせることにした。
こはくには、見たこともない怖い場所より、落ち着く家で最期まで過ごしてほしかった。
それからニ日後だった。仕事から帰ってきても、こはくは出迎えてこなかった。
まさか……。
私は急いでこはくを探した。こはくはフローリングで横になっていた。
大切な宝石に触るように、慎重にこはくに触れた。
こはくの体は温かかった。
「よかった……」
安堵の声を漏らしたが、こはくは目を開けなかった。
おそらく今夜がこはくの最期だ。
窓の外では細い三日月が顔を出していた。
私は静かにこはくの背中を撫でた。毛並みの良い茶色の背中を、前よりも小さくなった丸い背中を、ただ撫でていた。
ふわふわとした、わたあめに似た感触。この感触をもう二度と味わえなくなると思うと、いつのまにか涙が頬を伝っていた。
すると急に、今までの「こはく」が頭の中で蘇ってきた。
紐を追いかけるこはく。
家を出る私を寂しそうに見つめるこはく。
私の隣で寄り添って眠るこはく。
懐かしさ、寂しさ、悲しさ……言葉では表しきれないほどの感情が、私の中で込み上げてきた。
もうあの頃には戻れない。こはくと遊ぶことも、こはくのあの小さな顔を見ることも、二度とできない。
とめどなく溢れる涙を止めることは、容易ではなかった。
「こはく……こはく……」
伝えたいことは数えきれない程ある。でも、こはくに残された時間は短い。何を話せばいいのかわからなかった。
けれど、その時だった。
「……こはく?」
こはくの目が開いたのだ。死を待つだけの老猫が、最期の力を振り絞って、私のことを見つめた。大きな宝石のような、いや、大きな琥珀の色の目で。
その目は、驚くほど澄んでいた。思わず見惚れてしまうほどに。
こはくは、最期の最期まで、私の言葉に耳を傾けようとしている。
私たちは、言葉がわからなくても、心で繋がっている。だからきっと、伝わるはずだ。
「こはく……」
いつも、元気づけてくれて、
いつも、そばにいてくれて、
いつも、一人にしないでくれて、
「……ありがとう、こはく」
こはくは、ゆっくりと目を閉じた。
ああ、逝ってしまった。神様が私にくれた、宝物が。
私は泣いた。赤ん坊のように、声をあげて。その日は、涙が渇くことはなかった。
こはくへ
こはく、ありがとう。本当に本当に、ありがとう。こはくには、色々なことを教わったよ。言葉はわからないけれど、私たちは、心で繋がっているから。
だから、向こうの世界に行ってもあなたを見つけて見せるから、待っていてね。こはく。
あなたの飼い主 すみれより




