第1章 清音
一般には馴染みの薄い人物であるが、幕末の江戸に窪田清音という旗本がいた。幼少の頃から利発で、何をやらせても優秀だった清音は、長じるや文においては国学、和歌、書道、伊勢流武家故実に精通し、武においては田宮流剣術、宝蔵院流槍術、中島流砲術、関口流柔術、山鹿流兵法を極め、そのうえ美術品や刀剣の鑑定にも造詣が深いという、早い話がそんじゅそこらではお目にかかれない、多方面に才能を発揮した、素晴らしい人物だった。この文武両道の達人・清音は、幕臣として御納戸頭の要職にあったが、それに飽き足らず自宅屋敷を田宮流剣術の道場に改装し、大勢の門弟を指導していた。
当時、幕藩体制は行き詰まり、経済が停滞、各地で暴動や打ち壊しが頻発して社会全体に暗雲が垂れ込めていた。また、たびたび日本の近海に異国船が出没し、人々を不安に陥れていた。
(我が国は今の体制で良いのか?)
(このままでは異国に侵略されるのではないか?)
(抜本的な改革が必要なのではないか?)
有識者を訪ね、意見を交わし、おのれの知見を高めるのが、この時代の流儀である。問題意識を持った人々が国じゅうを巡って危機感を共有し始めた。国学者でもあった清音のもとにも、剣術修行の若者だけでなく、国の将来に危機感を抱いた多くの憂国者が意見を求めて訪ねてきた。
信濃松代藩は、大阪夏の陣で徳川家康を死の一歩手前まで追い詰めた真田信繫(一般的には幸村の名前で知られている)の兄・真田信之以来、真田家が藩主を務めている。第八代藩主・真田幸貫と江戸にいる藩士たちが門弟として田宮流剣術を習得したせいで、清音は松代藩と懇意の間柄にあった。
天保十三年(1842年)、その松代藩からがたいが良く、目つきの鋭い藩士が、清音を訪ねてきた。後に勝海舟や吉田松陰に大きな影響を与える佐久間象山である。このとき三十一歳。主君の真田幸貫は幕府の老中だったが、新たに海岸防禦御用掛にも任じられたので、その補佐役を命じられた象山は海防について清音の知見を伺いに来たのである。
五十一歳の清音は快く象山を奥座敷に招き入れた。清音は著名な武道家だけあって、がっしりした体格をしていたが、顔つきは柔らかく理知的で、若造の象山を見下すような傲慢な素振りは一切なく、質問にも真摯に答えた。
二人が話をしていると、道場で稽古する門弟たちの元気な掛け声に混じって、さかんに金属を叩く音が聞こえてくる。不審に思った象山が「ご近所に鍛冶屋があるのですか?」そう尋ねると、清音が「うるさいですか?」と苦笑した。失礼な発言をしたのかと焦った象山が慌てて「いえ、決してそういうわけではありませんけど」と否定すると、清音は「あれは当屋敷内から出ている音です」と答えた。象山は驚いて訊き返した。
「え? このお屋敷内に鍛冶屋がいるのですか?」
「鍛冶屋というか・・・刀を打たせているのです」
「つまり刀鍛冶がいるということですね?」
「はい。佐久間さまと同じ信濃の人間ですよ」
「信濃の人間?」
「佐久間さまは山浦真雄という刀鍛冶をご存じですか?」
清音にそう尋ねられた象山は頭の中で記憶をグルグル巡らせた。
「わたしは面識がありませんけど、小諸に山浦真雄という若手ながらも優れた刀工がいるのは聞いております」
「その弟ですよ、あのやかましい音を立てているのは」
「弟?」
「ええ、山浦環といいます。刀には正行という銘を彫っておりますが」
この山浦環が本作の主人公、すなわち後の源清麿である。このとき二十八歳だった。本作では環をタマキと表記する。
「さるご重役に頼まれましてね」清音は微笑んだ。「しばらくこいつの面倒をみてやってくれ、と。それからもう十年近くこの屋敷に居候しております」
「十年も」
「はい。最初は刀鍛冶一本というわけでなく、剣術の修行もしておったのですが・・・」
「剣術の方は芽が出なかったのですか?」
「いえいえ、そういうわけではありません」清音は笑顔で首を横に振った。「剣の腕も相当なものですよ。わたしが道場を留守にした時、何度か師範代を頼んだくらいですから」
「では、剣術でも身を立てられる御仁なのですね?」
「はい。体が大きくて腕力があり、動きが敏捷で脚力もあり、太刀筋も良いですからね」
「それはすごいじゃありませんか」
「ただ・・・」と、清音は言葉を詰まらせた。
「ただ?」
「剣の道へ進んでも並の剣豪にしかなれないでしょうね。世間にごまんといる平凡な剣の達人にしか」
「ところが、刀鍛冶だと・・・」
「正宗や虎徹のような歴史に名を残す刀工になれるかもしれない。いや、きっとなる」
「ええ?」象山は目を丸くした。「本当ですか?」
「本当です。刀を見る目には些か自信がありますので」
「確かに先生は刀の鑑定に関して当代随一のお人ですが・・・」
「才能というのはおそろしいものですな」清音は嘆息した。「以前わたしも刀造りに挑戦した経験があるのですけど、天が与えた才能というやつは如何ともし難い。自分の力の及ばなさを思い知らされるばかりです」
「そんなにですか?」
「圧倒的な差です」
「圧倒的?」
「不遜なもの言いで恐縮ですが、わたしは子供の頃から何をやっても他人より優れ、ひと様から神童だ何だと持ち上げられてきました」
「先生はそうでしょうね」
「山浦はこれまでの人生で神童と呼ばれたことなど無いでしょう」
「さぁ、どうでしょうか?」
「しかし、本当の神童は彼だったのです。わたしは何者でもなかった。何でも器用にこなす人間なんか何もできないのと同じです」
「そんな・・・先生はすごい人ですよ」
「本当にすごいのは一つの事に秀でた人間です。それも突き抜けて、遥か彼方へ、我ら凡人が遠く及ばない場所へ行った人間」
「なるほど」
「山浦の才能に惚れたわたしは、彼のために彼専用の鍛冶場小屋を当敷地内に拵えました、刀造りに専念できるように」
「先生はお優しいですね」
「天に選ばれし者を援助するのは、我ら凡夫の務めだと思っておりますから」
「先生は決して凡夫ではないと思いますけど・・・それはともかく、さぞかし凄いのでしょうね、その山浦さんとやらが造る刀は」
「わたしが親しくお付き合いさせて頂いている長州藩家老の村田清風さまも、先日、山浦の刀を買ってたいへん満足していらっしゃいました」
「お話を伺っていたら、わたしも一振り欲しくなりました」
象山がもの欲しそうに微笑むと、清音は「当分それは難しいでしょう」と答えた。
「え、どうしてですか?」
「山浦には、いま武器講というものをやらせておりますので」
「武器講? 何ですか、それは?」
「門弟と知人、合わせて百人から一人三両ずつ出してもらいましてね、その集まった三百両を元手に百人分の刀を打たせているのです」
「一人三両? そりゃあ安すぎやしませんか?」
「確かに安いです」清音は頷いた。「しかし、今の山浦に必要なのは、数をこなすことだとわたしは思っています。いかに未来の正宗であっても、現状は無名の存在にすぎませんから、百振りの注文を集める為には、この価格設定にするしかなかったのです」
「なぜ数をこなさなければならないのでしょうか?」
「山浦の刀は未完成なのです。彼の刀はまだ若い。真の名刀になるには、もう少し渋みというか落ち着きというか、ある種の俗味が必要なのです、料理における隠し味のように」
「そういうものなんですか?」
「わたしはそう考えております。そして必要な俗味を与えてくれるのが数なのです。何も考えずに次から次へとひたすらに安い刀を打ち続けることで、それが備わるはずです」
「成果は表れましたか?」
象山がそう尋ねると、清音は「それがさっぱりダメでして」と苦笑した。
「さっぱりダメ?」
「いくらこちらが口を酸っぱくして、これは練習なんだから、ほどほどの出来で良いのだから、とにかく数をこなせと言っても、名人肌が抜けない山浦は、一振りの刀を造るのに相変わらず長い時間をかけております」
「妥協できない性分なのですね、彼は」
「言う事をきかないんですよ、山浦は。この調子では百振りの刀を完成させるのに何十年かかることやら・・・どうやら武器講というわたしの目論見は失敗したようです」
「しかし、わたしは山浦という男にますます興味が湧いてきましたよ」
「そうですか。それは良かった」清音は微笑んだ。「わたしの方は、これからどうやって武器講にケリをつけるか、その算段で頭が痛いですけどね」
「帰りに山浦さんに会っていって良いですか?」
「どうぞ、ご自由に」
清音の了承を得た象山は鍛冶場小屋へ向かった。




