◾️九月十五日火曜日Ⅲ
『藤島さん、お祓いは行きましたか?』
「いえ……行く気力がなくて……」
『ダメですよ、絶対行ってくださいね! それから……体調はどうなんですか? ずっと音沙汰がなかったので心配していたんです』
「体調は……悪くないです。ただ……」
『だた?』
「見たくないものが、見える。聞きたくない声が、聞こえるっ……」
ガチガチと歯を鳴らしながら答えると、電話の向こうで山吹先生が息をのむのが分かった。
「私っ……このまま、死んじゃうの、かな」
『バカなことを言わないでください。気をしっかり持って! 頑張って病院の外に出て!』
「む、無理です……私だって、本当は外に出たいのに、今、二階に上がろうとしてますっ……」
『藤島さん、取り込まれないでっ。なんとか耐えてください!』
「山吹先生……私、先生には伝えていなかったんですけど、赤ちゃんができたんです。元彼との子です。私はどこかで、この子がいればまだ彼ともつながっていられると思っていました。でも、本当はちがうのかも……」
ひゅるるる、ひゅるうううう、と冷たい風が吹く音も、赤ん坊の鳴き声も、ずる、ずる、と人ならざるものが足を引きずるような音も、全身で受け止め止めていると、なぜだかすべて、|自分の身体が発しているように感じられた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
『藤島さん、藤島さんっ……みよ子さん!』
山吹先生が私の名前を何度も呼ぶ。初めて名前で呼んでもらえて、胸がきゅっと切なくなる。私はこのひとが好きなんだろうか。私は、慎二のことを忘れられずにいたはずなのに、いつのまにこのひとのことを……。
足がようやく「分娩室2」の前に辿り着く。部屋の扉がキイイイィィ、と音を立てて勝手に開かれる。
部屋の中へ一歩、足を踏み入れた。
『僕は、藤島さんのことが好きなんです』
彼の声が耳を素通りしかけて、止まる。部屋の中のもう一つの扉がゆっくりと開かれる。薄暗い空間の中で、下へと続いていく階段をゆっくりと降り始めた。
今、山吹先生はなんて……。
私のことが好き?
でも先生には、奥さんがいるじゃないか。
私の疑問に答えるようにして、彼はそのまま続けた。
『僕、実は妻とは死別していて。二年前に、癌で……。その後に立山小学校に赴任したので、立山小学校の先生は誰も、妻のことを知りません。聞かれたら答えるつもりでしたが、誰にも聞かれなかったので』
山吹先生の左手の薬指に嵌められていた指輪を思い出す。まだきらきらとした輝きを放つ、新しめの指輪。その指輪の向こうに、こんな悲しい現実があったなんて、知らなかった。
『妻とお別れしたとき……きっと僕はもう、生涯誰のことも愛せないと思いました。亡き妻のことを思って一生ひとりで生きていこうと誓いました。でも……立山小学校に赴任してきて藤島さんに出会って、変わったんです』
立山小学校に山吹先生が赴任してきてからのことを思い出す。彼は、暴君のように振る舞う酒井先生になんと言われようと、毅然とした態度を貫いていた。私のことも気にかけてくれて、いつもさりげなく声をかけてくれて……。
『藤島さんが、酒井先生のことで大変な思いをしていることはずっと気になっていました。でもあなたは強く、酒井先生の理不尽な指導にも耐えていた。話しかけたら当たり前のように優しく接してくれる。笑顔の下で、あなたがどれだけ辛い思いをしているのかを想像すると、居てもたってもいられなくなったんです。僕が……あなたのことを守りたいと思ってしまった。傲慢で勝手なことは分かっています。でも僕は、藤島さんにひととして、女性として、惹かれているんだと確信しました。これが妻に対する裏切りになるのかと言われたら、そうなのかもしれません。でも妻は亡くなる直前に言ったんです。“幸せになって”って……』
会ったことのない山吹先生の奥さんが、病床で美しく微笑みながら彼に最大の愛の言葉を伝える姿を想像する。切なさが込み上げて、涙が止まらなかった。
階段を下り切って、地下室の扉の前に立ちはだかる。やがてその扉も、ギイッと鈍い音を立てて開かれた。
私は、“私”と目が合った。
手術台の上へと足をかける。「藤島さん」ともう一度彼が私の名前を呼ぶ。
「山吹先生。私ね、養子だったんです。母と父の。それで、DNA鑑定もしたんですよ。そしたら鑑定結果では、母と歴とした親子だったんです。血が繋がっていたんです。これってどういう意味なんでしょうね?」
今日、DNA鑑定の結果を見たとき、あまりの衝撃に自分を保てなくなった。
私は母と父の養子であるはずなのに、どういうわけか母と血が繋がっている。
それが意味するところを考える余裕もなく、ただこの場所に戻らなくてはという気持ちだけが先走っていた。
『藤島さん……どういうことですか?』
私が分からないことを、赤の他人である山吹先生が理解できるはずもなく困惑した声が聞こえる。
そうだよね。意味が分からないよね。
「すみません。今のぜんぶ、冗談です、ふふっ」
自分でもどうしてか分からないが、口から笑みがこぼれた。さっきまで恐怖で頭が支配されていたのに、今はもうふわふわした感覚に酔いしれたような心地がしている。
手術台の上に完全に上りきった私は、かたわらに佇む“私”が満面の笑みを浮かべるのを見た。
『藤島さん!? 何してるんですか。藤島さん? ちょっと待っててくださいよ! というか早くそこから出てください。できるだけ早く行くように頑張りますから。藤島さん!』
山吹先生の声が聞こえたのはそこまでだった。スマホを地面に落とすと、彼の声はもう完全に途絶えた。
「ごめんね、ただいま」
自分のお腹にそっと手を添えて、隣にいる“私”に微笑みかける。
“私”が「おかえり」と言ったような気がして、彼女は私の腹に手を伸ばした。




