第3話 記憶遡行①
水曜日に間に合って一安心です。
「<記憶遡行>……?」
結局、半刻ほど続いた黒猫と少女の戯れは、撫でられるのに飽きた黒猫の「もういいじゃろう」という無慈悲な一言で唐突に終わりを告げた。ククルゥは寂しげに耳を下げていたが、本題に進むとあってはいつまでも遊んでいるわけにはいかないと思い直し、どうにか切り替えたようだった。
そして今、丸テーブルの上には片付けられたティーセットの代わりに一冊の魔導書が置かれている。言うまでもなくマキオが用意したもので、表紙に書かれた魔法名を読んだククルゥの第一声がそれであった。
「はい。記憶遡行、つまりは誰かが見たり聞いたりした昔のことを正確に見聞きする為の魔法ですね」
首を傾げるククルゥに、マキオは頷きつつ簡単に解説する。
ククルゥは知らなかったが、魔導書にはいくつかの種類がある。
一つは魔法習得のための教本。魔法使い自らが研鑽した魔法構築理論を記述したもので、いわばその魔法使いの奥義書とも言える存在である。ククルゥが求める魔導書もこれに分類されるが、魔法使いの多くは秘密主義であり、独自に開発した魔法を魔導書に残すことは極めて稀で、残されていたとしても限られた弟子にのみ受け継がれるのが常であった。
よって、少ないながらも市場に出回るのは魔法を扱うための基礎となる、通称汎用魔法について記述されたものだけなのだが、それさえも非常に高価なのは、製本技術の未熟、そして魔法適正を持つ者が少ないことに起因する極めて局所的な需要であるが故の、供給の少なさによるものである。
対して、マキオが持ち出したのはそれ単体で魔法を発動する為のもので、魔道具の一種と分類されることもある。
この類の魔導書は、巻物という使い捨て魔道具が元になっている。羊皮紙に特殊なインクで魔法陣が描かれており、魔法陣に魔力を通せば魔法が発動するという単純な仕組みで、魔法陣を励起させる為の僅かな魔力さえあれば――といってもこの世界のあらゆる生物は微弱な魔力を内包している為、実質的に誰にでも――魔法が使えるという代物だ。
一度魔法を発動させると流れた魔力によって魔法陣が焼き切れてしまう為、使い捨てにせざるをえないことや、単純な魔法しか発動できないという欠点はあるものの、冒険者や商人、辻馬車などにはいざというときの備えとして重宝されていた。無論、全て手書きである上、特殊なインクを使用すること、そもそも魔法陣を描ける者が少ないことからそれなりに高価ではあるが。
さて、魔導書は一冊の中に複数の魔法陣が描かれており、それらを決まった手順で起動させることで魔法が発動する仕組みになっている。複数の魔法陣を使用しているということは、それだけ多くの特殊インクや羊皮紙、さらに暴発を防ぐ装丁用の素材といった物質的なコストがかかるのはもちろんのこと、何よりもそれらを並列立体魔法陣として成立させ、一つの魔法を発動させる「技術」が用いられているということであり、前述の教本的魔導書に輪をかけて高価にならざるをえない。
なお、ククルゥが王都で見た魔導書は、実はこのタイプであった。高いはずである。
閑話休題。
魔導書はその構成上、原則として一冊に付き一つの魔法しか発動できない。それだけではコストが嵩む割に巻物と同じことしかできないところだが、もちろん明確な利点がある。
一つは魔法発動に必要な魔力を複数の魔法陣に分散させることで魔法陣一枚当りの負担が減り、使い捨てる必要がなくなっていること。もう一つは複数の魔法陣を同時に起動することで複雑な魔法の発動を可能としていること。
特に後者の特性は、魔法産業・魔法業界に大革命をもたらした。それまでは羊皮紙の大きさや魔法陣の緻密さの問題でどうやっても羊皮紙に描ききれず、実現できなかった高位魔法の魔法陣化に成功したのだ。
<記憶遡行>も、そんな高位魔法の一つである。
その効果は対象の記憶を過去に遡ること。対象者自身が忘れてしまっているような深い記憶でも辿ることができ、また術者の質問に反応する記憶を探ることもできる。本来は犯罪の証拠集めなどで目撃者や容疑者に使用されるもので、当然一般的に普及している魔法ではない。
もっともククルゥはその事実を知らない為「そんな魔法があるんですね」と軽く流してしまっていたが。
「それと、この魔導書ではもう一つ機能を追加しています」
「追加、ですか?」
「はい。正確には術式の拡張と言います。通常、記憶遡行では術者しか記憶を見られませんが、これは対象者――この場合はククルゥさんですが、魔法をかけられる側もその記憶を一緒に見ることができます。もし途中で見られたくない記憶があった場合、ククルゥさんの意思で止めることができるようにです」
さらっと説明しているが、既に存在する魔法の術式を拡張するというのがどれほどの難業か。例えるなら完成した建築物に、外観や間取りを変えないまま一部屋増築するようなもので、一般的には不可能とさえ言われるレベルである。魔導書を作る場合は物理的な制約というよりも、むしろ他の魔法陣との干渉や魔力回路の無矛盾性といった部分の調整が殆どを占めるのだが。
そんなこととは知らないククルゥはといえば、またも呑気に感心するばかりである。
「マキオ。もう一つ言い忘れておるぞ」
丸テーブルの上、座ったクロが尻尾でぱたりぱたりとテーブルを叩きながら言った。
「ああ、そうでした。ククルゥさん、今回の記憶遡行では、僕の他にクロも同行します」
「えっ……で、できるんですか? そんなこと……」
「ええ、できますよ」
魔導書に限らず、本来魔法の術者というのは一人である。魔法についてさほど詳しくないククルゥでさえそれは知っていた。
厳密には儀式魔法や集団魔法など、複数人で構成する魔法も存在するが、それでさえ魔法の行使者――術者として全体を管理するのは一名、というのが常識だった。
しかし、マキオはこともなげに肯定してみせる。ここまで無知ゆえに魔法的な意味で常識外れなことも「そういうものか」と受け入れてきたククルゥは、初めてその異常性に気が付こうとしていた。
(ひょっとして、マキオさんってすごい人なのでは?)
――残念ながら異常性の規模を正確に把握できたとは言えなかったが。
「他にご質問がなければ、早速<記憶遡行>を開始したいと思いますが……」
「あ、ええと二つ……危険なことはないんですよね……?」
「危険がないことは保証します。言ってみればちょっと詳細に思い出を振り返っているだけですから。魔法による副作用もありません。……人によっては思い出したくない過去を見てしまってショックを受けることもあるのですが、今回は思い出す場面の選択をククルゥさんにお任せしますから、そういう心配もないはずですよ」
一つ目の質問に淀みなく答えるマキオ。安心したように微笑んでククルゥは首肯する。が、次の質問に移るには少し時間がかかった。
軽く組んだ指をモジモジと動かし、視線を泳がせている。そして忙しなく上下する両耳。これは羞恥を覚えたときのククルゥの癖だった。
しかし、ついに意を決したか、深呼吸を一つ挟んでククルゥは尋ねる。
「あのっ、お代はどのくらいかかりますかっ!?」
恥を忍んで聞くほどのことか? というのは野暮だ。実際、大変現実的な疑問である。正直なところ、ククルゥの持ち合わせは旅費としては少なくない。そもそもここに来たのは(格安という噂を信じてだが)魔導書を購入する為である。当然その為の資金もある程度用意してきた。
しかし、今から行なうことは完全に予定外。もしこれで魔導書が買えなくなってしまっては本末転倒というものだ。ここが魔導書屋さんである以上、魔導書とは即ち商品である。その商品をタダで使わせてくれるはずが――
「お代は要りませんよ」
あった。
そんなバカな。聞き間違いだろうか。いや確かにお代は要らないと聞こえた。
本日何度目かの混乱状態に突入するククルゥに、ゆっくりと言い含めるようにマキオは繰り返す。
「お代は、要りません」
「で、でもこの魔導書はお店の……」
「これは僕のお節介ですから。勝手にお節介を焼いてお金を頂くなんてできませんよ」
「い、いえ、そんなわけには」
なおも言い募ろうとするククルゥに助け舟を出したのは、当然のごとく黒猫であった。
「ククルゥ嬢ちゃんよ、気にするでない。マキオはこういう奴じゃ。ついでに言っとくがそうなった時の其奴は絶対に金を受け取らん。諦めることじゃな」
「ええー……」
カラカラと笑いながら言ってのけるクロと笑みを絶やさないマキオ。ククルゥの口からは知らずの内に声が漏れていた。
ククルゥとてわざわざ出費を増やしたい訳ではない。ないが、それでもこの待遇が初対面の小娘には過ぎたものであるということはハッキリと分かる。王都で同じ提案をされたなら間違いなく疑ってかかっただろうし、実際に親切を装ってサービスを提供した後に莫大な費用や無理難題を要求し、応じなければ契約不履行として奴隷に堕とすという手口が存在した。
もちろん、ことここに至ってはマキオやクロが悪意なく本心から提案してくれていることに疑いはない。しかし、いくら当人達がそれで良いと言っているからといって、甘えていいものだろうか?
困惑した表情で一人と一匹を交互に見るが、クロはうむうむと頷いて見せ、マキオに至っては既に魔導書を開いて待機している。
「……わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「では始めるとするかの!」
観念したようにククルゥが言うや、クロはそう高らかに宣言してマキオの元へ歩み寄ると、右前足の肉球を魔導書のページに押し付けた。同様にマキオが手のひらを押し当てると、一瞬だけ魔導書が淡く白い光を放つ。
まだ日が出ているとは言っても、夕刻に近い時間である。既に部屋の角には夕闇が侵食し始めていたが、今やその薄暗さも目の前の光景を幻想的に演出する為のものにさえ思えた。
ククルゥが目を奪われている間にも、マキオとクロはパラパラといくつかのページを飛ばしたり、時折ページを戻ったりして準備を進める。わざと魔法陣の順番を入れ替えたり、ダミーの魔法陣が仕込んであるのは、正しい手順を知らない者が魔法を発動できないようにする為の仕掛けだ。
魔導書にスタンプを押すようにそれぞれのページに触れること十三回。先ほどまでとは違い、本全体が淡い青色に発光していた。必要な全ての魔法陣が起動した証である。
「準備ができました」
マキオの声に、はっと我に返るククルゥ。完全に見とれていた。
「あ、あの……わたしは、どうすれば?」
「気を楽にしていてください。肩の力を抜いて、深呼吸を」
「は、はいっ」
素直に深呼吸を始めるククルゥの前に開かれた魔導書が置かれる。本からの光が少し眩しくて、ククルゥは思わず目を細めた。その狭まった視界に、ぬっと黒猫が割り込む。逆光で影のように見える中に、金色の眼が輝いていた。
「これから<記憶遡行>の魔法でククルゥさんの記憶を辿ります。よろしいですね?」
「は、はい」
「先ほどご説明したとおり、記憶を見るのは僕とクロ、そしてククルゥさんです。その際、ククルゥさんが見せたくない記憶は見せないようにすることが可能です。これも、よろしいですね?」
「大丈夫です」
静かに確認をとるマキオの声。隣に立ち、魔導書を覗き込むようにするその横顔は真剣そのもので、ここまでマキオの笑顔しか見ていなかったククルゥにはそれが新鮮に感じられた。
「それではこれより、魔法<記憶遡行>を発動します。同意していただける場合は魔導書に触れてください」
マキオの宣言に小さく頷いて、ククルゥは躊躇いなく右手を伸ばす。魔導書の前にはいつの間にかククルゥに背を向けていたクロが座っていて、その横を通り抜けた手が魔導書に触れると、光の色は青から緑へと変化した。
ククルゥに続いて、クロ、マキオの順で魔導書に前足と手を触れる。徐々に光が強くなっていく、と認識したところでククルゥの意識は途切れた。
「おっと」
バランスを崩して倒れかけたククルゥの体を、マキオが支えて椅子に座り直させる。
「やはり肘掛け椅子があった方が良いでしょうか?」
「さての。まあ、あって困るものでもなし、作ってみても良いかもしれん」
「そうですね。では今度作ってみましょうか」
「うむ。そろそろ儂らも行くぞ」
「はい」
一人と一匹がそう言葉を交わしてさらに魔力を籠めると、魔導書はますます輝きを増し、荒れ狂う光の奔流が立ち上る。
そうして一際強く光を放った後、黒猫印の魔導書屋さんには静寂が訪れた。
▼
暗闇の中に、ククルゥはいた。どこかぼんやりとしていて、今なにをしていたのかすぐには思い出せない――夜中にふと目を覚ましたときのような感覚があった。
ゆっくりと自分の状況を確かめる。
まずは姿勢。多分、座っている。体に異常は、ない。着衣の乱れも、ない。不思議なことに、暗闇の中でも自分自身のことはよく見えた。それ以外は何も見えない。
ひょっとしてこれは夢か何かだろうか? とククルゥが思い始めたとき、暗闇の中に金色が見えた気がした。
ほとんど無意識にその金色に手を伸ばそうとして――
「ん、なんじゃ嬢ちゃん。撫でたいのか? じゃがまずはするべきことをせねばの」
その手を止める。聞き覚えのある声がした。
声の印象は妙齢の女性といったところなのに、妙に年寄りじみた話し方。
「お待たせしました」
続けて聞こえた男性の声にも、聞き覚えがあった。
いつも笑顔の――誰だっただろうか。
「マキオよ、ククルゥ嬢ちゃんは寝ぼけておるようじゃぞ」
「<記憶遡行>は初めてでしょうからね。仕方ないと思いますよ」
「そうじゃな。ま、起こしてやるとするかの」
「お願いします」
そんな誰かと誰かの会話の後、ククルゥの左肩に重みが加わった。かと思えば左頬にぷにゅっとした感触が――
「あれ、クロさん?」
唐突に、そして急速に、意識がハッキリとしてきた。左を見ればクロが肩に乗り、ねこぱんち(にくきゅうばーじょん)を繰り出していて、正面にはマキオが立っている。
(そうだ、<記憶遡行>の魔法で……)
ようやく状況が掴めたククルゥはキョロキョロと辺りを見渡す。先ほどまで真っ暗闇だったはずの場所には、大小様々な無数のガラス片のようなものが浮かんでいた。
「うむ、起きたようじゃな」
「ありがとうございます、クロ」
魔導書屋さんの一人と一匹は満足げに頷き合う。
「起きた……って、わたし、寝ちゃってたんですか?」
そう尋ねるククルゥに、黒猫はいたずらっぽく笑ってみせた。
「そうじゃな、ある意味眠っておる。ここはククルゥ嬢ちゃんの夢の中みたいなもんじゃ」
「夢……」
「儂らは『記憶の回廊』と呼んでおるがの」
話しつつ、クロはククルゥの左肩から飛び降りて、なにもない空中を歩き出す。現実離れしたその光景を見てククルゥは深く納得する。
「周りに浮いているのがククルゥさんの記憶です」
「これが……」
「普段は忘れてしまっているような記憶もありますから、自分で思うより沢山あるでしょう?」
マキオの補足に、改めて周りを見渡す。キラキラと光るガラス片のような一枚一枚が、全て記憶。一体いくつあるのか分からないほど大量のそれを見て、星空みたいだな、とククルゥは思った。
ウソ予告:次回、温泉回。




