第4話 記憶遡行②
温泉回は嘘だといったな。あれは嘘だ。
少しの間、周囲で煌めくガラス片に見惚れていたククルゥだったが、マキオもクロも急かすでもなくそれを見守っていた。もっとも、クロは気ままに空中を歩き回っていたので見守っていたのは実質マキオ一人とも言えたが。
やがて十分に景色を堪能したのか、思い出したように振り返ってククルゥが尋ねる。
「マキオさん、記憶遡行って具体的にはどうすれば?」
マキオは常と同じ微笑みを浮かべて答えた。
「簡単ですよ。思い出したい記憶、あるいはそれに関係しそうなことを思い出すだけです」
「え、そんな簡単なことでいいんですか?」
なんとも単純な方法であったことに小さく首を傾げるククルゥ。てっきり魔導書の起動と同じように複雑な手順があるのだと思っていただけに、少々意外だった。
「正確には思い出す必要もないがの」
空中散歩を終えて、マキオの肩に着地しつつクロが説明役を代わる。
教師が教鞭をとるかのようにピンとしっぽを立て、金の双眸でククルゥを見つめて言う。
「そもそもこの空間――『記憶の回廊』では、元々全ての記憶を思い出しているようなものじゃ。周りに浮かんどるあれがククルゥ嬢ちゃんの記憶の欠片、というのは既に話したじゃろう?」
「はい」
「今の状態はの、記憶という本棚にある本という本を全て引き出して、ページごとにバラバラにしてぶちまけた中に埋もれているようなものなんじゃよ。記憶というものは消えてなくなることはそうない。忘れている記憶というのは本棚の奥にしまったきりにしておるだけなんじゃ」
周囲の煌めきを見回して少し眩しそうに目を細め、クロは言葉を続ける。
「つまり、今この場に限ってはそれこそ生まれた瞬間の記憶さえ思い出せるということじゃ」
まあ生まれた瞬間の記憶は音と感触くらいしか残っとらんがの、と人間なら肩をすくめていそうな調子で付け加えたクロは、一旦言葉を切ると何事か思案するように視線をさまよわせ、小さく耳を動かした。
「時にククルゥ嬢ちゃん」
「あ、はい」
何か気になることでもあったのだろうか、と声をかけようとした瞬間に機先を制されて、ククルゥはやや間の抜けた返事をしてしまうが、クロはそんなククルゥを気にした様子もなく続けて尋ねる。
「冒険者の仕事で、楽しかったことはあったかの?」
「楽しかったこと、ですか?」
唐突な質問の意図を掴みかね、ククルゥが怪訝な顔をした次の瞬間、目の前には小さな輝きが現れていた。無数にあったガラス片の内の一つが、音もなくクロとククルゥの間に移動していたのだ。
「っ!? ……これは?」
「驚かせてすまんの。記憶遡行のお試しじゃよ。あれこれ説明するよりも実演した方が早いじゃろう?」
息を呑むククルゥを見て、いたずらを成功させた子供のようにカラカラと笑うクロ。年寄りじみた話し方をする割に内面は案外若々しいのだろうか。
そんなことを考えながら、ククルゥは目の前にやってきたガラス片――記憶の欠片を眺める。規則的に大きくなったり小さくなったりしながらキラキラと白い輝きを放つそれは、近くで見てもきれいなものだった。しかし、これをどうすればいいのか。
思わずクロに視線を送る。
「クロさん……」
「そう不安そうな顔をせんでも、ちゃんと教えてやるでの」
そう言って、クロは再び真面目な顔を――猫の表情なので多分、だが――作って話し始めた。
「まず、先の説明で今の状態が本をバラバラにしたようなものと言ったじゃろ?」
「はい、記憶の本棚から出した本を、というお話ですよね」
「うむうむ。ククルゥ嬢ちゃんは物覚えがいいの」
誰かさんとは違って、とでも言いたげな目でちら、と自らが座る肩の主をみやるクロだったが、それに気付いたマキオが何か言う前にすぐに視線を戻して説明を続ける。
「そんな状態の中から読みたいページを探すのは大変じゃろ?」
「……そうですね、やったことはありませんが、もしそんなことをしたら、多分」
想像でしかないが、途方も無い苦労であることは間違いないと確信できた。仮に、自分で探すとなればどうだろうか。一つ一つの記憶を読んでは戻し、読んでは戻し、という作業が必須。
そもそもこの記憶の回廊はどのくらい広いのだろうか。どこまで広がっているか分からない場所で、幾つあるかも分からない記憶のカケラを探し回る。それは最早、遭難と言えるのではないだろうか。
更にそれが生まれてからの記憶全てとくれば、何年かかるか分かったものではない。
そんな依頼があったとして、少なくとも自分は絶対にやりたくないな、とククルゥは冒険者らしい発想をする。
「じゃが、そこは『記憶遡行』という魔法の便利なところでの。この欠片達はククルゥ嬢ちゃんの意識や記憶と直結しておるんじゃ。あー……簡単に言うと、ククルゥ嬢ちゃんが無意識に連想する記憶が自動的に近くにやってくる」
「自動的に」
魔法ってすごい。改めてそう思った。
「じゃあ、この眼の前にあるのは」
「うむ。ククルゥ嬢ちゃんが冒険者をしとって楽しいと思った記憶じゃな」
鷹揚に頷いたクロの答えを聞いて、ククルゥは目の前の欠片に俄然興味が湧いてきた。
楽しいこと、と言われてパッと思い浮かぶことはいくつかある。だがその記憶はあくまで「楽しかった」という印象でしかない。詳細な記憶というのは案外なくして――否、忘れてしまうものなのだ。
それが今、目の前にある。
「どうすれば思い出せるんですか?」
「その欠片に触るだけでよいぞ」
「わかりました!」
聞くが早いか、ククルゥは眼前の記憶の欠片に手を伸ばし、触れる寸前で少し躊躇ってからつつくようにそっと指で触れた。
硬質な見た目とは裏腹に手応えはなかったが、触れた箇所から波紋が広がると欠片全体が強く光りだす。
「きゃっ!?」
咄嗟に腕で顔を庇うククルゥだったが、衝撃や痛みはなく、光自体もすぐに収まった。
きつく瞑っていた目をそっと開けて、どうなったのだろうかと周りを見渡す。
「……霧?」
ククルゥの周りは白くぼやけていた。確かに視界の悪さは深い霧の中を思わせたが、しかしククルゥは気付く。霧が出ているにしては寒さを感じない。むしろほんのりと温かい気さえする。
(どこかでこんな光景を見たような……)
考えている間にも、五感は周囲の情報を拾ってくる。ククルゥ自慢の耳にはバシャバシャという水音が聞こえていた。
「水音……それに、この臭い……」
鼻を突く刺激臭は確か――そう、腐卵臭と言うのだと教えてもらった。そんな臭いのする場所は、ククルゥの覚えている限り一箇所しか行ったことがない。
「ここ……もしかして……?」
呟くと同時、横合いからの風が周りの白を連れ去っていった。
▼
「む……!? これはイカン!!」
状況を認識してからのクロの行動は素早かった。
最短、最速、最小の動きで目標を捉え、決して離さない。しかし、いかにクロが素早くとも、光より速く動けるわけではない。
僅かに遅かったかと自問するが、その答えはクロの前足の内から帰ってきた。
「クロ、突然どうしました?」
声を上げるのは黒髪の青年、マキオである。クロが襲いかかったのは、黒猫印の魔導書屋店主ことマキオだった。突然の出来事に困惑しているらしいことに安堵する。だが、質問に答えるのは後回しだ。今はそれより先にやらなくてはならないことがある。
「動くなマキオ。動けば儂はお主の目玉を抉り取らねばならぬ。儂にそんなことをさせてくれるなよ」
威圧する低い声。常になく厳しい口調と、その前足に込められた確かな力は、それが脅しではないことを何よりも雄弁に語っていた。
それだけで通じるものがあったのだろう。マキオは抵抗する素振りも見せずに従った。
「ククルゥ嬢ちゃん、今すぐ戻るのじゃ。何故かは言わずとも分かるな?」
マキオの目を押さえている前足を絶対に外さぬよう注意しながら、そうククルゥに言う。
ククルゥは今、記憶の欠片の中にいる。記憶遡行をする際、記憶の持ち主はそれを追体験する形で思い出すからだ。術者はその記憶の欠片が再生する記憶を外から見ることができる。
そして今、ククルゥが思い出している記憶とは。
▼
ざあっという音は葉擦れの音だろうか。風によって湯気が払われたことで遠景まで見通せるようになる。右手には青々とした山が、正面には大小様々な宿が建ち並ぶ街が見えていた。
「わあ……やっぱり! ガザーナ温泉!」
冒険者になって初めて受けた護衛クエストで、わたしはここ、ガザーナの街へとやって来た。
そしてガザーナ観光の名所にして目玉こそ温泉である、と力説する先輩冒険者に連れられて、人生で初めての温泉を体験したわたしは、一度でその魅力に取り憑かれた。
冒険者生活において、お風呂に入る機会は貴重である。依頼内容によっては数日から数週間を野外で活動し続けることも珍しくない。当然、確保した水はまず飲み水に、薪も水の煮沸や調理、夜警用に使うものが最優先だ。お風呂を沸かすとなれば必要な水や薪、労力は桁違いに増えてしまう為、最低限の水浴びや清拭で済ませるのが一般的なのである。
だから、街へ帰還した時に入るお風呂がわたしは大好きだ。大量の水と薪を消費する入浴施設は、都会においてはそれなりにお金がかかる場所だったが、たまの贅沢と思えばそれさえも幸福のスパイスだ。
そこへ来て、温泉である。
話には聞いていた。なんでも地面からお湯が湧く場所があり、そこにはほぼ無限にお湯が使える公衆浴場があると。
冒険者になりたての頃、その話をしてくれた先輩に「なんですかそれ天国ですか」と言ったら大笑いしながら「いつか行ってみろ」と言われたのもいい思い出だ。
特にお気に入りになったのは露天風呂だった。衝立に囲まれているとはいえ広い屋外ということもあり、最初こそ少々気恥ずかしい気もしたが、よく考えればクエスト中の水浴びだって野外だ。一度開き直ってしまえば、あとはもうその開放感も楽しめた。遠目に見える山々や町並み、流れていく雲や沈んでいく夕日、夜を迎えて輝く満天の星空も、全てがたまらなく美しかった。
ああ、思えばこの時、冒険者になって初めて楽しいと感じたのかもしれない。
そうだ、この後わたしは温泉に浸かってのんびりとした時間を――
「ククルゥ嬢ちゃん、今すぐ戻るのじゃ。何故かは言わずとも分かるな?」
突如として、凛としつつもどこか切迫したような女性の声が聞こえた。
「え? クロさん……?」
キョロキョロと周りを見渡すが、黒猫の姿はない。不思議に思って首を傾げていると、声が続いた。
「手短に言うぞ。今、儂らは記憶の回廊からククルゥ嬢ちゃんの様子を見ておる。嬢ちゃんの今の姿も当然見えておるということじゃ」
焦っているのか、かなり早口だったせいで理解するのに時間がかかったが、なんとか内容を反芻する。
わたしを、見ている。今の姿も。――今の姿も?
整理しよう。ここは何処か。ガザーナ温泉だ。今わたしは何をしているか。温泉に入ろうとしている。
……おかしい。まだお風呂に浸かってもいないのに汗が流れ出した気がする。わたしは、改めて「今の姿」を確認するべく、視線を下げた。何故だろう、なんだか首の動きがぎこちない。
目に映るのはもちろん生まれたままの姿だ。浴場という同性しかいない場であり、特に隠すようなこともしていない。ここが過去だからか、現在よりもやや発育が不足してはいるが、それでも体の端々に女性らしい曲線がつき始めている。
それを、見ている。誰が見ていると言ったか。儂ら、というからには当然、クロさんが。そして――
「あ、あ……」
じわじわと現状を把握するのに比例して、顔に熱が集まっていくのを感じる。
遅ればせながら完全に理解したわたしは、反射的に肩を抱いて体を隠しつつしゃがみ込んで叫んだ。
「見ないでくださいっ!!!!!!」
その絶叫がこだまとなって響き渡り、わたしは再び白い光に包まれた。
▼
記憶の回廊にて、ククルゥはマキオに背を向け、膝を抱えて座り込んでいた。両耳はバサバサと音がするほどに激しく動き、その顔はまさに茹でダコの如し。湯に浸かってすらいないのに。
傍らにはクロが寄り添って宥めていた。
「本当にすまぬ。事故じゃった。練習がてら楽しい記憶で緊張をほぐそうと思ったのじゃ……」
「うぅ……みられた……ぜんぶみられた……」
「大丈夫じゃ、嬢ちゃん。マキオが見る前にちゃんと儂が目隠しをしておる」
「ほんとうですか? みられてませんか?」
「本当じゃ、見られてはおらん……たぶん」
「たぶんってなんですかあああ!!!」
大荒れである。
当然だ。クロいわく過去には干渉できないという。「気付いてすぐ隠しましたし大丈夫ですよね!?」という切実な、祈りにも似た問いへの答えがそれだった。
記憶遡行によって過去を見ているとき、記憶の持ち主は意識だけが過去に飛んでいる。過去の夢を見ていると言い換えてもいい。ある程度周囲を俯瞰的に見たり、『現在』の自分として思考したりといったことはできるが、それらは全て意識上のことであり、過去に起きた事実にはなんら影響を与えない。
だから体の動きがぎこちなく感じたんだー、と現実逃避をしてみても、ククルゥの心は穏やかではいられない。
それが事実なら、自分の体を見下ろしたり、体を隠そうとしてしゃがんだ、というのはあくまで意識として行なっていただけであり、つまりは初めての温泉でテンションが上って子供のように――当時はまだ子供と言ってもいい年齢だったが――体を隠すことも忘れてはしゃいでいた自分がそこにはいたということで。結局全部見られた(かもしれない)ことに変わりはないわけで。
冒険者とはいえ年頃の少女。異性に裸体を見られて平気な顔をしていられるほど子供でもなければ、事故だと割り切れるほど大人でもなかった。
なお、ククルゥの行為が全くの無駄だったかといえば、それは否である。見られたくない、という意識を持ったことによって記憶の再生を中止するという魔法的操作には大いに貢献した。
「あの……大丈夫ですよ、本当に何も見ていませんから」
「マキオは黙っとれ」
「マキオさんは黙っててください」
見かねたマキオは正直に申告するが、振り返った女性組の刺すような視線と共に行われたのは、声を揃えての門前払い。ククルゥは敬語こそ抜けていないが、むしろそれが威圧感を強めている。羞恥に傷ついた乙女心は、ガラス細工よりも繊細で、手負いの獣よりも凶暴だった。
被害者たるククルゥだけならいざしらず、結果的にとはいえ原因を作ったクロにまで叱られたことに釈然としないものを感じながらも、マキオは口をつぐむ。沈黙は金とはよく言ったものだ。
その後、数十分間にわたって続いたクロによる懸命の慰めと説得が功を奏し、ククルゥはなんとか落ち着きを取り戻すことに成功した。
「取り乱してしまってすみませんでした……」
まだ若干の赤みが残る顔で、それでもククルゥはマキオに向き直り、頭を下げた。
「どうかお気になさらず。こちらこそ申し訳ありませんでした」
「儂からも、改めて謝罪する。本当にすまんかった」
それ以上、マキオから言えることは何もない。具体的な話をしない方が物事が円滑に進む場合というのも存在するのだ。
クロはクロで、深々と頭を下げた。マキオの故郷に伝わる伝統的謝罪姿勢『ドゲザ』である。残念ながら猫の身では『ごめん寝』をしているようにしか見えなかったが、気持ちは伝わったはずだ。
うっかりクロべぇの温泉ピーピング事件(事故)はここに終幕した。
「コホン。さて、予定とは少々違ったが、見られたくない場面をククルゥ嬢ちゃんの意思で見せないようにすることができるのは分かってもらえたじゃろう」
「……そうですね、とってもよく分かりました」
わざとらしい咳払いを挟んでクロが言えば、ククルゥも話を進める方向で流れに乗る。言葉と目線にまだ少し棘があるのはご愛嬌というものだ。
「んん! では練習も済んだことじゃし、ククルゥ嬢ちゃんが魔法にこだわるようになった大本を探るとしようかの!」
ことさらに軽快な調子で前足を突き出すクロであった。
「では、始めましょうか」
マキオがククルゥの前に進み出る。トラブルの直後だというのに、少なくとも表面上は微塵も動揺が見られない。これが大人の対応というやつだろうか。
「根本的なところから探っていきましょう。ククルゥさん、貴女が初めて魔法というものを知ったのはいつでしたか?」
促すように手のひらを上に向けて右手を差し出すマキオ。問われたククルゥは遠い記憶を思い出すように僅かに視線をさまよわせたが、<記憶遡行>は本人が思い出すよりも早く、正しくその答えを示す。
差し出された手のひらの上には、白く輝く一欠片の記憶が浮かんでいた。
ウソ予告:ククルゥ、記憶遡行失敗で記憶喪失に
2021/01/18追記:『事故』のあとにちょっとだけ「記憶の中でククルゥが動いていた」ことについての説明を追加しました。大筋に変化はありません。




