第39話 外戚の要求、魔王妃の怒り
マハトラの説明は続いた。
「婚姻を条件に十分な見返りを受け取っておきながら……
今や子まで生まれ、その子がウムカウテに至った。
ならば、さらに差し出せ――そういうことでしょう。
純血のヴァンパイアを嫁がせたことを、あちらは途方もない譲歩だと思っているのです。
結局のところ、彼らは協議の末に
“まだ取り立てられる”
そう結論づけたに違いありません。
本気で祝うつもりがあったのなら、エリン様がお生まれになった時点で使節を寄越していたはずです。
今になって来るということは、内部で“どれだけ引き出せるか”の議論が、ようやくまとまったということでしょう。
あるいは外戚として、魔王陛下の権力の一部を求めてくるかもしれません。
まったく、強欲にもほどがあります。
……もちろん、魔王妃様を悪く申し上げているわけではありません」
「分かった。もう黙れ」
私は考え込んだ。
マハトラはヴァンパイア一族に対して、あまり良い感情を持っていない。
だから多少の誇張はあるかもしれない。
けれど、使節団の来訪理由が
“エリンを産んだことに対する追加の見返り要求”
だという話は、恐らく本当なのだろう。
魔王と私の結婚にまつわる話。
伝統の方式を終え、彼の腕の中に抱かれていた時、少しだけ聞いたことがあった。
あの時は「そういうものか」と流してしまったけれど、
今思えば、かなり険しい道のりだったのだろう。
詳しい内容までは聞かされなかった。
だが、ヴァンパイア一族が相当に無茶な要求をしていたのは間違いない。
「お前の懸念はよく分かった」
マハトラの情報提供は有益だった。
私の目つきを見たマハトラは、
少し身をかがめ、腕を前へ差し出した。
――どうぞ魔王様の執務室へ。
そう促す仕草だった。
私は唇を引き結んだまま、
エリンと共に廊下を進んだ。
外戚だからといって好き勝手をするつもりなら、
黙って見過ごす気はなかった。
ヴァンパイア一族としてのエステルは、もういない。
今の私は、
魔王妃としてのエステルなのだから。
私とエリンが到着すると、
魔王の執務室前にいた魔族が、素早く中へ取り次いだ。
扉が開く。
するとそこには、
山のような書類に埋もれている魔王の姿があった。
……ギルガオンは?
あいつがいれば、仕事も多少は分担できるはずなのに。
どこで油を売って――
「ギルガオンは今、出張中だ。
しばらく魔族式カレーを食べられぬことを、ずいぶん惜しんでいたぞ」
まるで私の考えを読んだかのように、魔王が言った。
ギルガオンは命を受け、今は不在。
ならば仕方がない。
魔王の代理として、
アトランティス島の各地を飛び回っているのだ。
「パパ」
その時、エリンが魔王に近づいた。
父の職場へやって来た息子らしい仕草。
魔王は一瞬だけたじろいだが、
すぐに手を伸ばし、エリンを抱き上げた。
以前、空の海で心を開いたことが大きかったのだろう。
本来なら、決して見せなかったはずの姿。
でも、私が間に入ったからこそ、ここまで変われた。
「午後は何をして過ごしていた?」
「魔導書を読んでました。面白いです」
「厨房での件はすでに報告を受けている。
お前には魔術師の才があるようだな。
お前の祖父もまた、優れた魔術師だった」
へえ。
見た目はどう見ても剣を振るう戦士なのに……
魔王の父は違ったのね。
でも、厨房での件?
私が眠っている間に何かあったの?
説明して、魔王。
私がじっと見つめると、彼は話してくれた。
「エリンが厨房で起こりかけた事故を止めたらしい」
「ええっ?」
火力調整をしていた者が誤って制御具を落としたが、
エリンが素早く対処し、大事には至らなかったという。
危なかったんじゃないの?
私は腰を屈め、エリンに注意した。
「エリン、よくやったわ。
でも、あなたがそこに行くと、厨房のみんなはあなたが怪我をしないか気になって、仕事に集中できなくなるの。
厨房は火を使う場所だから、危険がつきものよ。
必要なものがあるなら、乳母かガーディアンを向かわせなさい」
前に行った時は、私が一緒だった。
つまり保護者同伴。
午後も乳母たちがついていたとはいえ、
厳密には保護者とは言い難い。
「はい。分かりました」
エリンはすぐに頷いた。
危ないから行くな。
厨房立ち入り禁止。
そんな頭ごなしの言い方をする必要はない。
まず、よくやったことは褒める。
その上で、なぜ控えるべきかを伝える方がいい。
私の言葉が終わると、
魔王はエリンに再び問いかけた。
「すでに魔力の制御ができると聞いたが、どの程度だ?」
私は魔王をじっと見た。
厨房での報告――
それを確かめたかったのだろうか。
優秀な長男への純粋な興味?
するとエリンは掌を開いた。
ざあああっ。
淡い青の気配が立ち上り始める。
(あれ……これ)
ゲームで“エリンではないか”と推測されていた魔族が使っていた必殺技だ。
あの気配が立ち昇った後、球状に凝縮される。
それが出たら、とにかく必死に避けなければならなかった。
一撃でも食らえば、HPが半分以上吹き飛ぶ。
(ここでこれを見ると……なんだか妙な気分ね……)
やがてそれは小さな粒となり、
空中へ溶けるように消えていった。
まだ完全な形では維持できないのだ。
「このくらいです」
エリンがにこっと笑う。
胸がきゅっとなった。
我が子だけど、可愛すぎる。
また城の廊下を手を繋いで歩き回りたくなる。
魔王城・廊下お散歩ルートを考えた方がいいかもしれない。
「驚いたな。
お前の祖父は、歴代魔王の中でも随一の魔術師と言われていたが……
お前は、それ以上かもしれん」
息子が優秀だというのは、いつだって嬉しいことだ。
私はすでにエリンが並外れた魔術師だと知っていた。
それでも、魔王が心から喜んでいるのを見ると、私まで嬉しくなった。
その時、魔王がエリンに告げる。
「家庭教師がまもなく到着する。
到着したら、午前も午後も彼から教育を受けるように」
家庭教師?
私の耳がぴくりと動いた。
もう誰か決めていたの?
私には何も言ってなかったのに?
一瞬、マハトラの顔が浮かぶ。
あいつ……まさか私に黙って何かしたの?
魔王に取り入って、家庭教師を選ばせたとか。
エリンの教育。
たとえ魔王であっても、私を除外することはできない。
子どもの教育は、夫婦共同が原則なんだから。
「子らの教育を担う者たちがいるのだ」
「そうなんですか?」
どうやらマハトラが裏で手を回したわけではなかった。
この城には“教育担当”という役職が存在する。
教育者の家系、とでも言うべきか。
彼らは魔王家だけでなく、一族全体の教育を担っており、
私の知る学校のようなものもあった。
ただし、魔王の子どもたちは特別な立場にあるため、
教師を直接派遣するのだという。
「どんなことを教えるんですか?」
教育の内容も重要だ。
何を教えるかを知らなければならない。
「まだウムカウテだからな……
一族の歴史、文化、地理、風習といったところか」
それくらいなら問題ない。
基礎的な一般教養なら、私より彼らの方が適任だろう。
とはいえ、安心しきるわけにはいかない。
「家庭教師はいつ来るんですか?」
「君がそこまで家庭教師に関心を持つとは思わなかったな」
私がしつこく尋ねると、
魔王は不思議そうに私を見た。
恐らく、元のエステルなら
エリンの教育などまるで関心を示さなかったのだろう。
家庭教師に任せきりで、顧みなかったはずだ。
でも、私は違う。
問題になりそうなことには、
きちんと対処しなければならない。
「一週間後だ。到着したら知らせよう」
「ありがとう」
やりすぎな母親だと思われるかもしれない。
でも、この世界の教育が
果たして“まともな教育”なのかは分からない。
子どもが正しく育つためには、
親の役割と周囲の環境が半分以上を占める。
面倒でも、私が直接見極めなければ。
「それと。君の一族が、エリンのウムカウテを祝うために向かっていると聞いている。
久しぶりに一族の者たちと会えるのを楽しみにしているとよい」
話題は祝賀使節団へ移った。
だが私が何も言わないものだから、
魔王は怪訝そうな顔をした。
一族が来ると聞けば、
私が飛び跳ねて喜ぶとでも思ったのだろうか。
以前のエステルなら、そうだったのかもしれない。
でも私は違う。
私は身体をひねってエリンを見た。
「エリン。パパ、すごく疲れて見えない?」
するとエリンはすぐに答えた。
「はい! そう見えます!」
心配そうな声が混じっていた。
私の意図を、すぐに察したのだ。
――あなた、少し休むべきよ。
それが、魔王を見た瞬間に私が抱いた感想だった。
剣と槍を持つことだけが戦争ではない。
戦後の休戦状態でアトランティス島を統治・管理することも、
立派な“戦い”なのだ。
目に見えない戦争。
私とエリンがのんびり休んでいる間も、
魔王はその戦いを休みなく続けていた。
「祝賀使節団のことは、ママとパパで話し合ってください。
僕はもう行って、魔導書の続きを読みます」
気の利くエリンは、さっとその場を外してくれた。
魔術師属性だから頭が切れるのは分かっていたけれど、
本当に大したものだ。
やがて秘書官がエリンを連れて去っていく。
「あなた、何時間寝たんですか?」
エリンがいなくなると、
私は魔王の首に腕を回しながら尋ねた。
こうした方が、本当のことを言ってくれそうだったから。
「ふむ……それが……」
「まさか、昨日から一睡もしてないんですか?」
「それくらい、どうということはない」
昨夜から徹夜で働いていたのだ。
いくら頑健な魔王でも、
それが続けば無事では済まない。
「私にばかり、しっかり休めと言わないで。
あなたも休んでください。
そうでないと倒れてしまうかもしれません」
「この程度、何でもない」
「あなたは魔王です。
正しい判断を下す立場にあるんです。
無理をして判断を誤ったら困ります」
休息を取ることも、魔王の務め。
そう強調した。
「ヴァンパイア一族の件は、一度眠ってから話しましょう。
エリンと私にとって、とても大事な問題になるかもしれません。
だから、あなたが万全の精神状態の時に話したいんです」
「だが……」
「私が一緒にいます。
だから心配しないで、ちゃんと休んでください」
私は手を伸ばし、
彼の手と指を絡めた。
いつでも離れず、あなたと一緒にいる。
そういう意味だった。
彼は一人では眠ろうとしない。
だから、私が隣にいてあげなければ。
少し上へ行けば、私たちの寝室がある。
景色のいい部屋。
きちんと休んだ後で、
ヴァンパイア一族の使節団についてはベッドの上で話すことにした。
◆◆◆
夜明けは、冷たい風のように訪れる。
太陽はまだ地平線の下にある。
それでも、少しずつ昇りつつあるのが分かる。
うねるように差し込んでくる朝の光。
魔王の腕の中に抱かれたまま、
窓枠越しに朝日を眺めていたかった。
けれど、あの光がもう少し強くなれば、
前のように布団を頭からかぶることになるかもしれない。
その時、私の気配に気づいたのか、
魔王が目を覚ました。
私は彼の胸を指先でつつきながら、
いたずらっぽく囁く。
「そんなに疲れていたくせに、
それでも伝統の方式で私と夜を過ごす力は残っていたみたいですね」
こうしてベッドに寝転んだまま話すのも、
なんだか新鮮だった。
「それは……」
でも、私は彼の返事を待っていたわけではない。
そのまま彼の胸元へ顔をうずめる。
もっと近くで、彼の体温を感じながら一緒にいたかった。
答えを聞く代わりに私が抱きついたものだから、
魔王は少し驚いたようだった。
きっと以前のエステルなら、
絶対にしなかった行動なのだろう。
魔王城の屋上庭園――空の海で、
ひたすら故郷の方向ばかり眺めていた女だったのだから。
やっぱり、正門側へ視線を向けるようになってよかった。
彼女は、自分が政略結婚で売られてきたと思っていたのだろうか。
だから魔王を恨んでいたのだろうか。
でも、魔王は決してそんなつもりで
エステルを迎え入れたわけではなかった。
もしその事実を知らなかったのだとしたら、
彼女は本当に哀れな女だ。
変えられたはずの未来を、
変えないまま手放していたのだから。
今は私がその彼女となり、
エステルが踏み出せなかった一歩を代わりに進んでいる。
未来を、ひとつずつ変えている。
そして今、
新たに私が変えなければならない出来事が現れた。
「ヴァンパイア一族は、あなたに何を要求しているんですか?
祝賀使節団なんて名目だけ。
本当は何かを望んでいるんでしょう?」
執務室でいきなり尋ねていたら、
彼はきっと仕事口調の硬い声で、ちゃんと答えてくれなかっただろう。
これは魔王の仕事だ。
君が知る必要はない――そう言って。
でも今なら違った。
彼は、誤魔化さずに答えてくれる。
「えっ? 何ですって?
なんて白昼堂々たる追い剥ぎみたいな真似を……」
魔王の返答を聞いた私は、
一瞬で顔をしかめた。
祝賀なんて嘘っぱち。
このアトランティス島の通貨は“ゴールド”。
ゲーム内で設定されていた貨幣単位が、そのまま使われていた。
そして彼らは、使節団への返礼として
かなりの額のゴールドを要求していた。
要するに――
ゆすりたかりに来るのだ。
「追い剥ぎ?」
魔王が不思議そうに私を見る。
以前の私は、一族に強い愛着を持っていたのだろう。
だから空の海で故郷を眺め続けていた。
まさか、エステルもこの事実を知った上で……?
いや、それはない。そう思いたい。
とにかく今の私が絶対に許せないこと。
エリンを口実に金を要求するなんて。
それだけじゃない。
双子が生まれたら、今度は二倍取るつもりなの?
越えてはいけない線を越えた。
「誰かに何か吹き込まれたのか?」
私の表情が険しかったのだろう。
魔王が尋ねてきた。
「急に私を祝うと言い出したから、変だと思っただけです」
私は適当にごまかした。
マハトラから聞いたとは言わない。
わざわざここで彼の名を出す必要はない。
「どれくらい要求しているんです?」
「およそ三十万ゴールドだ。
厳密には“協力基金”という名目でな」
「三十万ゴールド?」
私はゲーム画面に表示されていたゴールド数を思い出す。
桁が違う。
いくら魔王でも、
気軽に出せる額ではない。
「今回要求してきた額は、これまでとは違って――」
「ちょっと待って。
これまでにもゴールドを要求してきてたんですか?」
私の問いに、魔王は慎重に答えた。
彼らは戦争で魔王が最も忙しい最中にも、
特使を送り込んでゴールドを受け取っていたという。
もちろん、私の名を使って。
(あいつら……!)
私の手が震えた。
マハトラは“強欲”と言っていた。
でもそんな言葉では足りない。
“追い剥ぎ”でもまだ生ぬるい。
なんて強盗どもなの!
吸血鬼がどうこう言う前に、
お前たちこそ血も涙もないじゃないの!
……いや、吸血鬼なのは間違いないけど。
それはさておき。
「落ち着きなさい」
私が怒ると、
魔王の方がむしろ私をなだめようとした。
こんなふうに私が怒るのを見るのは初めてなのだ。
「今すぐ三十万ゴールドを用意するのは難しいが、
不足分は領地の割譲で――」
私は指を伸ばし、
魔王の唇にそっと押し当てた。
少し黙っていて。
そういう意味だった。
領地の割譲?
誰の許可でそんなことを?
エリンの言う通りだった。
こういうのは私が前に出て処理しなければ。
私のことがあるせいで、
魔王はヴァンパイア一族に対してあまりに低姿勢だった。
「ふざけないで。
彼らには何一つ渡せないと、思い知らせてあげないと」
私の態度に、
魔王は心配そうな顔をした。
「君の一族との関係が悪化すれば困る。
あの者たちの政治的影響力も無視できぬ」
私は心配いらないという顔で言った。
「だから私が出るんです。
ヴァンパイア一族出身の私が相手をします。
だから彼らが到着したら、あなたは少し席を外して、相手をしないでください」
男が出にくい場面というものがある。
そんな時は女が前に出るべきだ。
そして今が、まさにそういう時だった。
「君が?」
同じ一族の相手を、本当にうまくさばけるのか。
そんな不安が彼の顔に浮かんでいた。
「大丈夫です。
今回の機会に、きっちり言っておかないと。
二度とこんな浅ましい真似ができないように」
私は魔王の胸に顔を埋めながら言った。
温かな体温が伝わってくる。
戦場では誰よりも勇敢で、
私には誰よりも優しい男。
そんな彼が、
ヴァンパイア一族にたかられていたのだ。
そう思うと、
金を渡さないだけでは足りない。
これまで巻き上げた額と、その利子。
それに加えて、私とエリンの名を勝手に使った代償。
きっちり払わせてやらないと気が済まなかった。




