第157話 案内どおりに進んだら、そこにスパイがいました
(びっくりしたわ)
私は、
少し前のことを思い返した。
エリンに会ったのだ。
角からひょいっと出てきたから、
私は知らないふりをして
見習い侍女のまま通り過ぎようとした。
でも、
エリンが私を見逃すはずがなかった。
「ママ?」
「こんなところで
何をしてるんですか?」
エリンが、
じっと私を見つめていた。
自然に、
顔認識阻害が解けた。
「指輪から
父上の魔力が漏れてますよ」
やっぱり、
エリンは鋭い。
「双子とポチは?」
「みんなで
遊んでるみたいです」
「外へ出たわけじゃなくて、
ちゃんと魔王城の中ですよ」
「そう?」
それなら、
とくに問題はなさそうだった。
エリンが、
もう一度たずねた。
「ここへは、
どうして来たんですか?」
「ああ、その……」
私は、
魔王城の視察をしているのだと
適当にごまかした。
エリンも、
そこまで不思議には思わなかったらしい。
たぶん、
ママの気配が急に消えたから
心配して探しに来たのだろう。
「こうして魔力が流れていれば、
ママがどこへ行ったかは
心配しなくてよさそうですね」
「うん。そうね」
もし私が
こんな細工もなしに姿を消していたら、
エリンはまた
ママがどこへ行ったのか分からなくて
泣いてしまったかもしれない。
私が見えないだけで
しくしくしていた
昔のエリンの姿が思い浮かんだ。
「父上には
言わなくていいんですか?」
ふふふ。
パパなら今、
私の後ろにいるのよ。
そう言ってあげたかったけれど、
今は魔王との秘密のデート中だ。
だから今回は、
ちゃんと秘密にしておくことにした。
「前もって言ってあることだから、
心配しなくて大丈夫よ」
思ったより、
エリンとずいぶん長く話し込んでしまった。
「では、
ごゆっくり見て回ってください」
エリンは、
手を振ってくれた。
これからまた、
自分の部屋へ戻るらしい。
エリンが背を向けると、
私と魔王は
また二人で話し始めた。
『ママが見えなくなったから、
探しに来たんだろうな』
「そんな感じですね」
「じゃあ、
また行きましょう」
夜学識字教室。
もう少し歩けば、
そこへ着くはずだった。
かなり奥まった場所にあるから、
こんな場所があること自体
知らない者もいそうだった。
(あとで
もっと場所が確保できたら、
もう少し行きやすい位置に
移したほうがよさそうね)
そう思った、
そのときだった。
「あら?」
夜学識字教室へ続く角に、
妙な目印が貼られていた。
今さっき手書きして
貼りつけたみたいな矢印だった。
しかも、
そこに書かれていた文がこれだ。
【魔王城に潜入したスパイを探すなら、
このまままっすぐ進んでください】
(何これ?)
魔王の声が、
耳元で低く響いた。
『来いと言ってるな』
『歩いてみるか』
私は、
ずんずん前へ進んだ。
今度は、
床に目印が貼ってあった。
【もう少し先です】
「おお」
なんだか、
宝箱探しみたいだった。
向こうを見ると、
床ごとに矢印が続いていた。
「ほら、
また矢印がありますよ」
『待て』
魔王が
何か言いかけたけれど、
私は先を急いだ。
今度は、
左へ曲がれという印だった。
【ここを曲がれば、
スパイのいる教室があります】
(え)
(本当に?)
その瞬間、
私の目の前に
システム通知みたいなメッセージが浮かんだ。
――上記の内容は事実です
「えっ」
私は手を振ってみた。
でも、
文字の間をそのまま通り抜けるだけだった。
つまり、
これは私にしか見えていない文だ。
(本当にスパイがいるってことね?)
私は急いで左へ曲がった。
すると、
教室の扉が見えた。
(この中に、
スパイが?)
そのまま扉に手をかけて
開けようとした瞬間、
魔王が私の手首をつかんだ。
『待て』
『先に私が開ける』
魔王が、
興奮した私を止めた。
◆◆◆
(これはいったい、
誰の悪ふざけだ?)
魔王は、
呆れていた。
スパイはここにいるから来い。
そんな紙が、
廊下のあちこちに貼られていたのだ。
こんなものを
そのまま信じてついていくわけにはいかない。
なのに妻は、
ついにスパイを見つけたとばかりに
はしゃいで駆けていった。
(まさか、
本気で信じているのか?)
魔王の口元に、
かすかな笑みが浮かんだ。
こういうところは、
本当に子どもみたいだ。
こんな張り紙に
そのまま乗せられるなんて。
いや、
もしかすると
自分の前で
わざと引っかかってみせているのかもしれない。
魔王は、
少しだけ様子を見ることにした。
だが、
扉を開けて
そのまま中へ入ろうとするのだけは
見過ごせなかった。
罠には見えない。
それでも、
慎重に越したことはない。
すっ。
魔王は気を張りながら、
扉を開いた。
先に中を確認する。
とくに、
危険なものは見当たらない。
そのときだった。
「あら」
「ほら、あそこ!」
妻が手を上げた。
教室の前の黒板。
そこに、
金髪の人間の侍女が
気を失ったまま
背を預けて座っていた。
「えっ」
「見てください!」
妻が、
驚いた声を上げた。
黒板には、
こんなことが書かれていた。
【この女がスパイです!】
魔王は、
状況を理解した。
(本当に、
悪質ないたずらだな)
(集団いじめにでも遭ったのか)
魔王城にスパイがいる。
そんな噂が広まった中で、
あの人間侍女が
普段からほかの侍女たちに
よく思われていなかったのだろう。
だから、
こんな真似をされたのだ。
(ギルガオンに、
侍女たちの間で起きている集団いじめを
調べさせる必要があるな)
それに、
こんなことをした者たちの
洗い出しと処罰も必要だ。
そのとき、
妻が気絶した侍女に近づいた。
ここへ来る途中、
ここの常勤講師についての話は聞いていた。
人間の侍女ソフィア。
妻が見習い侍女だったころ、
仲よく話すようになった侍女だという。
その縁があるから、
会いに来たのだろう。
(妻も、
誰がこんなことをしたのか
確かめたいんだろうな)
ところが。
「ソフィア」
「まさか、
スパイだったの?」
妻が、
おろおろし始めた。
(ん?)
(んん?)
魔王は、
思わず首をかしげた。
まさか今、
こんな悪ふざけみたいに書かれた言葉を
本気で信じているのか?
「ソフィアがスパイだなんて」
「でも、
いったいどうやったんでしょう?」
「どう見ても
人間にしか見えないのに」
妻が、
真剣な顔でたずねた。
「どう思います?」
妻からの相談。
魔王は、
何と答えたものか
少し困った。
「何か事情があるに決まってます」
「でなければ、
この子がスパイなんて危ないことを
するはずがありませんから」
(事情はあるんだろうな)
魔王は、
心の中でそう答えた。
集団いじめに関する事情が。
「目を覚ましたあと、
何をするか分からないので、
しばらく縛っておけませんか?」
「ソフィアの安全のためにも」
(そんな……)
さらり。
魔王は、
遮蔽を解いた。
力をきちんと使うには、
姿を見せたほうがいいと判断したのだ。
本当は、
そこまで必要なさそうだった。
だが、
こうしたほうが
妻が安心するのなら、
その通りにしてやろうと思った。
魔王の魔力が動く。
ソフィアの腕と腰のあたりに
黒い紐が現れ、
そのまま彼女の体を
しっかりと縛り上げた。
魔王軍で捕虜を扱うときに使う、
ごく基本的な拘束術だった。
これなら、
両手を自由には動かせない。
もちろん、
心のどこかでは
そもそもここまで必要か?
という気持ちはあった。
それでも、
こうしておけば
妻が安心しそうだった。
「ありがとうございます」
「じゃあ、
ひとまずソフィアを起こして、
どうしてスパイなんてしてたのか
聞いてみますね」
「好きに尋問するといい」
魔王は、
妻によるスパイ尋問が始まるのを待つことにした。
(誰かの悪ふざけを、
ずいぶん真面目に受け取っているな)
魔王は
向こうの椅子に腰を下ろし、
そのまま待機した。




