勇者《Ignorance》①
本作品の第一章部分は、想実堂TEAPOTノベルスより書籍化・販売中です。
※書籍版には挿絵、キャラクターイラスト、設定資料が含まれています。
※書籍版とこちらのWEB版では内容の一部に異なる部分がありますが、ストーリーに大きく関わる部分での変更はありませんので、同作品としてお楽しみ頂けます。
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朝霧が立ち籠める中、湿った丘の土を跳ね上げる一頭の馬蹄。伝令の手旗を掲げた早馬は緩やかな傾斜を息荒く駆け上がる。そして居並ぶ騎馬隊の影の横を、颯爽と走り抜けていく。
「伝令! 伝令!」
間もなく、カチャカチャと鎧や鞘を鳴らす隊列の先頭にまで辿り着いた兵士は、そこにいる一際大きな騎馬の前で止まると、開戦前の昂る空気に当てられて嘶く馬を「どうどう」と抑えながら下馬して、速やかに片膝を突いた。
「閣下、全軍準備整いました!」
「ご苦労」と頷き返した男は鉄鎧に身を包んだ巨躯の戦士。
ざんばらの黒髪と強い顎髭が、いかにも豪放な大丈夫を演出している。背にはその風体に見合った、並の兵士では両手でも振るうのに難儀しそうな、分厚い双曲刀。
「正念場だぞ、ユウ。準備は良いな?」
男は野太い声で、隣に並ぶ少年騎士にそう問い掛ける。
「大丈夫だよレグノイ。もう覚悟はできてる」
応えた少年は、銀髪と澄んだ翡翠色の瞳。金で縁取られた白磁のような鎧と、腰には見事な細工の銀の剣を佩いている。
精悍さとあどけなさが同居する顔で、少年は真っ直ぐ丘の先を見つめていた。手綱を握る彼の手が力むのを見て、巨躯の戦士レグノイがやんわりと諭すように言った。
「気負うな。ユウ、お前は勇者だ。そして勇者とは正しく最強であると知れ。もはやこの世でお前が勝てぬ相手など、どこにもおりはすまい。それがたとえ、どれほどの魔物の軍勢であろうとも、或いは彼の竜――災厄竜ガァラムギーナであろうともな」
その言葉に、勇者ユウは手綱を握る力を緩め、代わりにしっかりと力強く頷いてみせた。
「うん……僕達は負けない。負ける訳にはいかないんだ。この世界を救うために」
決意の表情を見せる少年の脳裏には、彼がこの世界に来た時の記憶、そしてそこから現在に至るまでの、長く険しい冒険の想い出が蘇っていた。
***
――4年前、東京。
土砂降りの雨、夜の繁華街に騒めく傘の群れ。アスファルトに敷かれた薄い水面が、街の色彩をゆるゆると反射する。その煌びやかな灰色の鏡を、鮮やかな赤い線が、波紋に行く手を阻まれながら静かに横断していく。
遠巻きの野次馬達が携帯のカメラや好奇の目を向ける先には、ガードレールに荒々しく車体を擦らせて静止したトラック。運転席には、虚ろな表情のまま固まり、雨が躍るフロントガラスから闇を見つめるドライバーの姿があった。
蛇行したタイヤ痕を辿れば、交差点の中央には一人の少年が無惨な姿で転がっている。赤い流線の源泉は彼の頭部に他ならなかった。
周囲には教科書やノート、飴細工の如くひしゃげた眼鏡――。散乱したそのどれもが、そして無論少年自身も、只々雨に打たれるばかりであった。
「事故ぉ⁉ うわーすげー‼」
「首折れてんじゃん。絶対死んでるっしょ」
「中学生? かわいそー」
はしゃぐ若者達とは裏腹に、事故のあった交差点は時が止まったかのような静寂を醸していた。
悲劇という名の非日常は、彼らにとっては過ぎ去る日々の一日であっても、しかし物言わぬ少年にとっては人生の終わり。そして始まりでもあった。
やがて現場に向かって、遠くから救急車のサイレンの音が雨音を縫いながら徐々に近付いてきていた。
――――。
――――――。
瞼を通して感じる、穏やかな光。
目を覚ました少年が最初に目にしたのは、騎士と姫が寄り添って星を眺めている絵であった。それが天井ではなく天蓋に描かれたものであると認識できたのは、彼の身を包む柔らかな布の感触が、ベッドのそれであると気付いたからである。
ベッドの周りは縁から垂れ下がる薄いレースの幕で囲まれており、その向こうに映る小さな影から、少女の声で鼻唄が聴こえる。
(ここは……? 何だこれ――?)
少年は自分の身体の至る所に、包帯が巻かれていることに気が付いた。
包帯の表面には見慣れぬ文字と丸い紋様が描かれており、それが薄っすらと柔らかい光を放っている。
(たしか僕、事故に遭ったはずじゃ? でもここ、病院じゃないよな?)
頭の中に白い靄が立ち込めているような、奇妙な感覚。同時に覚える身体の違和感を気にしつつも起き上がろうとすると、
「――痛っ!」
何気無く身体を動かしただけで、全身に鋭い痛みが走った。
するとその声に反応したのか、レースの向こうの鼻唄が止み、声が掛けられた。
「あら、気が付いたのね? でもまだ動かないほうがいいと思うわ」
するりと垂れ幕を抜けて姿を現したのは、淡い金色の髪をした可憐な少女。彼女は小さな銀製の吸い飲みを手に、少年に優しく微笑んだ。
「私が見つけた時は死んでしまっているかと思ったもの。ううん、王室魔法医がいなかったら多分、本当に死んでいたところだわ。あ、ところであなた、お名前は?」
「えっ⁈ ええっと……」
少年は混乱し、思わず口ごもった。
少なくとも目の前の少女が日本人であるとは思えない。手の込んだ彼女のドレスも私服には見えないし、西洋風のやたらと豪奢なこの部屋が、一体何処であるのかも分からない。
にも関わらず、少女の振る舞いは極めて自然で、彼女が話す日本語は母国語の如く流暢なのである。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、いえ! 大丈夫です全然。その、日本語がとてもお上手だったので……」
「? ニホン語って、なに?」
「え……?」と目を丸くする少年。
「私はトラエフ語しか話せないのだけど。頭を打ったか、混乱魔法にでも掛かってるのかしら? ――はいこれ、気を付けて飲んでね」
少女は小首を傾げながら、吸い飲みを少年に手渡す。
「あ、ありがとうございます……」
するとそこで、重厚な扉の向こうから男性の声とノックの音が響いた。
「フェメ様。レンゾです。失礼致します」
そう言いながら入ってきたのは、聖職者の法衣よろしく、くるぶしまである長い藤色のローブを纏った優男。洋紅色の長髪を一本に束ね、細い銀糸の紐を額に巻いたその姿は、少年が知る魔法使いそのものであった。
「勇者殿が目を醒ましたようですね」
男はベッドへ歩み寄ると、フェメと呼んだ少女にお辞儀をしてから少年へと目をやった。
「おはよう、勇者殿。あれほどの重傷だったというのに、随分早いお目覚めだ。流石は星霊イェルに遣わされた伝説の勇者だね」
「は? いや、僕は――」
「おっと失礼したね。僕の名はレンゾ・カイサラム・ラ・ロッシュ。このトラエフで宰相の任を仰せつかっている魔法使いさ」
「ま、魔法……使い? あの、勇者って?」
「? それは勿論、君のことさ。ああ隠さなくてもいいよ、その銀色の髪と翡翠の瞳を見れば子供にだって分かるから」
「ぎ、銀――⁉」
言われてユウは、思わず自分の頭に手をやった。無論それで髪の色が分かろうはずもなかったが、手に伝わる滑らかな髪の感触には、微かな違和感がある。
(何だこの感覚……。そういえばさっきから、自分の身体が何か別物のような――)
またそれだけでなく、己の視界が極めて明瞭であることにも気付く。
「あれ? そういえば眼鏡もしてないのに、くっきり視える」
ベッドの枠や天蓋の縁だけでなく、部屋のそこかしこの家具や調度品にはいちいち手の込んだ彫刻やら美しい絵柄が施されており、職人技であろうその細やかな意匠を、少年は裸眼のまま細部まで見て取ることができた。そしてその調度品の中にあった小さな置き鏡の中に、吸い飲みを手にしたまま困惑の表情を浮かべてこちらを見つめる、見知らぬ銀髪の少年を見つけた。
(これが――僕?)
そのままじっと鏡を眺めていると、レンゾが訝し気な顔で口を開いた。
「眼鏡が必要なのかい?」
「え? いや必要……ないみたいです」
「だろうね。目の悪い勇者なんて聞いたことがない」
彼はそう言って苦笑すると、
「それで、肝心な勇者殿の名前をお聞かせ願えるかな?」と問う。
「そうそう、私もまだ聞いていないわ」
フェメも横から身を乗り出して、円らな瞳を少年に向けた。
彼らの好奇と期待の眼差しを一身に受け、少年はたじろぎながら恐ず恐ずと応える。
「僕の名前は――」
*
「――ユウ、そろそろ出撃の時間だよ」
馬上で想い出に耽っていた勇者ユウの背中に、決戦前とは思えぬ明るい声が投げ掛けられた。
振り返った彼のすぐ後ろには、白馬に跨ったレンゾ。装飾帯に黒檀の杖を差した彼は、初めて出会った時と変わらぬ、いかにも魔法使い然とした姿である。
「君が感傷的になるのも解るよ、ユウ。長い旅路だったからね。でも冒険譚を語るのは後の吟遊詩人にでも任せるとして、僕らは今、目の前の目的を果たすことに集中しよう」
言いながら進み出たレンゾもまた、偉丈夫レグノイと同じようにユウと轡を並べる。そして更に快活な声を上げた。
「つまりちゃっちゃと敵を倒して、帰って皆で昼寝でもしようということさ!」
レンゾのお気楽な様子に失笑するユウ。彼のお陰で神妙な空気は払拭されたものの、些か気抜けするその内容をレグノイが横から軽くたしなめた。
「まったくお前という奴は。惰眠を貪ること以外にやることは無いのか」
「そりゃ勿論」
悪びれも無く言うレンゾに、レグノイは困り果てた表情で溜め息を吐く。
「やれやれ……。とは云えまあ、我々が戦いを離れて気兼ねなく寝られる世の中というのは、存外悪くもないのかもしれんな」
「そうそう解ってるじゃないか。流石は我が友レグノイだ」
ぱっと明るい笑顔を見せたレンゾは杖をおもむろに引き抜く。そしてその杖を前に翳すと、途端に真面目な顔つきに切り替わり、
「霧よ、晴れよ」と一言。
直後――彼を中心に光の魔法陣が拡がり、そこから巻き上がった旋風が、丘を包む霧を瞬く間に掻き消した。





