後編
橋となった道を渡りきり、少年はすぐ不審を覚えました。
この国は、果たしてここまで狭かったのだろうかと。
テブリの国も隣国も、その周りは「境」となる白い壁に覆われています。許しなく赴けば、どこへ行くかも定かでない、不可思議なさえぎりに。
あのお触れが出てから、もうだいぶご無沙汰していた隣国。それはかつて見渡す限りの土地と建物があったように記憶していました。
それがいまは、かろうじて誰かとすれ違えるかという道幅と、その両側を固める建物たちという、窮屈さを覚える作り。その建物たちの背後は、いずれもほどなくあのさえぎりが待ち受けて、入り込むことを許してくれないのです。
自分の記憶との違いをいぶかしく覚えながらも、少年はそのまま道をまっすぐ歩み出します。これから自分が向かおうとする場所は、この狭さであっても問題はないところなのですから。
はるか前から記憶に残る足元の道を、少年は堂々と進んでいきます。
ずっと道の両脇を固めていた、長方形の建物。それと同じ形をしたひとつが、やがて少年の前に立ちふさがります。
形こそ他と同じですが、そこが開く入り口の上には、少年の知る言葉でこう書かれていました。
「異なる世界」と。
テブリの国と隣国が持つ、数少ない娯楽で、かつては多くの人がこの建物へつどいました。
内部は大勢の人が座り、あるいは立つことのできる広間がまるまる設けられており、その奥には、文字通りにこことは違う世界の様子が映し出されるのです。
そこに映し出されるのは、テブリの国ではおよそ見られない景色でした。しかし、不思議と住人たちは、その景色に見覚えがあります。その世界のことも、誰に教えられるでもなく知っていました。
視点そのものは動きません。
腰をかけているような低い目線で、目の前に広く伸びていくのは「フローリング」の床。
木でできた板たちが合わさり、床を成しているのですがテブリの国には「木」がありません。
その視界の先で、ときどき「人」が行ったり来たりします。背の低い人、高い人。短い袖の人も、長い袖の人もいます。
およそテブリの国の人々の姿とは似ても似つきません。そもそも「服」というものが、自分たちにはないのです。
ごくまれに、彼らはこの視界の真ん前に腰を下ろし、手に持った袋を開けて、中のものをどんどん口へ入れていきます。「お菓子」です。
これもまた、テブリの国には縁がありません。概念は知っていても、経験した記憶がとんとないのです。
ないないづくしで、けれども知っている不思議な景色。それを見ることがこの「異なる世界」鑑賞であり、皆はときおり起こる変化を見るべく、足しげく通っていたのです。
往来が規制される前までは。
少年は今回、なかなか変化が起きない画面を辛抱強く見守っていました。
これまでずっと我慢し、やりたくもないぬいぐるみ役者をやり続けてきたのです。珍しい変化を見届けるまでは、頑として動かない心持ちでした。
ほどなく、その願いはかなえられます。
やがてフローリングに姿を見せたのは、年若い女の子。黄色いシャツと短いズボンを履いた彼女のことを、少年は前々から知っています。
この画面の向こうを行き来し、ときにお菓子を食べていた子です。
しかし、今回のその子はいずれでもなく、画面へ向かってずんずん近づいてきました。たちまち画面は彼女の身体で埋め尽くされ、ほぼ真っ暗になりますが、その彼女がめったに出さない声を響かせたのです。
「そろそろ、仕上げなくっちゃ」と。
とたん、広間全体が大きく揺れました。
唯一の観客として、腰を下ろしていたはずの少年は、思い切り「尻もちをつきます」。
彼の腰かけていた席から、急に支える力が消えたためです。振り返ると、座席の裏手にはファスナーがついていたのです。
あの、自分が演じた怪獣や、他の地面や建物役となっていた者たちのものと同じです。
強い揺れの中、座席が壁が天井が、次々とファスナーをあらわにして、中の人が逃げ出し、しぼんでいくのです。
目の前の画面も暗くなったまま、少年はわけもわからぬまま、ほんのわずか前まで広間があった空間に、ぽつんと座り込んでいたのです。
「至急、おかえりください。至急、おかえりください」
響き渡る無機質な声とともに、揺れが若干おさまります。
なんとか立ち上がった少年は、帰還をうながす声の理由をすぐに悟りました。
あの白いさえぎりです。
先ほどまで周囲の建物の輪郭をしっかり浮かばせていたのが、いまやその角をはじめとした部分を取り込み、狭まり始めていたのでした。
少年は自分の覚えた違和感が、正しかったことを知ります。隣国の白いさえぎりは、自分たちがご無沙汰している間に、どんどん広がっていたのです。
そして今まさに、この隣国はさえぎりに挟まれて、すべてが沈もうとしていたのでした。
少年が駆け出す途中も、しばしば足を取られました。
無理もありません。自分たちが演じるときと同じように、道のあちらこちらからファスナーが口を開くうえに、それによって中のものたちがまろび出て、いささかも落ち着かないのですから。
顔も体も、あの「異なる世界」に出てくる人とそっくりですが、その肌には何も身に着けていません。しかしそこに、身体的な特徴がみられるわけではありません。
白いさえぎりより、かすかに灰色ににごる四肢があるのみです。少年もまた、彼らと大差ない姿をしていました。
周囲の建物にもファスナーが出てくるものもありますが、かならずしも開ききりはしません。
それより早く狭まってきた、さえぎりによって閉ざされ、隠されて、もう影も見えなくなってしまうのです。おそらく、もはや彼らが現れることはないでしょう。
少年がテブリの国とをつなぐ橋まで戻ってきたときにはもう、そこをまっすぐ渡るしかできないほどに、隣国の空間は閉ざされようとしていました。
テブリの国へ入った少年ですが、息をつけたのはほんのわずかな間だけ。
ふと周囲を見回すと、視界の果ての地平線近くから、どんどんと建物の頭が白く隠されていくのが分かったのです。
白いさえぎりは、ついにこちらにもその間隔を狭めに来たのでした。
「駄目だ、駄目だ! いまのところ、もう一度やり直し!」
どこからか監督者の檄が飛んできます。
彼らはこの事態においてもまだ、演劇を続けていたのです。自分たちも、他のすべてもまた、白いさえぎりに覆われ尽くして、どこへ行くかも分からないのに。
少年は駆け戻ります。
かつて自分が怪獣を演じていた場へ。そこにはメガホンを構え、自分にOKを出した監督が変わらずに立っていました。
その前で、自分とは異なる怪獣の演者が暴れているのです。
「駄目だ! 動きに重さが足りん! 重量のある怪獣が、そうも軽々とした仕草を見せるか。一瞬たりともだ」
――バカ! そんなこと言ってる場合かよ。
少年は監督に食い掛りますが、監督は最初は取り合わず、手直しされていく怪獣の演技ばかりを見やっていました。
しかも、少年が白いさえぎりの接近を伝えようとすると、決まって監督は声をあらげて耳に入れようとしないのです。
――やっぱり。これ聞こえていて、聞こえていないフリをしているな。
「だから。このままじゃ、あの白い霧がここへやってくるんだって! 早く逃げないと……」
少年は監督の胸倉へつかみかかって、無理にでも話を聞いてもらおうと迫ります。
その手が、「じいい」と音を立てて、何かを引っ張りました。
見ると、監督の胸にはファスナーがついていたのです。そこがわずかに降り、中からかすかにのぞくのは、少年と大差ない白い肌でした。
監督さえも「ぬいぐるみ」だった。その事実を悟り、少年がたじろぐと同時に「監督」はメガホンを下げ、ファスナーを上げなおします。
「――分かっているんだよ。そんなことは。我々はみな、じきに消えるのだ。あの中へ」
先ほどまで檄を飛ばしていた元気はどこへやら。おごそかな声で監督は告げます。
「そのことが分かっているからこそ、国はこの奇妙な令を出したのだ。ぬいぐるみ役者となって演技をしていく道を」
「わけがわからない。そんなことより、どこかよそへ逃げればいいのに……」
「よそ? 聞くが、君は『よそ』を知っているのか? あの『異なる世界』を有し、いまや消えてしまった隣国。あそこ以外のよそを?」
少年は言葉に詰まってしまいます。
あそこ以外を知らない自分を知ったからです。これまで白いさえぎりが、境以外に見当たらないほど遠くにあり、自分はどこか遠くを期待していたのです。
「ないのだよ、ここには。このテブリの国は生まれた時からもう、消えることが決まっていたのだ。それはあの『異なる世界』の少女の意志なのだから」
「あの女の子の……?」
ざわりと、遠くで誰かの騒ぎが聞こえました。
見ると、もはやあの白いさえぎりが何軒か先の建物へかかり始めています。
「お前のいうさえぎりは、あの子が産み出すもの。そしてそれはもう『仕上げ』に入った。お前も聞いたのだろう?
彼女の手により、ここにいるものはみな、白いさえぎりの中へと消える。いや、ひとつになると考えるものもいるか」
監督はまたメガホンをとり、怪獣たちへの指示を二、三飛ばしたのち、また少年を見ます。
「我々の生は、死への道。だが、まだ残る可能性がある。
このぬいぐるみだ。我々が命を賭した汗と熱が残るこれらは、たとえ命が消えても残る。
演じるとは、役に臨んで刻み込むこと。それを成してはじめて、たとえ中にいる者が消え果てても、演技が残る。目にしたもの、立ち会ったものに役を演じた事実が残る。
だからさ、俺にも監督の仕事をさせてくれよ。残ることができるようにさ」
「だったら、あのぬいぐるみを返してください! 言っていることは全部は分かりませんが、演技が残るのなら今からでも少し……」
「そうであったら、どうしてオーケーなど出すものか」
さえぎりは、にわかに勢いを増して狭まってきます。
四方八方からのみではありません。いまこうして立つ道のあちらこちらからも、さえぎりは湧き出して、あたりを白く染め上げていくのです。
あちらこちらで悲鳴があがり、少年と監督のそばでも、ファスナーのついた地面がところどころへこんでいきます。
中の人が、きっとそのさえぎりに飲み込まれていっているのでしょう。
もう、逃げ場はありません。足元回りを囲まれて、もはや残った足場を抱きしめるように、一本足で立たざるを得ないほど追い詰められた少年に、監督の声が届きます。
「案ずるな。演じきったお前の魂は、『異なる世界』で歩みを続けることだろう……」
※ ※
「よーし、これで終わり!」
ぬいぐるみの綿の詰め替え作業が済み、少女はぬいぐるみを手に取ります。
しばしの休みから再開し、新しい綿を十分に詰め込んで、穴を縫うこともしっかり終えたところ。手触りも確認し、よれたところがないかを十分に確かめます。
自分が小さいころから愛用している、熊のぬいぐるみです。そのつぶらな二つの黒い瞳を見ていると、自分を見守ってくれているように感じられて、安心感を覚えるのでした。
最後にぎゅっと人形を抱きしめ、棚へ戻した少女は、自分を呼ぶ母の声を聞き、部屋を後にします。
その人形の詰める作業の中。彼女が気にせぬほど、小さい綿の端が部屋のフローリングに挟まっていました。
部屋へ入り込んだ風により、彼女を追うように吹き飛んでいったほこりは、どこか怪獣を思わせる不思議な形をしていたのでした。




