前編
耳をつんざく大音量とともに、5階建ての時計塔が崩れ落ちました。
上からの踏みつぶし。しかもそれを成したのは、たった一本の足。
残るガレキを踏みにじり、なお立つ音さえささいなものと、今度は生き物を思わす叫び声が、あたり一帯にとどろきます。
二足で立つそれは、禿げあがった頭から足の先まで爬虫類を思わす肌に覆われ、尻からは長い尾を伸ばし、地面に引きずっていました。
頭頂から首の後ろ、背中から尾の先にまで、ニワトリのとさかのように逆立つ結晶。その中では絶えず、淡い光が揺らめいていたのです。
その姿は、知る者であれば、こう称したでしょう。
「怪獣」と。
もはや岩くずとなった時計塔を、なおもしばし踏みにじったのち、怪獣は前進を続けます。
先の時計塔の下敷きとならなかった、直方体を主とする家並みは、一歩ごとにその姿を散らされていき、怪獣はまたしても頭を持ち上げ、大きな鳴き声を張り上げて……。
「はーい、オッケー!」
メガホンから響く、機械的な音声。
それとともに、ぴたりと動きを止めた怪獣から漏れるのは「ヴぁああ~」とでも形容できればいいでしょうか。
先までに比べると、あまりに気だるげで、ずっと人間的ななまりを帯びた声。
ジーッと音がしたのは、怪獣の後頭部。あの水晶らしき突起のすぐ脇に隠れたジッパーが、下がっていくためでした。
尾の根元に至るまで、黒々とした大口を開くジッパー。その割れ目から、「怪獣」は大きくへたりながら崩れ落ち、代わりに出てきたのはタンクトップ姿の少年だったのです。
短く刈り上げた頭と、あどけない顔つき。やや小柄ながら引き締まった体は、どこもかしこも滝のような汗を出していました。
彼がのくと、足元もまたにわかに波打ち始めます。
壊れた時計塔を含むセットたちも巻き込まれ、残った破片があちこちに転がったのち、建物前の道路のそこかしこが、「怪獣」と同じように、巧妙に隠されたジッパーによって分け離れていきます。
そこから出てくるのは、先に出た少年に似て、薄着をしたたくさんの老若男女でした。
荒く息をしたり、なおある余力に任せて駆けまわったり、こわばった身体を大いに伸び縮みさせたり……ようやくの解放で、みなが思い思いに羽を伸ばし始めたのです。
ここ、テブリの国で演劇が行われるようになって、もう長い時間が経っていました。
暦を持たないこの国にとって、日とは動く時間か、動かなくてよい時間か程度の違いしかない。もはやいつから、この命令が出されたかを答えられるのは、下々の者にはいません。
子供と大人の境目もはっきりしていませんでした。図体の大きな者であっても、仕事らしい仕事をせずに暮らしているものがほとんどだったのです。
「労働」と呼ばれるものは、一部の高尚な者がたしなむ伝説のごとき存在。貧富の差による争いなどもとんとなく、皆はほぼ自由に暮らし続けていた。
しかしある時、急に隣国への移動が徹底して禁じられる命令が公布・施行されます。
同時に、この全国民へ演劇に従事する義務を与える旨も伝達されたのです。
自由意思を縛る命令さえも聞いたことがない皆は、それだけでも混乱しきりだが、突然くわえられた暮らしの「色」に、戸惑うばかりでした。
ほどなく、それぞれの住まいに送られてくる「ぬいぐるみ」たち。
彼らに課せられたのは、ぬいぐるみを被って演技を行う「ぬいぐるみ役者」としての仕事だったのです。
それからは、テブリの国のそこかしこでぬいぐるみ役者としての劇が行われました。
演目によって主役が異なり、誰もが一度はそのメインを張る演目があります。その他はあの老若男女のように地面となったり、建物になったりと背景を任されることもありました。
休む間こそ与えられますが、基本的には演じ尽くめです。劇の流れこそ伝わっていますが、演技そのものは演者の意思に託されます。
ダメ出しもされました。誰に観てもらうとも分からず、ひたすら迫真さを求める指導は、どこか芸術めいたものがあったかもしれません。
へたっぴであるなら、いつ終わるとも知れない苦行の日々。
しかし演技が認められ、合格をもらえたならば、ぬいぐるみ役者の任を解かれて、これまでの自由を取り戻すことができるのです。
禁じられていた隣国への移動も、限定的にですが許されました。託されていたぬいぐるみの返却と引き換えとして。
そして今日。怪獣を演じきった少年にもまた、合格の許しが出たのです。
この時を願い、どれほどの汗を流してきたかは、少年自身にも分かりません。
背負っていたぬいぐるみが、どちゃりと足元へ落ちる。その重さ、その水音は、吸い込んだ汗がまだ十分に乾いていないことを物語っていた。
そいつを拾い上げ、目の前の監督兼役人へ渡す。代わりとして、役人は右手に握りこぶしを作ると、少年に右手の手のひらを開くようにいい、そこへこぶしを乗っけます。
ぐうり、ぐうりと、手のひらの中でゆっくりと渦回くように動かされるこぶし。それが話された時には、あざにしては鮮やかすぎる、青い十字架が手のひらいっぱいに浮かんでいたのです。
隣国への通行許可でした。期限はないが、行ける時に行っておけよとは、役人の話です。
いわれるまでもないことでしたが、今は疲れが残っています。
天涯孤独な少年は、自分の寝床へ戻ると、うとうととまどろみながら眠りの中へいざなわれてしまいました。
時計のないテブリの国は、目覚めたときが起きるときです。
太陽もないテブリの国で、出迎えてくれるのは高くて白い一面の空。人によっては自分の部屋をもうけ、もう少し色の違う覆いを、目の当たりにするかもしれませんが。
いま一度、自分の手のひらに許しがあることを確かめると、少年はすぐ寝床を立ちました。
久しぶりに歩む、隣国への通り道。例のお触れが出てより、演劇に明け暮れて、通る暇を与えられなかった道でした。
進む間にも、そこかしこで演技の際の掛け声があがり、演者の姿もまたちらほらと見ることができました。
この劇に、「素」で参加している者はいません。いずれもかぶり物をしています。
ある者は人間であり、得物たる小道具を携えていました。身軽に跳ねては得物を振るい、大立ち回りの雰囲気をつむぎます。
ある者は少年と同じ、動物や怪物然とした格好であり、場合によっては多肢をそなえる図体を動かすに、四苦八苦しているのが外からも見てとれました。
ダメ出しする監督の声も聞こえますが、少年にとってはもう、聞いているだけで心が苦しくなるような文言ばかり。無視するに限ります。
やがて目の前に、隣国との「境」が立ちはだかりました。
とはいえ、立派な建物とか何人もの役人が控えているとか、そのような物々しさはありません。
ただ空の白がそのまま降りて立ちはだかったような、白い壁が広がるばかりです。
この通り道は、壁近くの数十歩は橋のごとく浮かんでおり、足元には頭上や目の前と同じ。真っ白な空間が広がっているのみです。
しかし、浅いわけではありません。実際、少年が壁へ寄っていくまでの間で、足元の小石が悪気なく蹴り飛ばされ、道の端から転げ落ちました。
石はどんどん小さくなり、やがて白の中へすっかり姿を隠しても、転がる音などいっさい響いてこずじまいなのですから。
正面の壁もまた同じです。これまで許しなく、ここを通った者がいたと少年は聞きますが、帰ってきたという話は一度も聞きません。
目撃した者の話では、白い壁に突き入ってより、どこまでも進んでいって、それっきりだったと。
しかし、今の自分は許しある身なのです。
少年は役人に押し当てられ、こしらえた手のひらの十字架を、壁へ向かってかざしました。
すると、どうでしょう。
手をかざしたところから、まるで蜘蛛の巣をかき分けていくかのように、壁はおのずから左右に分かれていくのです。
彼の足より先には道の続きが。その両脇からは景色の続きが。しきりなく連なっていることが確かめられたのです。
少年数人分ほどの余裕を持った幅と高さでもって、現れた道。もう数十歩、こちらと同じように橋となっている道を渡ったならば、そこがもう隣の国。
自由な往来を禁じられてより、久しぶりに見る場所だったのです。




