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19 告白

『今、俺の前を通った娘……今宵ここにいる誰よりも美しい…………』


 中央区に住む富豪たちの屋敷の中でも、マイファーニ家は特に大きかった。

 一体いつ使うのだろうという部屋が無数にあり、そのどれもがこまめに掃除され埃一つない。つまりそれは持ち主の懐にどれだけ財産があるのかという、わかりやすい指標でもあった。

 マイファーニ家が中でも力を入れているのが、屋敷に備えてある個人用の劇場だった。サウワンの富豪たちは賭博を好む庶民とは違い、演劇鑑賞が最大の娯楽だ。屋敷の外見とは打って変わって劇場内はこじんまりとしていて落ち着いた雰囲気を出しているが、垂れ幕や床の素材……ひじ掛けまでもが一流の職人たちによってつくられている。

 椅子そのものが大きく作られているので、席数が百に満たないにも関わらず勇一にはやたらと広く感じられた。


『私の初めての恋が、まさかあの家の者だなんて……』


 上野勇一の心境は、陰鬱な圧迫感に苛まれていた。仇である仮面の男の手がかりは何としても欲しい。しかしそれを知っているライアンという男は、今自分が演じている演劇を台無しにすれば教えようというのだ。今まで自分を置いてくれたメフィニ劇団の本業、しかも今後こんな劇場になど来れないだろう場所でする演劇を失敗させろと。普通に考えれば、ありえないと拒む。

 しかし今彼の置かれた状況は、簡単にそれを許さなかった。街でいくら聞き込みをしても得られなかったものが、向こうからやってきた。そんな都合のいい事がこの先あるとは思えない。しかしメフィニ劇団(みんな)の努力を無にすることなど出来るはずもない。

 彼は出来ることなら叫びたかった。いっそ客席に仮面の男がいてくれたら……などとあるはずのない事を考えたりもした。


『花の名前を変えても、その香りは変えられない。あなたの名前を捨てたとて、貴方は貴方』


 もし彼が、次の台詞を言うことなく立ち去ったら……。大変なことになってしまうだろう。主役の年齢に一番近いのは彼とアイリーンだ。仮に異変を感じた彼女が急遽代役をやったとしても、台詞を全て把握しているとは思えない。


(観客は呑気なもんだ……)


 数十人の観客は皆背もたれに寄り掛かり、時々隣の者とこそこそ話をしている。勇一は彼らのたるんだ腹が視界に入るたびに、ルドや外周部で暮らすお世辞にも食事を取っているとは言い難い者たちの姿を思い出した。

 その金庫に入ったものは己の腹を満たすまい。眺めるだけで良いなら絵でも飾っておけばいいんだと、心の中で届くはずもない悪態をついた。


『願わくば、この二人に祝福を……』


 気付けば劇も序盤が過ぎ、愛し合う二人が結婚式を挙げる場面まで来ていた。とにかく序盤の山場をしのぐまでは「頼み」の事を忘れないといけない。


(例え台無しにするにしても、劇団にダメージが少ない方法はないか?)


 台本ならば二人は密かに結婚式を挙げる所。ここでもし結婚を断ったら?もし、結婚した直後に台本を大幅に端折って二人で自殺したら?いい考えはないかと思案するが、次の台詞を思い出すだけで処理の追い付かない彼にそんなものを思いつく余裕などなかった。


『あー、新郎よ、聞いていますか?』


『は、はい……誓います』


 見届け人の仮面を被ったガージャが、顔色の悪い勇一に語り掛ける。我に返った彼は必死に覚えた誓いの言葉を述べると、恋人役のアドの手を取った。


(次は口づけ……キス…………の、ふりだったな)


 彼女の背に手をまわし観客からは見えない体勢で互いの顔を近づければ、口づけをしているように見える。していないのは公然の秘密というものなのだが、この時アドは予想外の行動をとった。


「…………んっ」


「!」


 抱き寄せられた彼女は思い切り背伸びをして、本当に二人の唇は触れ合ってしまったのだ。一瞬か、一秒か、十秒か……短かったのか長かったのか彼はわからなかったが、間近で現場を目の当たりにしたガージャの驚いた顔が視界の端に映ったのはわかった。


『い、いいですかぁ。長く相手と共にいたいのなら、程々にするのです。程々に愛することが、長続きの秘訣ですよ』


 その出来事は彼の悩みを吹き飛ばす威力があった。唇に触れた柔らかい感触名残りを感じつつ、抱き寄せた態勢のままアドに耳打ちした。


「アド、一体何を……」


「目が覚めた? いつまで呆けてるのよ。何を悩んでるのか知らないけど、役目はちゃんと果たしなさい」


 用足しから帰ってきた彼が大きく悩んでいることを彼女はわかっていた。しかしどんなことにしろ、まずやるべきは目の前の仕事だとわからせるつもりで――半分くらいは自分の気持ちを伝えるために、強硬手段に出たのだ。

 それが功を制し、勇一は頭から悩みが消え去っていくのが分かった。


(そうだ、何を悩んでいたんだ…………。情報は欲しい、けどあの人からじゃなくてもいいじゃないか。彼には劇が終わったら他を当たると伝えよう。少し遠回りになるけど、それが最善だと思おう)


「ありがとう、アド。君にこんなことをさせた自分が嫌になる。……もう大丈夫」


「え? あ、うん………………そうね」


 アドの唇は僅かに震えている。年端も行かない少女になんてことをさせてしまったんだと彼は胸を刺されるような気分がした。そして彼女の身体を張った激励に眼は覚め、あれこれ考えているのが急に馬鹿馬鹿しくなった。悩みは消え去り、ライアンの「頼み」を断ろうと決心させたのだ。

 そこから勇一は、まるで人が変わったように演じ続けた。


「ね、ねぇ。抱くと言っても形だけよね? 近付くだけでいいじゃない?」


「毛布の中で離れてたら不自然だろう。密着しなきゃならないんだ。ほら、おいで」


「うぅ…………せ、せめて顔は見ないで」


「照れてる場合か? 何度も練習したじゃないか、ここは二人が愛を確かめ合う場面だって……こら暴れるな」


「だ、だめ。やっぱり恥ずかしい……」


 客席に聞こえないように囁き合う二人。勇一の胸板に頭を預けるアドは、自分の顔が熱くなっていることが知られないかと気が気ではなかった。

 恥ずかしさに逃げ出したくなるが、それは許さないと彼が覆いかぶさり止める。ぶ厚い毛布の中で激しい動きを繰り返す二人はいつしかすっかり熱を持ち、やがて言葉も消えて互いの荒い呼吸音だけを聞いていた。

 毛布の中で激しい動きを繰り返す二人のそんな様子を、オーダスカは神妙な顔つきで袖幕から見ている。


「あの二人……確かに愛し合う演技をしろと言ったが、あそこまでやれとは言ってないぞ? 客席を見ろ、皆引いてるじゃないか!」


「違うわあなた、あれは見入ってるのよ。若い二人だけで愛し合う姿を見て、皆思い当たるものがあるんじゃないかしら?」


 観客たちは時々していた雑談も忘れ、食い入るように二人の演技を見ている。稀に聞こえてくる息遣いまで聞き逃すまいと、前のめりになっている者も数人いた。


「ユウも私たちのためにあんなに働いてくれるなんて……皆のために一生懸命になるところ、ケルンにそっくりね」


「ラシアタ……」


「わかってるわ、彼はケルンじゃない。ただそっくりなだけ……」


 ラシアタは穏やかな表情で二人を見つめる。視線は家族に向けるそれで、次に彼女の手を取るオーダスカと見つめ合った。


「けれど……あの子そっくりなユウが私たちの前に現れたのは、何か理由があるんじゃないかって、時々考えるの」


「理由?」


「ケルンも丁度ユウくらいの歳だった。もしかしたら、女神様がつかわしてくれたんじゃないかって」


 理由はわからない、ただの偶然かもしれない。しかしラシアタはその出会いに何か運命的なものを感じていた。またオーダスカも「ひょっとしたら」と、彼女の言う可能性を考えている。

 演劇も後半に入り、皆の演技にさらに熱が入る。観客は息を飲み、若すぎる二人が下した決断の行く先を食い入るように見つめていた。



 ***



 ライアン・マイファーニはマイファーニ家の次男で、人の戸惑う表情がことのほか好きな男だった。這い上がろうとする人間に後戻りできない選択肢を突きつけたり、突拍子のない条件を言ってみたり……基本的には商人として振る舞っていたが、損得を超えた欲求を通そうとする本能を押さえつけるのに彼はいつも必死だった。

 実の父親を密告した時や、処刑を宣告されたあの顔ほど歪んだものを彼は見たことがない。あれを超えるものを見たいと色々やっては見るものの、彼の地位が足かせとなって思うように出来なかった。

 同じ中央区に住む富豪たちを相手にするのも飽きてきたとき、勇一の事をふと耳にした。メフィニ劇団がサウワンにいることは既に知っていたライアンは、彼が劇団に世話になっていることを知ると僅かに興味を持った。彼が探している仮面の男の話は自分が知っている、彼に接触できればつかの間の暇つぶしが出来るかもしれない。そんな折にメフィニ劇団のオーダスカが邸宅を訪ねてきたので、ライアンはほんの少しだけ女神に感謝した。


『朝…………朝が来てしまったわ』


『明るさを天秤にかけるように、私の心は暗く沈んでゆく』


(貧乏人どもの演劇とやらを見世物にしようと思っていたが……存外にやるじゃないか。全く、いつもながらやり手だな……)


 真剣なふりをしながら心の中を表に出さないようにするのは、自分の人生では当たり前の事。だが周囲のボンクラな富豪どもときたら、雑談もやめて食い入るように見ていやがる……とライアンは内心で悪態をついた。


『ああ! お嬢様! お嬢様が、死んで……お亡くなりに!』


『そんな……私の、恋人……』


 しかし頭の片隅では、よくできた悲劇だとも彼は思っていた。特に御婦人方はこの手の悲劇は大好物だ、皆の評価如何によっては彼らに専属契約を持ちかけるのもやぶさかではないなと、肥えた眼で劇団の者たちを値踏みする。


(しかしあのユウという青年。途中から葛藤が消えたな……裏で何かあったか? 少しつまらん…………ん?)


 ライアンの眼は一人の役者――仮面をつけて演じるアイリーンに向けられた。同じ役者が別の人物を演じるため、それをわかりやすく見せるために複数の仮面をつけることを彼は知っている。そして仮面の奥に光る黄金の瞳を認識した途端、彼の股間は縮みあがり激痛が走った。


(いったたたた!! な、何故…………何故あの方がここに!? ここここれはまずいことになった、もし彼が私の事をあの方に喋ったら……)


 ライアンは身体中に冷や汗をかきながら席を立つ。同時に胃痛にも襲われた彼は気が気ではなかった。劇場を出ると、直ちに使用人たちに劇団を最大限労うように命令を下す。最初は不審がった使用人たちも、主人の鬼気迫る表情に何かを察し大急ぎで準備を始めた。


『剣よ……私の胸が、お前の鞘よ! これで私は、永遠に貴方の隣で………………』


 扉の向こうから嗚咽がいくつもライアンの背中にまとわりつく――泣きたいのはこっちだと漏らすと、この危機を脱すべく書斎へと向かった。

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