3-3 これは「怪我の功名」というべきか?
(掃除は怖いんだよなぁ……)
順番に回ってくる掃除当番も、なにが起こるか分からないフジにとっては怖いものだった。
キャッチボールのボール代わりになっていた雑巾が飛んで来きて、顔面に直撃したのも二度や三度ではない。
机を運んでいる最中に転んで打撲もよくあること。
黒板消しを窓から叩いていたら落としてしまったこともあり、上の階で同じことをしていた生徒が黒板消しを落として頭の上に当たったこともある。
周囲に気をつけながらほうきでゴミを掃くフジに対して、同じく掃除当番のタカミは踊るような動きで窓ガラスを拭いていた。
「掃除、楽しそうだね」
「はい~。
身の回りがきれいになると気持ちがいいし、幸せじゃないですかー?」
一通り窓を拭き終えたタカミは、アイススケートのような動きで机を拭いて周り始める。
「幸せっていうことは、掃除は風水とか関わりある?」
「風水とは直接関わりませんが、掃除は幸せを呼ぶ行動のひとつです!」
「というと?」
「掃除や空気の入れ替えなどをしないと、目には見えない悪い空気が溜まっていくんです。
それが風邪や体調不良の原因になったり、気分を鬱にさせたりすることがあるんですよ!」
「年末に大掃除をするのと同じ理屈ってこと?」
「そのとおりです!」
そう解釈したが、年末の大掃除のときにもプラモデルを壊したり、服を汚してしまったり、ワックスで滑って転んだり、捨ててはいけないものを捨ててしまったりするフジにとっては掃除自体が不幸を招く行動のようにも感じている。
なのでタカミの元気な答えにも納得がいかなかった。
そんなことを考えながら、一杯になったゴミ箱の袋を取り替えようとしたとき、
「痛って!?」
フジの手のひらに大きな傷ができた。
滴るほどの血が手のひらににじみ出てくる。
袋を見直すと、カッターの刃のようなものが袋を破いて出ていた。
「不幸だ……」
無意識にフジがつぶやくとタカミはすぐに状況を確認し、駆け寄ってきた。
「大変! 保健室に行きましょう!」
フジの手を握らせたタカミは、フジの拳を両手で包むように握った。
「う、うん……」
自分の怪我よりも、タカミのきれいな手が汚れてしまうことをフジは気にかけていた。だが、自分の怪我に治癒魔法をかけているような優しいタカミの手が暖かく、フジは鼓動の高鳴りを抑えられなかった。
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早足で保健室にやってくるが保健室の先生も、保健委員の生徒も、体調不良で寝込んでいる生徒もいない。
保健室特有の消毒液やクーラーの匂い、外から聞こえてくる運動部の声やボールが跳ねる音がするだけだ。
「誰も居ませんね」
「やっぱり不幸だ……」
怪我をするだけでなく手当をしてくれるひとも不在。泣きっ面に蜂のような状況にフジは肩を落とし、暗い声でつぶやく。
「とりあえず、手を洗いましょう!
染みますけど、我慢して下さいね!」
流しに引っ張られ、水道水で手を洗う。
言われたとおり染みるが、傷は浅いのか、怪我になれてしまっているのかそこまでは痛くない。
「フジくん、染みないですか?」
タカミが息がかかる距離まで顔を近づけて聞いてくる。
(はっ、肌きれいだし、ナスナさんとはまた違ういい匂いがする……)
まるで真珠のようなタカミの丸い頬と、どんなシャンプーやボディーソープを使ってるのか想像もできないほどの幸せな香りに、フジは手の傷の痛みをすっかり忘れていた。
どんな治療や魔法よりも、フジにとってタカミが近くに居てくれることが回復につながるような感じさえしている。
「フジくん? 痛いですか?」
意識が上の空にあり、顔が固まっていたフジにタカミが心配そうな声をかける。
そこでフジの意識は頭に戻ってきて、
「こっ、こういう怪我は慣れてるから……」
緊張のあまり震えた声でフジは答えた。
答えた後もタカミはフジの顔をまじまじと見ている。
舌の動きが気になったのか、それとも男らしくない顔が気になっているのか、フジは見られている理由を考えていた。
「フジくん、横になってください」
タカミは流しの水を止めて、フジにそう言った。
「えっ!? 大した怪我じゃないよ!? 大袈裟な処置はいいと思うけど――」
「よくありません!
フジくんの大好きなプラモデルが作れなくなったら大変です!」
タカミにそう言われながらフジはベッドまで押された。
(こ、これからエッチなゲームみたいなことが起こるのか!?)
「横になってください」
「うん……」
タカミに言われる通り上履きを脱ぎ、ベッドに横になる。
このあとなにをされるのか、なにをしてもらえるのか、悶々としたことを考える前に、
「怪我をした右手を上げてください」
「こう?」
(こ、この右手をどうするつもりなんだ)
「そのままにしててくださいね。」
「……どういうこと?」
この右手でなにかをしてくれるのではないか。
期待を少ししてしまったフジは、キョトンとした表情でタカミの顔を見る。
「怪我の箇所を心臓よりも高い場所にしておくと、少し血が出るのを抑えられるんですよ」
「そ、そういうことだったんだ」
(そうだよね……タカミさんはそんな不純な子じゃないよね)
いやらしい想像を少しでもしたことにフジは後ろめたい気持ちになり、タカミから目をそらした。
そらした先には性教育の本などがあって、さらに体が火照るのを感じた。
「あとフジくん、少し顔色が悪かったので」
「そ、そうかな? 顔が白いのは元からだし」
むしろ今は顔を赤くしているのではないかと思って、話しかけられているのにフジはタカミと目を合わせられなかった。
「でも血が薄いひとは採血や献血などで貧血になってしまいます。
フジくんもそうなって倒れてしまうかもしれないですから、少しおとなしくしててください」
「……うん」
タカミから見てフジは弱々しく見えただろう。
そう考えると自分が情けなく思えてきて、目線を真っ白なシーツに落とす。
「大丈夫ですよ」
するとタカミは目線をフジに合わせ、黄色い瞳でまっすぐとフジを見つめる。
「わたしがついてますから!」
心の底から安心できる笑顔だった。
タカミといれば不幸なことは減る。それはこの数日でよく分かった。
もちろんゼロにはならないが、それでもタカミはその不幸を打ち消してくれるようなフォローをしてくれる。
今もこうして怪我をした自分を大切に思い保健室まで付き添ってくれて、さらに貧血気味だと気がついてくれた。
その上早く終わらせたいであろうめんどくさい掃除当番を放り出して、保健室の先生が来ない今も寄り添ってくれている。
自分のことを考えて強い意志で行動してくれる存在は、まるでフジの好きなロボットアニメのヒロインだった。
こんなにも絵に描いたような存在がいたことにも驚くが、さらにそんな存在がフジの目の前に現れたことは奇跡に等しい。
今までの不幸を全て帳消しにしてくれるような出来事にも感じる。
「にしても保健室の先生来ないね」
目線を合わせたままタカミは首を傾げた。
その行動すらフジには愛らしく見え、
「――あっ、うん……そうだね」
少し見とれて、時間差で返事をした。
(むしろこのままでもいいかもしれない)
そう思いながら、目の前で笑う女神のようなタカミの顔を見ていた。
「じゃあわたしがお手当しますね!」
「えっ!?」
「大丈夫ですよ!
中学生のころは保健委員長を勤めて、保健の先生のサポートをしてましたから。
切り傷くらいはお手の物です!」
ハツラツとした声でタカミはそう言いながら、軽い足取りで棚から処置に必要な物を取ってくる。
「ラップ?」
「ですよ。絆創膏で覆えない傷なのでこれで塞ぎます」
タカミはラップに白いクリームを塗って、フジの手を優しく取った。
(最近タカミさんの手によく触れるなぁ)
タカミの手は柔らかく優しさが伝わるような感じがする。
ケントもタカミの手はきれいだと言っていたし、やぱりタカミは密かに男子に人気があるのではないかとフジは思ってしまう。
そんな手が怪我を治療するために、自分に触れてくれるのがフジは嬉しかった。
「本当はラップじゃなくて傷口を覆うためのテープがあるんですが、許可なしでは使えないので、これで処置しますね!」
ラップを傷口に当て、医療用のテープて固定。その後にカーゼを当ててこれも固定した。
「はい、完了です!」
あっという間に終わってしまった。
フジの手をあっけなく離れていくタカミの手の感触がとても名残惜しい。
「あ、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして!
あまり深くなさそうだったので三十分程度したら、剥がしても大丈夫だと思いますよ!」
「そんな短時間でいいんだ」
「怪我はそのくらい出直りますが、貧血は少しかかるかもしれませんね。
横になっていたほうが良いと思います。フジくんさっきからぼーっとしてます」
「あ、うん」
タカミから見てフジがぼーっとしているように見えるのは、恐らくテキパキと応急処置をしてくれたタカミに見とれていたからだと思ったフジは、短い返事をしてごまかした。
「じゃあわたしは掃除の続きをしてきますね!
フジくんのお掃除しておきますから、よくなったら部室に直接来てください!」
「うん……」
フジはおとなしく横になったまま、タカミの元気に揺れるスカートを見送った。
(こんなにしてくれるのに、僕はタカミさんになにも恩返しできないのか)
保健室の白い天井を見て、フジはそう思う。