第一章 首席令嬢、婚約破棄
王立アストレア魔法学園の始業式は、いつも独特の緊張感に包まれる。
今日から始まる三年生――つまり卒業学年としての一年間は、私にとって特別な意味を持っていた。
朝の光が講堂の高い窓から差し込み、集まった生徒たちの制服を白く照らしている。
私はその中央に立ち、静かに息を整えていた。
三年間、私はこの場所でずっと同じ結果を聞かされてきた。
学力、魔法技術、剣術・護身術、指揮能力、実績、品格、協調性。
七項目、合計七百点満点で争われるこの学園のランキング制度は、卒業後の進路までも左右する。
王宮、騎士団、魔法庁、聖堂――どこに配属されるかは、すべてこの数字にかかっている。
「今年度も、一位はリリアーナ・エルフォード嬢です」
教頭先生の声が講堂に響いた瞬間、周囲からはため息のような、拍手のような、何とも言えない反応が返ってきた。
驚きではない。
むしろ「今年もそうか」という、当然の空気だ。
三年間、私はこの結果を守り続けてきた。
努力を惜しんだことは、一度もない。
隣には、婚約者であるハインリッヒ王太子殿下が立っている。
金の髪に碧い瞳、誰もが認める王道の美貌を持つ人だ。
幼い頃からの婚約者として、私たちはずっと並んで立ってきた。
けれど、最近の彼はどこか違う。
以前のような、まっすぐな眼差しを私に向けてはくれない。
「さすがリリアーナ様だ」
「三年連続首席なんて、誰も追いつけない」
生徒たちのささやきが耳に届く。
褒め言葉のはずなのに、どこか遠い響きに聞こえた。
尊敬はされている。
けれど、親しく話しかけてくる者は少ない。
「近寄り難い」と言われることには、もう慣れていた。
そのとき、視界の端に桃色の髪が揺れた。
セレフィナ・ノクス。
最近この学園に編入してきた、小柄で愛らしい少女だ。
下級貴族や平民出身の生徒にも分け隔てなく接し、「身分で人を見ない聖女」と評判になっている。
彼女が誰かに笑いかけるたび、周囲の空気がふわりと和らぐのが分かった。
「ハインリッヒ様、おはようございます」
セレフィナの声に、ハインリッヒが小さく振り向く。
私に向けるものとは違う、柔らかな表情だった。
その瞬間の違和感を、私はまだ言葉にできずにいた。
始業式が終わり、生徒たちが講堂を出ていく中、私は次の予定――ランキング詳細発表のために掲示板前へと向かった。
毎週月曜日に更新されるこの掲示板は、学園生活の中心とも言える場所だ。
今日は特に、卒業学年としての最初の発表とあって、多くの生徒が集まっていた。
掲示板の前に立った瞬間、私は自分の目を疑った。
一位
セレフィナ・ノクス
そして、私の名前は――
四十一位
リリアーナ・エルフォード
「え……」
思わず声が漏れた。
周囲がざわめき始める。
三年間、一度も一位を譲ったことのない私が、四十一位。
数字の意味を、頭が理解することを拒んでいた。
教頭イザベラ先生が壇上に立つ。
普段は現場に口を出さない彼女が、今日は自ら発表するようだった。
「教師会による調査の結果、一部評価に重大な問題が確認されました」
それだけを告げ、詳しい内容には一切触れない。
「重大な問題」とは何なのか。
私自身、まったく身に覚えがなかった。
説明を求めようと一歩前に出かけたそのとき、ハインリッヒが静かに前へ歩み出た。
彼の表情は、これまで見たことのないほど硬い。
「私は、このような人物を未来の王妃にはできない」
講堂中の空気が凍りついた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
理解が追いつく前に、彼の言葉は続く。
「リリアーナ・エルフォード嬢との婚約を、ここに破棄する」
婚約破棄。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
幼い頃からずっと隣にいた人が、大勢の前で、こんなにも冷たい声で私を切り捨てた。
「な……」
声を出そうとしたが、うまく言葉にならない。
喉の奥が固まったように動かなかった。
さらに追い打ちをかけるように、生徒会長エドガー・フォン・リヒトが立ち上がる。
規律を重んじる彼らしい、迷いのない声だった。
「生徒会役員からも除名する」
除名。
婚約破棄。
四十一位への転落。
すべてが一度に起こり、私はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
何が起きているのか、まるで分からない。
自分がこれまで積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく感覚だけが、はっきりと胸に残っていた。
周囲の視線が、痛いほど突き刺さる。
同情でも、嘲笑でもない、ただの「異物を見るような」目だ。
膝が震えそうになるのを、必死に堪える。
弱さを見せてはいけない。
どんな状況であれ、それだけは譲れない一線だった。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見る。
何が起きたのかは分からなくても、逃げるつもりはなかった。
そのとき、視界の端でセレフィナが動いた。
彼女は瞳を潤ませながら、私の方へと近づいてくる。
「リリアーナ様……こんなことになるなんて……」
涙をこぼしながら、悲しげにそう言う彼女。
周囲の生徒たちは、その姿に同情の眼差しを向けていた。
「セレフィナ様は優しい」
そんな声さえ聞こえてくる。
けれど、私はその涙を見つめながら、言葉にできない違和感を覚えていた。
悲しんでいるはずのその瞳の奥に、何かが見え隠れしている気がしたのだ。
それが何なのか、この時の私にはまだ分からない。
ただ、これから始まる長い戦いの、最初の一歩を踏み出したことだけは、確かに感じていた。




