第9話 遠き星を想う夜
夜の診療所には、消毒薬の匂いが満ちていた。
ティナ・フェルリスは、小さなランプの光の下で包帯を巻いていた。
彼女の手は慣れた動きで兵士の腕を包み、最後にやさしく声をかける。
「はい、おしまいです。あまり動かさないようにしてくださいね」
兵士が礼を言って立ち去ると、ふと一瞬の静寂が戻った。
そのときだった。風鈴のような音が、耳の奥で小さく響いた。
(また、思い出してる……)
それは数ヶ月前のことだった。
戦火を逃れた一人の青年が、傷だらけで村に現れた。
人間ではなかった。角があり、耳が長く、灰色の肌をしていた。
魔族だ、と気づくのに時間はかからなかった。
けれど、彼は刃を持っていなかった。ただ倒れていたのだ。
恐れも、怒りもあった。けれどティナは彼の傷を見過ごすことができなかった。
「……君の名は?」
そう問いかけたとき、彼は驚いたように目を見開いた。
そして、少し間を置いて、答えた。
「ノク……リグリア」
その名だけが、今も彼女の胸に残っている。
***
夜更け、ティナが医療室の戸を閉めると、同僚の女性治療士が声をかけてきた。
「ねえ、ティナ。あのときの話、また考えてるの?」
ティナは少しだけうつむいた。
答える代わりに、小さな音が鳴った。彼女の腰の小袋の中――ひとつの銀の鈴。
「それって……」
「彼の髪に、編まれていたもの。……気づかれないように、落としてもらったの」
「やっぱりあの人、魔族だったんだよね。危険だったのに、なぜ助けたの?」
「……わからない。ただ……あの目は、誰かを想っている人の目だったから」
答えながら、ティナは自分が何を恐れていたのか、はっきりわかっていた。
それは“間違っていたのは私じゃないか”という、不確かな罪の意識だった。
***
そのころ、ザル族の補給隊宿舎。
ノク・リグリアは機材の油を拭きながら、目を閉じた。
彼の背には治りきらない傷跡が残っている。
けれど、あの時のあたたかな手の感触だけは、今も鮮明だった。
「君、まだそんな夢見てるのか?」
年上の技師が言った。
「人間なんか信じるなよ。あいつらは、平気で笑って剣を振るう」
ノクは答えなかった。ただ、そっとポケットに手を入れる。
指先に、あの“鈴”が触れた。
(彼女がくれたもの。……たとえ一瞬でも、嘘じゃなかった)
その記憶が、自分のなかの“戦意”というものをどれほど鈍らせているか、
彼は知っていた。けれど、それでも手放せなかった。
***
夜空は深く、無数の星が瞬いていた。
それぞれの場所で、ティナとノクは同じ空を見上げていた。
「……あなたが、まだどこかにいてくれたら」
「……もう一度、話せる日が来るなら」
ふたりの手の中にある、ひとつずつの鈴。
決して鳴ることのない“約束”のように、それは静かに沈黙していた。
けれど、彼らの心の奥で、確かに響いていた。
争いのただ中で、それでも希望は消えていなかった。