1-1 <邂逅>
「……朱野が死んでる」
それが今日、彼に掛けられた、一番最初の言葉だった。
朱野、と呼ばれた、茶髪の少年は、うつ伏せのまま、傍らに親友の気配を感じる。
「おい、朱野ってば……次、移動教室だって」
時は2学期が始まったばかりの9月初旬、午前10時。そこはとある高校の教室の中。
朱野という男子学生は、机に突っ伏したまま、狸寝入りを決め込んでいた。
「次、前川の授業だぞ。お前目ぇつけられてんじゃないの?知らねぇからな」
前川、という壮年の男性英語教師は、口ではうるさく言わないくせに、ちゃっかり評価は下げるという、何とも嫌らしい教師だ。英語の発音は、甚だ怪しいが。
そのことを知っていてなお、貪欲に睡眠を貪ろうとする彼の頭をぐりぐりと小突く親友。
親切心からやっているのだろうが、いよいよ寝ている(フリをしている)彼は、堪忍袋の緒が切れたのか、顔を伏せたまま、がしり、とその親友の手を掴む。
「お、生き返った?」
「颯人、」
颯人と呼ばれた親友は、手を引っ込めようとするが、存外強く握られており、振り払うことができない。
「うざい」
彼にそう言われ、固まる颯人。
「お…おい、昂一くんよ…それはあんまりだ」
苦笑いを浮かべた颯人に、朱野昂一は、
「そうか。じゃあ、お前が言ってた通り、俺は死んだってことにして、俺を見捨てて前川の元へと赴いてくれ、友よ」
と、追い討ちをかけた。
はあ、という颯人のため息。多分今彼は、とても呆れた顔をしているのだろうと、昂一は思う。
もう一度強く手を振り払い、ようやく解放された颯人は、小声で、昂一の2つ後ろの席で、次の授業の教科書を揃えている女子学生に告げた。
「帆波……あとは頼んだ」
セミロングの黒髪、そこそこ整った顔立ちの女子学生は、またか、といった表情で、分厚い参考書を手に持ち、立ち上がる。
「颯人くん。先行って、前川先生に、帆波 楓と朱野 昂一は少し遅れます、って言っておいて」
早口で告げると、颯人はその雰囲気に気圧されたように、「あ、おお」としどろもどろに答え、教室を後にする。
彼を最後に、教室には昂一と楓を除いて、誰も居なくなった。
つまり、二人きり。
「……」
静寂が二人を支配する、静かな教室。グラウンドから、どこかのクラスの喧騒が聞こえる。
「……昂一?」
そして、楓は彼の頭にそっと手を載せ、耳元にそのふっくらとした口を寄せ。
「起きろっ!!!」
力の限り怒鳴った。
「う……」
余りの大音量に、さすがの昂一も僅かに身動ぎする。
それもそのはず。彼女は、その大きな声と、何事にも動じない肝の据わった性格を買われて、この3年6組のクラス委員になったのだから。
「何だよ、ほっといてく……」
『おい、起きろボケ』
発しかけた昂一の抗議の言葉を遮る、“声”。
それは彼に覚醒を促す、落ち着いた男の声。
しかし、彼らの周囲には、彼と、楓しか居ない。
(何だ、急に)
その“声”を聞いた昂一も、特に慌てることもなく、心の中で“声”に応じる。
まるで、それが日常的に行われていることのように。
『起きろっつってんだよバカ。お前、後悔するぞ』
珍しく自分に何かを強要する声に、昂一は訝しげに訊く。
(俺が、一体何を後悔するんだ?)
すると、その声は、僅かな嘲笑を含んだトーンで、答えた。
『そのまま顔上げて、視線を75°ほど上に移してみろ』
上?と呟き、上に何があるものかと、言われるがままに顔を上げる。
果たして、その先には。
いかにも凶悪そうな分厚さを持つ、受験対策の参考書の背表紙。
そして、その向こう側には、
今まさにそれを振り下ろさんとする、というか振り下ろした、能面のように無表情な、幼なじみの顔。
「……って、危な!」
間一髪、昂一はその参考書を両手で白刃(?)取りする。
「……」
一瞬の静寂の後に、楓はニコッと笑った。
気持ち悪いくらいに。
「あ〜、何だ、その……落ち着くんだ、楓」
その笑顔に寒気を感じた昂一は、慌てて立ち上がろうとし、腰を浮かす。
しかし、楓は、そんな昂一の両肩を、
「落ち着いてるよ?」
と、上から満面の笑顔のまま押さえつける。怖い。落ち着いてない。絶対。
「この前、約束したよね?今度授業中に寝てたら、許さない、って」
楓は、許さない、の部分をやけに強調して、言い放つ。
許さないとは、具体的に何がどうなるのだろうか。今更ながら、昂一はそんなことを思う。
そんな約束したっけ?などととぼけようものなら、彼は容赦なく、今年の夏インターハイ3位の回し蹴りを食らうことになるのだろう。それは色々な意味で、マズい。
「あ……あー……何だ。昨日の夜、色々思い出してさ。眠れなかったんだ」
とっさに思いついた言い訳だったが、すぐさま彼は、もっと気の利いた言い訳は出来なかったものかと後悔する。
彼女が、楓が―とても、とても哀しそうな表情をしたからだ。
「あ、いや、今のは―」
口が滑った、と言う前に、
「ごめん。悪かった。でも……」
一瞬俯いた楓だったが、すぐに面を上げ、昂一の瞳を真っ直ぐ見据える。
「でも、ちゃんとしなきゃダメだよ。おばさんのこと、辛くても」
おばさん。彼女がおばさんと呼ぶのは、昂一の母のことである。
昂一の母は、4ヶ月前に、運悪く崖から転落し、亡くなった。そして、共に事故に遭った昂一は、奇跡的に一命を取りとめた。
―と、世間では認知されている。
実際に何が起きたかを、当事者である昂一以外に知る由はない。
少なくとも、昂一の自宅の斜向かいであり、幼少から家族ぐるみの付き合いをしてきた楓の家庭でも、そう認識されているようである。
(……それにしてもまあ、こいつは、人なら言いにくいようなこういうことを、ちゃんと言えるのが偉いよな)
密かに、そう思う。
身内の不幸は、普通であれば、あまり触れたくない非常にデリケートな問題であろう。
実際、昂一の親友である颯人さえも、“事故”が起こってから1週間ほどは、昂一をまるで腫れ物に触るかのように扱った程だ。(うざかったので、その時もうざい、と素直に言ったら凹んでたが、まあ颯人だしどうでもいいことだ)
別に、颯人を恨んだりなどしていない。
それが、普通の反応だから。
しかし、彼女はそうしなかった。
葬式の翌日、彼女は独りで家の片づけをしている昂一のもとに乗り込むと、開口一番、こう言ったのである。
「次学校にいくときから、あんた、居眠り禁止だからね」
元々、たまたま近所に空手道の推薦で入れそうな高校があったから、という理由で選んだこの高校。
そのためか、昂一の授業態度は、控え目にも良いとは言えなかった。
―というか、すこぶる悪かった。
別に授業を妨害したりはしないものの、とにかく寝る。何が何でも寝る。
部活動の疲れと、学業に対する興味の無さが成せる業(?)だったが、その見事な眠りっぷりは、教師内でも噂になっており、半ば呆れられている状態だった。
そんな風に、空手道だけは頑張って2年生でインターハイに出場したものの、他には特に何もせずに過ごしてきた、高校の3年目の5月に。
彼は母を喪い。
しかし彼の幼なじみの少女は、彼に「授業態度を改めよ」と言う。
それは、決して彼女がクラス委員だからではない。
何故、と問えば、それがあんたにできることだからでしょ、ときっと彼女は言うだろう。
亡くなった母がシングルマザーであったがために、突然独り身となり、
もはや経済的にも精神的にも、空手道は続けられない状況であることも、全て解った上で。
だからこそ、この帆波楓という少女は、インターハイ3位の空手の腕を差し置いても、凄い女なのだ。
「ま、あんたのことだから、また約束破るかな〜とは思ってたけどさ」
楓は昂一の机の端に座り、そっぽを向く。
「いや、悪かった。もうしないから」
昂一は一応彼女の許しを乞うてみるが、
「それ、1週間前にも聞いたけど?」
あえなく撃沈。
そう。楓と約束(というよりは、一方的な宣告だったが)を交わしたものの、昂一は、何度か約束を破ってしまっている。その度に、拳やら蹴りやらをお見舞いされていた昂一だったが、それでも懲りない彼に、彼女が一週間前言った言葉が、
「今度寝たら、絶対許さない」だった訳で。
その、彼女が絶対許さないシュチェーションが、今正に再現されている訳だ。
「許さないって、どういうことか、分かる?」
「さ……さあ……」
「謝っても、反省してても、罰則を与えるってこと」
ひい。罰則て。
なんつう女だ。
などということは、口が裂けても言えない。
「それで僕は……何をしたら宜しいのでしょうか、楓サン」
「うん、どうしよっか?」
「決めてないんかい!」
という昂一のツッコミをよそに、彼女は黒板の上にある時計を見上げ、やば、と呟く。
「もう授業始まってから5分経ってるじゃん!私クラス委員だから先行くよ?昂一も2分以内に来てね!でないと、まあ、アレだから」
アレって何だ!
という2回目のツッコミをする暇もなく、彼女は走って行ってしまった。
というか、2分とは。ここから、今授業が行われているLL教室までは、全速力で走って、ジャスト2分。
つまり死ぬ気で走れってことか。
とりあえず、“アレ”が何なのか分からなくて怖い昂一は、急いで教科書一式を取り揃えて、廊下をダッシュするのだった。
頭の中では、『雌って生き物は厄介だな』という、オヤジ臭いぼやきが聞こえた。
彼女に脅迫された2限目を経て、放課後。
例の“不慮の事故”により、部活を続けることが出来なくなってしまった昂一は、要するに帰宅部。
このクソ狭い駐輪場で何やらストレッチをしている空手道部の間を通り抜けなければ、目的のボロいママチャリには近づけない。気まずい。
大体、昂一も楓も、家が近くて空手もまあそこそこ強いからこの高校を選んだ訳だが、どちらかというと進学校であるこの高校には、十分な設備がない。そのため、武道場も他の部活動と譲り合って使わなければならず、こういう面倒臭い事態が発生する。
何でこんな気分にならなくてはいけないのか。そもそも、
(ホントは部活辞めたのだって、精神的理由でも、経済的理由でもないんだが)
俯いたまま、掛け声を掛けてストレッチをする部員、つまりかつてのチームメイトの中を通過しようとする昂一に、心の中の“声”が、語りかける。
『ハッ。何を今更』
(お前は黙ってろ)
『全く、人間はすぐ感傷に浸る。現状ではどうしようもないことを、悔やむ。短い命のくせに、無駄なことばかりしやがる』
(……バカにしやがって。誰のおかげで生きてられるんだ)
昂一は、脳内の“声”に、低く抑えたトーンで話しかけた。しかし、“彼”は、そんな昂一を笑った。
そして、こう述べる。
『……ハッ。全く同じ言葉を、お前に返してやろう』
その声に、昂一の心は、ずきりと痛んだ。
誰のお陰で生きていられるのか。
“彼”がいなければ、自分は―?
「あれ?昂一ぃ?今日はもう帰り〜?」
沈鬱した思考の中に割って入った明るい声は―
思った通り、楓のものだった。
空手道部の女子主将である彼女の発言に、皆が皆耳を傾けており、身元がばれたことでより一層気まずくなる。何でおまえはそう、空気が読めないんだ!
「もう、って。特にすること無いっての。今日バイトシフト入ってないから、帰って寝る」
「へぇ。じゃあさ、」
また例の笑み。嫌な予感しかしない。
「昼間の罰則。練習、付き合ってよ」
逃げよう、と思考する前にはもう、がしりと肩を捕まれていた。
練習に付き合うとは、即ち、技を受ける役を受け持て、ということ。
「あ〜……出来れば、怪我のリスクのない罰則にしてほしいんだが」
何故か反射的にホールドアップの姿勢を取ってしまった昂一は、交渉を試みる。
出来れば、怪我をするような真似は、極力避けたいのだ。
そうでないと、
分かってしまうから。
「何で?昂一だから、大丈夫でしょ?」
曲がりなりにもインターハイに出場した男子が、女子に力負けすることはないだろう。例え相手がインターハイ3位だとしても。
しかし、たとえ僅かな青あざであっても、彼にとっては致命的な傷なのだ。
本当に死に至る、という意味の致命傷ではなく。
自らの社会的な存在が、危ぶまれるという意味の致命傷。
だから、昂一は傷つくことを避ける。
それに、これは心の中の“声”との、約束でもあった。
「悪い。まだ、その、体が痛むんだ」
だから彼は、また彼女に嘘を吐く。
そして彼女はまた、哀しい顔をする。
あと何百回、何千回、同じことを繰り返さなければならないのか……
反吐がでる。
いっそのこと、死んでしまうことが出来ればいいのに。
―それが出来るのであれば。
しかし“声の主”は、それを許さないだろうが。
「そっか……そうだよね。そればっかりは仕方ない……か」
楓が、ゆっくりと、昂一の肩に載せた手を下ろし、逆の手で駐輪場を指し示す。
「帰ってよし」
「命令形かよ!」
「嫌なら練習付き合う?急所は外すよ?」
「……。帰らせて頂きます」
うなだれて、すごすごと帰らざるを得ない昂一に、一歩下がって道を空ける部員たち。
……頼むから、注目しないでくれ。何か虚しい。
昂一が去った後も、女子部員が楓に、「罰則って何のことです?」「また、朱野先輩何かやらかしたんですか?」なんて、小声で聞いていた。おい、聞こえてるぞ、そこ。
そんなこんなで、今日も憂鬱な気分で学校を後にし、帰途についた。
「全く…いつまでこんなこと続けりゃいいんだか。いつかボロが出そうだな」
夕方の、住宅街。自転車に乗って帰る昂一の周りには誰も居らず、彼は、声に出して呟く。
そんな独り言とも取れる言葉に、
『いつまでって、そりゃ、お前が死ぬまでだ』
“声”が答え、そして付け足す。
『本当の意味でな』
「本当の意味で、死ぬとき……ねぇ」
一体それはいつなんだか、と、思考の深いところで考える。
“声”の主に悟られぬように。
いつまでこんな茶番を続けなくてはならないのか。
「エマは、いつになったら飽きるんだか」
『あぁ?』
しまった。気づいたら声に出してしまっていた。失態失態。
声の主―“エマ”は、相変わらず乱暴な口調で、その独白に答える。
『少なくとも、俺はもうしばらく居座るつもりだ。お前の周りは、なかなか面白いからな』
「……厄介なこった」
『心外だな。お前だって、面白いから未練があるんだろ?』
エマに指摘されて、どうだろうか、と考える。
何で自分は未だにここにいる?
部活も辞めて、楓との約束も破って……居る意味、あるのかよ。
住宅街を抜けたところにある、商店街を横切る踏切に突き当たる。ちょうど、警報機が鳴り、遮断機が降りてきたところだった。
そう、例えば、そこに居る女の子みたいに、線路の中に立ち尽くしていれば、跡形もなく消えることができるのだろうか。
いや、確か鉄道事故は遺族が莫大な慰謝料を払わなければならなかったんだっけ?
近い遺族とか、居ないけど。
叔父さんとこに請求が行くのか?
そこで、昂一は、自分の思考の中に、妙な単語が混じったことに気がついた。
……ん?
……女の子?
『……昂一。今、前は見るな』
珍しく……いや、本日2回目か?
脳内の声による、命令。
しかし、今度は催促ではなく、制止である。
しかし…まあ、見るなと言われたら見てしまうのが、悲しいかな、人間の性であり。
「なっ……ば、バカな……?」
鳴り響く、警報機。
遮断機と遮断機の間。
人が居てはならない、遮断機が通行を許した時だけ渡ることを許される、線路の真っ只中に、
少女が、立っていた。
『バカが。お前、絶対、』
あの中に行くなよ。
エマが、忠告を終える前に、
昂一は飛び出していた。
踏切の中に。
少女は、自分が踏切の中に取り残されたことに、別段焦りも感じて居らず。
しかし、自殺願望者のように、覚悟を決めた顔でもなく。
ただ、茫洋と、
これから一体何が起きようとしているのか、まるで分からないと言った表情で、
ただ、そこに立ち尽くしていた。
(……間に、合え……!)
歯を食いしばっているので、声は出ない。
ただ、念じる。
遠くの方で、ぷわぁん……という、若干間抜けな電車の警笛が聞こえる。
つづいて、女性の金切り声のような、凄まじいブレーキの音。
それは、まだ遠く……じゃない。気づけば、すぐ近くから。
真っ白なワンピースを来た細身の少女は、こちらの存在に気づいたのか、迫る昂一を見て、
「?」
首を、傾げる。
いや、頼むからこっちじゃなくて電車に気づいてくれ!
そんな昂一の願いも虚しく、少女は相変わらず立ち尽くしたまま―
迫る電車の目前で、昂一に突き飛ばされ―
粗い砂利の上に、どすん、と尻餅をついた。
(間に合っ……)
『てねえよ!バカ!』
僅かに、電車の前面に残っていた昂一の右足が、衝撃を受ける。
「んなっ……!」
辛うじて直撃を免れたものの、たかだか人間が電車の突進に耐えられるわけもなく、
昂一は受け身も取れずに、綺麗な放物線を描きながら数メートル吹っ飛ばされて、砂利の上に背中から落下した。
ややあって、耳障りな音を立てて停止する電車。
車掌が電車から青ざめた顔をして降りてきて、商店街にいた人々も、何事かと、集まってくる。
「……ぐ」
背中を強打して息が詰まったが、何事もなかったかのように上体を起こした昂一に、車掌は若干安堵の表情を見せたが、
(ちょっと、やばいことになったかも)
内心、焦る。
あれだけ派手な吹っ飛び方をしたら、誰もが生存を疑うだろう。
そういう状況を作ってしまうことは、非常にマズい。
『……とりあえず怪我を疑われるより、さっさとこの場から立ち去れ。救急車で運ばれでもしたら敵わん』
エマの囁きで、昂一は我を取り戻した。
まずはここから立ち去るのが先決だが……
昂一は立ち上がり、相変わらず尻もちをついて昂一をぽかんと見つめている少女を見遣る。
何故そんなことをしようと思ったのかは分からない。
気がつくと昂一は、少女の元に駆け寄り、彼女をお姫様抱っこして、
「いや、電車とぶつかったの、俺のカバンだったんで!カバンで良かった!俺ピンピンしてるし!」
と、意味不明極まりない言葉を残し、自転車も乗り捨てたまま、家に向かってひたすらダッシュした。
叫んだ反動で、思わず肺に溜まっていた血を喀血しそうになるが、寸前で堪える。
ここで血なんて吐いたら、即座に病院行きだっての。
周囲から、ざわめきというかどよめきが起こった気がするが、気にしない。
車掌が、「ちょ、ちょっと、君!?」なんて言った気もするが、気にしない。
エマが、『アホ、お前、やめとけ!そいつは、』なんて言ってる気もするが、気にしない。
『そいつはハスタルだ!関わるな!』
……え。
今、何て?
昂一は、古いビルとビルの間の裏路地で、立ち止まった。
エマは、もう一度、ゆっくりと答える。
『オレと同じ、ハスタルだ。触るんじゃない。生命を吸い取られる』
エマ、と同じ、ハスタル?
昂一は、腕の中の少女に目を落とす。
ハスタル。
人間にとっては、未だ未知の生命体。
人間に寄生、いや憑依し、宿主を転々と変えながら、何百年も生きてきた、生命体。
実体は持たない。ハスタルに憑依した人間だけが、その姿を認識できる。
ハスタルは、人間に憑依しないと、24時間ほどしか生きることができないが、
彼らが憑依するのは、厳密に言えば、人間ではない。
人間の、死体。
死した人間の魂を半分喰らい、その死体にもう一度宿ることによって、
一度死んだはずの人間は、ハスタルと共存しながら、生きる。
「つまり―」
かつてエマから教えられたハスタルに関する知識を呼び起こし、昂一の腕が震える。
「この女の子は、俺と同じ、」
その言葉を口にすることがとても恐ろしいことのように、
「死んだ人間に、ハスタルが憑いた……モノ、だってことか?」
恐る恐る……自らの中に住まう、生命体に、訊く。
『……違う』
しかし、彼はそれを否定する。
『ハスタルに憑かれた人間じゃない。こいつ自体が―ハスタルだと言っている』
それは、想像していたよりも、もっと衝撃的な答えであった。




