ありがとう、私の宝物
王子サマの部屋に戻ると彼はもう起きてはおらず、ベッドに横になっていた。
扉を閉める音で目を開けたので、眠っていたわけではないらしい。それでも横になっているってことは、やはり起きてるのがつらいってことだ。
「この弱虫」
ベッドに近づいて、両手を腰に当てながら俺がそう言うと、王子サマは小さく「ごめん」と言った。
「君をね、いつまでも独占してるわけにはいかないでしょう?」
悲しい瞳で王子サマが弁解する。
こんなに寂しそうにするのに、なんで行くな、って言えないんだろう。この人は。
「あんたなら俺一人くらいここにいさせることできるんじゃねえの? 何たって王子サマなんだから」
言っても栓のないことを、これみよがしに言ってみる。
「だめだよ。君はちゃんとした使命があるのだもの。それに、『王子』なんて名前だけの、忘れられた人間だよ、私は」
自嘲気味に彼は呟く。その内容の、なんて悲しいことか。
「嘘だ。俺が知ってるし、書記官様も知ってるだろ。カレンも知ってたじゃないか。最近じゃ厨房の下男や料理人も知ってるぞ。よく差し入れくれるもんな」
それからカレンの部下も覚えただろうし、側仕えの侍女、もちろん家族だってちゃんと知ってるはずだし……と、指折り数えていると、いつのまにか王子サマが微笑んでいた。
俺は数えるのをやめてその顔を見下ろす。
「そうだね。君が連れて来てくれた。カレンも、厨房の人たちも」
俺は黙りこんだ。
「君はね、本当に私にとって、宝物なんだよ。私が欲しかったものを、みんな持って来てくれた」
言いながら王子サマは窓の外へ視線をやった。
冷たい風が、かろうじてくっついている葉を吹き飛ばそうとしている。朽ち色に染まった葉は必死に枝にしがみついてるみたいだ。
「庭園で初めて会ったときのことを覚えてるかな?」
王子サマがぼそっと言った。
俺は寝台脇の椅子に座りながら、「うん」とだけ答えた。王子サマは向うへ顔を向けているので、いまどんな顔をしているのかわからなかった。
「君は咳きこんだ私にしがみついて、死ぬな、って言ったんだ」
「……うん」
あのとき王子サマは「嬉しかった」と言った。なぜだかわからなかったけど。
「私の病はね、君が思ってる以上に重い。あのときみたいに咳きこんで苦しくて、誰もいなくて怖い思いを何度もしてきた。死がいつもすぐ隣にいるみたいで、眠れないこともあった」
淡々と王子サマはいままで語ったことのない、自分の本音を話していた。
俺は膝の上で両手を握り締めた。
「………ずっと誰かに『死なないで』って言って欲しかった。私が生きていることを、誰でもいいから望んで欲しかった。一人でもそう言ってくれる人がいれば、私は生きられると思ったんだ」
王子サマがこっちを向く。その瞳が、うっすらと濡れていた。
横になった王子サマは、すごく痩せて見えて、出会った頃よりも儚げだった。白い顔はますます白くなった。
「でもこんな歳になるまでそんな人は現れなくて、誰かに生きていて欲しいと望まれることが、どれだけ貴重で難しいことなのかよくわかった。部屋に閉じこもりっきりの私を知る人なんてほとんどいなかったから、当たり前のことなんだけどね」
一言も喋らない俺に、王子サマはそれでも優しく微笑みながら語りかけてきた。
「そしたらね、ある朝君が現れて、私の欲しかった言葉をいともあっさりと叫んでくれたんだよ」
ふふ、と王子サマは思いだし笑いをした。俺も思いだして、なんだか恥ずかしくなった。
「だって、あんたがいまにも死にそうに見えたんだよ!」
ようやく文句をたれると、王子サマは嬉しそうに「そうだね」と言った。
「だから、すごく嬉しかったんだ。十数年も求めて身内からさえ得られなかったものが、赤の他人の出会ったばかりの少年からもらえた。こんなに簡単なことだったのかって、そのときすごくいままでの自分を思ったら可笑しくなってしまった」
ああ、だから笑いだしたのか。
あのとき俺は王子サマの気が触れたのかと思った。なんせ突然笑いだすんだもんな。
「俺はびっくりしたぞ。イカレたのかと思って」
「それはすまなかったね。あのときほど幸せだと思ったことは無くて」
くすくすと王子サマは笑いつづけた。その姿は穏やかなのに、俺の心はだんだん不安に蝕まれていった。
どうして王子サマはいま頃、こんな話をするんだろう。
笑いながらどこか寂しい感じがするのは、なんで?
「………ここは私が生まれた場所なんだよ、私の宝物」
天井を見上げながら、王子サマが急に呟いた。
「……え?」
その内容に、俺は驚く。
王子サマは十三番目だけれど、ちゃんと王子として認知されているはずだ。でもその彼が生まれたここは、あまりにも下級の者たちが生活する区域だ。
「私の母は、侍女ですらない厨房の下働きだった。いまの国王が偶然見かけて、気まぐれに愛したんだ。私が生まれてすぐ、彼女は亡くなったらしい。数年して、王子と認知された」
幸運にも、国王はちゃんと母のことを覚えていてくれたみたいでね。
かすれた呟きが、空中に溶けて消えた。そこには父と言う存在への思慕は無かった。
たぶん、認知しただけできちんと会いに来たこともないのかもしれない。彼が言うとおり、『王子』とは名前だけなのかもしれない。
「王宮の方に呼ばれることも無かったけれど、逆にそれでよかったと思ってる。母の思い出の残る場所で暮らせたんだから。そして君に会えたんだからね」
にっと笑う王子サマを、俺は正視できなかった。
なぜか後から後から涙があふれてきて、まともに顔を向けていられなかったのだ。
「なんかっ……ノロケみたいで恥ずかしいぞ! お前っ」
やっとのことでそれだけ言う。
ベッドの上で、王子サマは苦笑したみたいだ。
「………私の宝物、そんな私につきあってくれてありがとう。君のお陰で私は毎日が楽しいんだよ。明日が楽しみで仕方がなくなる。こんな日々がくるなんて、思ってもいなかった」
手の甲でごしごしと顔を拭って、俺は呟いた。
「やめろよっ……」
そんなこと言うなよ! まるでお別れみたいじゃんか!
「だから、あと少しだけ私の宝物でいておくれね」
「うるさいよ! 黙れッたら! 俺はずっとあんたの宝物でいてやるよ! だからそんなこと言うなよ!」
ばん、とベッドに両手をたたきつける。
わずかに振動が伝わって、王子サマの綺麗な銀髪が跳ねた。
「明日は、何をするんだ?」
しゃくりあげるような情けない声で俺がそう尋ねると、王子サマは少し考えてから答えた。
「……そうだね、庭園の奥のほうに、綺麗なカメリアの木が生えてるんだ。もしかしたらもう咲いているかもしれない。それを見に行こうか」
「わかった。見に行く」
俺がしっかりと頷くと、王子サマはそれが可笑しかったのか声をあげて笑った。
「ふふ。それじゃあその次の日は、さらにその奥に植わっているスノードロップを見に行こう。まだ花をつけるには早いけれど、小さなつぼみができはじめている頃だ。とてもかわいらしいよ」
「じゃあ、スノードロップも見に行こう」
そう言うと、さっきよりも大きく王子サマは笑った。
「ならばスノードロップの次はリナリアだね。庭園の中央に、たくさんリナリアが植えられている。春になると数えきれないほど様々な色の花を、庭一面に咲かせる。あれは感動的だよ」
「よし、春はリナリアだ」
断言すると王子サマはふきだした。
俺は至極真面目に答えていたつもりなのだが、王子サマには可笑しくて仕方がないらしい。
「あはは、ジオ。それじゃあ君はいつ家に帰るんだい?」
お腹を抱えるようにして王子サマは笑っている。
さっきより元気な姿に、俺は安堵しつつ、はっきりと答えた。
「帰るけどまた来るよ。王子サマとの約束、ちゃんと果たすために」
別に二度と来ちゃいけないわけじゃない。
来るなとも言われていない。ヘイラー家の後を継いだって、城へ来られなくなるわけじゃないんだから。
「ジオール……」
さっきまで笑っていた王子サマが、ひどく驚いた顔をしてこちらを凝視していた。
「なんだよ。そんなびっくりした顔して。まさか俺が家に帰ったら、一生のお別れだとでも思ってたわけ?」
聞き返すとなんだか図星だったみたいで、王子サマはまごついた。
「冷たい奴だなー。俺はそんなに薄情じゃねえぞ」
ぶうぶうと文句を言ってやると、王子サマが布団の中から右手をだして、自分の目元を押さえた。
「なんだよ泣いてんの? 感動しちゃった?」
ふざけながらからかってやると、真面目にも王子サマは何度も何度も頷いた。
それからかすれた声で、「ありがとう」と言った。
次の日、王子サマは約束どおりカメリアを見に行って、花が咲いているのに喜んで、ひと房だけ手折って部屋へ持ち帰った。寒さが響いたのかその後少し寝こんだので、その日はもうずっと部屋で過ごした。
その次の日から微熱がつづいたので、俺だけスノードロップを見に行って、わずかにふくらんだつぼみのことを話して聞かせた。
自分も早く見たいといって王子サマが寝台から出ようとするので、俺はその度に押さえつけることになった。そうしないと担当医にあとで俺が叱られるのだ。
それから雪が降りはじめ、世界は日々、白銀に染めあげられていった。
城も町も真っ白に閉ざされ、人々の吐く息さえも凍るような真冬のある日。王子サマはリナリアの前にスノードロップを見ることもなく―――静かに逝った。
俺が最後に聞いた彼の言葉は、いつもどおりの「ありがとう、私の宝物」だ。
外へ出られなくなった王子サマのために、まだ花をつけていないスノードロップを小さな鉢に移して、部屋まで持って行ってやった。子供みたいに目を輝かせて喜び、得意顔の俺に王子サマが言ったのだ。
その頃すでに俺はヘイラー家に戻っていて、暇を見つけては城へ王子サマを訪ねて遊びに行っていた。
だから彼の死を知ったのは、家へ戻ってから、エルランドが遣わせてくれた早馬の知らせを聞いてからだった。
臨終には立ち会えなかったけれど、エルランドの話だと、そのとき父である国王と十二人の兄姉たち全員が集まって、彼の最期を看取ったそうだ。
寂しがり屋だったから、たぶんすごく嬉しかっただろうと思う。
葬儀は本人の希望から慎ましやかに行なわれて、それでも葬列には王子サマが暮らしてた区域の人間たちがこぞって参列したらしく、国王は息子の慕われように図らずも涙した。
俺は綺麗に清められた王子サマに白いカメリアの花を添えながら、よかったな、と心の中で呟いた。
あんた人気者だよ。こんなに人が集まってる。俺のじいちゃんのときより多いくらいだ。
棺を運びながら、辺りには鎮魂歌が響きわたる。
亡き人を想う歌詞を口ずさみつつ、俺は王子サマとの日々を回想する。
『私の宝物』
『私の宝物』
あの人が何度も口にした言葉を、そっと唇にのせてみる。
やがてそれは俺の言葉となって身体へ染みこむ。
王子サマとの思い出は、いまや俺にとっての宝物になっていて、
彼の言葉一つ一つが、
彼の表情それぞれが、
懐かしく、いとおしく、大切な大切なものになった。
『たくさん友達を作りなさい。きっと自分の宝物になるはずだから』
日々、王子サマの言葉を思いだす。
それがいま俺に出来る唯一のことで、
――…ねえ、あんたにとって俺は、いい友達だったと思ってのいいかな?
瞼の裏に浮かぶのは、いつも穏やかな微笑み顔だ。
【おわり】
読んでいただきありがとうございました。