第1話 起動
担がれたまま、ずるずると引きずられていく感覚は、不快だった。しかし、一度目覚めさせられてしまった怒りの前では、その感覚は遠く、淡いものだった。どこに連れて行かれるのかもわからず、ただ身を任せる。そもそも、目を開けるだけの気力すら残されてはいないのだ。抗うすべはない。
「意識はある?」
これで何度目になるかもわからないが、フラクリアがラウドの体をゆすり、声をかけてきた。かすれたうめき声をもって返答とする。
「そう、ならいいわ。」
しかし、その声に決してラウドの体を案じるような感情は感じられなかった。あるのはただ、憐れみだけ。それが妙に楽だった。
眠りに落ちようとする意識は、一定の間隔でやってくる揺れによって妨げられ続けていた。突如として、揺れが止む。
「ついたわ。少し待っていなさい。食べ物を取ってくるから。」
柔らかいものの上に横たえられ、ラウドはようやく泥のように深く、不快な眠りへと沈んでいった。
暗闇の中で、ラウドはただ立っていた。動くこともできず、苛立ちで体が内側から焼けていくようだった。
(不快だ。消えてくれ。)
妻の声と、医師の妻の死を告げる声が、延々と響いていた。耳を塞ごうにも、耳も手も存在しない。この暗闇から抜け出したかった。しかし、ここが夢であり、自分の意志で抜け出すことができるはずもないということは、ラウドにもわかっていた。
通常であれば感じるはずの不安も、恐怖も、今はただやり場のない怒りへと変換されるだけだった。
その時、額に確かな冷たい感触を覚え、彼の意識は強制的に現実へと引き戻される。
「ここは...」
嫌に温かい汗が頬を滑り落ちる。見慣れない天井。そして、
「目は覚めた?うなされていたようだったけれど。」
ラウドを冷たく見下ろす、フラクリア。彼女の手には、まだ水の滴る布が握られていた。あの悪夢から引きずり出してくれたのは彼女なのだ、と、瞬時に理解する。
「悪い、助かった...」
「あら、礼くらいは言えるのね。思ったよりもきちんとした人間で助かるわ。」
瀕死の男に向けて、棘のある言葉をぶつけてくるフラクリア。しかし、その冷たさが男の怒りで燃える心に冷静な判断を生むだけの余裕を与えていることは確かだった。
「ほら、用意してきたから食べなさい。あなたに死なれると、死体処理が面倒だわ。」
「連れてきたのは、お前じゃないのか...」
ラウドが本当に自分の命を救う気があるのか、という疑問を浮かべ始めるほどに、その態度は冷たかった。呆けて開けたままにしていた口に、パンが突っ込まれる。
「食べなさい。今はとにかくその体を治すこと。」
「ああ、わかったよ...」
(こいつと話すと疲れるな。)
ラウドは反抗せず、水分のないぱさぱさのパンを飲み込んだ。
◇
療養生活は、彼自身が経験した人生の中で最も退屈なものだった。ラウドが運び込まれたのは、どうやらフラクリアの家だったようで、彼女はラウドにベットを占領されたために、いつも仕事用の大きな椅子に座って寝ていた。
昼の間はどこかへと出かけていき、日が沈む頃になると帰ってくる。彼女の部屋には多くの本があったが、その殆どが専門書ばかりで、ラウドには理解できないものだった。ただ、並んだ本の背表紙を眺める日々。そんな変化のない繰り返しの中で、ラウドの体は確かに回復していった。
やがて、彼が支えなしでも普通に歩けるようになった頃。フラクリアはラウドに外出を許可した。散々現在の社会については彼女の口から説明を受けていたが、百聞は一見に如かず。実際にその異常さを見てみるのが一番だろう、というのが彼女の意見だった。
未だおぼつかない足取りで、ラウドは見知らぬ街道へ踏み出した。
覚悟をしてはいたものの、やはりそこに広がる世界はラウドの知るものとはかけ離れていた。無表情で行き交う人々。店の中で機械的にものを籠に入れていく人。必要最低限の会話しか取らないせいで、街特有の喧騒もなく、苛立ちに任せて蹴り飛ばした石が鉄柵に当たり、虚ろに響いた。
そんなラウドを、人々は興味を示すでもなく、ただ異常者として避けていった。
それを見て、理解した。いくらラウドが怒ろうとも、この世界では意味をなさない。世界を変えなければ、その怒りは誰にも認められないままなのだ、と。
歩き続けているうちに、いつの間にか薄暗い路地裏へと迷い込んでいた。かつてのラウドならば、薄気味悪い、と言って立ち入ろうとしなかっただろう。しかし、今となっては人のいないここが、彼にとっては心の休まる場所になっていた。
特に目的もなく、歩き続けること数分。ラウドは違和感を感じ、足を止めた。
「誰だ。」
背後の暗闇に問いかける。今となっては聞こえないが、先程、確かに自分以外の足音を捉えた。ラウド自身の足音に被せるようにして、巧妙に尾行してきていた。いつからつけられていたのかもわからない。
「フラクリアではないな。あいつは尾行などという小狡い真似はしないだろう。...お前は、誰だ?」
尾行者は、暫くの間沈黙を保っていた。ラウドとその尾行者以外に人のいない路地裏には、ただ換気扇の音が響いていた。その風はぬるく、油の匂いがして不快だった。
「武器は持っていない。お前を攻撃するつもりもない。ただ、話したいだけだ。」
ラウドのその言葉に、尾行者の気配が少し揺らいだ。しかし、依然として動きはない。その僅かな呼吸の音がなければ、本当に存在するのか、疑いすら抱いただろう。
息の詰まるような時間の後、尾行者は静かに姿を見せた。
男だった。その目は鋭く、暗い光をたたえており、青灰色の髪は目にかかっていた。そして、黒いコートを羽織り、その体は背景の闇にうまく溶け込んでいた。
一目見て、理解した。この男もまた、ラウドと同じように感情を持つ人間であるということを。
「俺のねぐらのそばを人が通るなど、おかしいと思った。お前も同じか。ならわかるだろう?この腐りきった社会をぶち壊したい、この思いが。」
男は低い声で吐き捨てた。その声に込められた感情に、ラウドは思わず身震いをせずにはいられなかった。
「俺はラウド。人類の怒りを押し付けられた者だ。お前の感情は何だ?」
男は心底嫌そうに口元を歪めたが、やがて諦めたように言った。
「俺はジグ。人類の憎悪のはけ口にされた被害者だ。」
薄暗い路地裏で、似て非なる2つの感情が衝突する。




