序章 感情なき世界
男の記憶には、光があった。猛烈な勢いで自分と、妻へと迫る光。妻が、何かを叫んだ気がした。それが耳に届くよりも早く。その直後、衝撃とともに体が宙に浮いていた。ただ、それだけ。それ以外には、何もなかった。
そして...
「ここは...どこだ...」
見慣れない天井。重く、動かすことすらままならない体。全てが異常である。苛立ちが、じりじりと炎のように体を内側から焼き始める。扉の開く音が聞こえ、程なく無表情の女が男の顔を覗き込み、そして、言った。
「目が覚めたんですね。急なことで混乱しているかもしれませんが、あなたは事故に遭われたんですよ。そのせいで何年も眠っていたんです。」
その言葉で、合点がいった。
(ああ、そうか。あの光は車のライトか。)
よくよく思い返してみれば、男は家へ向かって歩いていたのだ。その途中で車に轢かれたというわけだ。怒りが込み上げてきたが、それよりも先に気にするべきことがあった。自分を突き飛ばした妻の安否である。彼女が守ってくれなければ、今頃男は死んでいたかもしれないのだ。
「妻は...妻は無事ですか。」
女は、表情も変えずに答えた。
「奥様はお亡くなりになりました。お気の毒です。」
その言葉に、一切の同情も、悲しみも、ましてや悔やむ気持ちなど存在しなかった。
「...は?」
それが男に与えられた、最初の怒りの火種だった。
世界に住む人類は、労働の効率を求め、感情を排除することを考えついた。そのために感情を摘出する技術が生まれ、そして、「感情なき世界」は実現した。これらの出来事は、全て男の眠っていた2年半の間に起こった出来事である。
しかし、男は怒りに燃えていた。止まることなく流れ続ける涙も、怒りによる熱のせいでその存在すら認知できない。
あなたは人類の怒りを注入されたのだ、と男の主治医は言った。摘出した感情はやり場が必要だったのだと。特に怒りなどの負の感情は空気中に解き放つには危険すぎたため、人に直接注入したのだというのだ。その言葉に嘘がないということは、他でもない男が一番よくわかっていた。心の大半が、煮えたぎる怒りに塗りつぶされている。妻を失った悲しみも、これからどうして生きていくかという不安も、その怒りの前ではどうでも良かった。そして、その怒りは男を病院という檻から抜け出すよう導いた。
道行く人々の感情なき異物を見る視線にさらされながら、男はただ歩いた。リハビリもろくに受けていないせいで、一歩歩いてはうずくまり、再び長い時間をかけて立ち上がる。
そうして時間をかけてまでたどり着いた目的地を目の当たりにして、男は拳を地面に叩きつけた。
愛する妻と二人で暮らした、男の家。そこはすでに、雑草のはびこる廃墟と化していた。
絶叫が、男の喉からほとばしる。
妻を返せ、と。俺に怒りを押し付けるな、と。そして...
この理不尽な世界など、滅んでしまえばいいのだ、と。
◇
足音が、廃屋に響いた。その道に詳しいものであれば、音の主を見なくともその音の正体がヒールが腐った木の表面をえぐる音だということが判っただろう。
足音は近づき、そして止まった。
「貴方が噂の、怒りを注入された被害者ね。」
その声に、男は冷えた瞼を持ち上げた。すでに数日が経過している。飲まず食わずで隙間風の吹く廃屋で眠り、男は生命の危機に瀕していた。食事を取ろうにも、温かな場所を探そうにも、リハビリもせずに歩いてきたことが祟って、動くことすらできないのだ。
ぼやけて焦点の合わない視界に、女の顔が割り込んでくる。その瞳には、男を見下すかのような憐れみの色があった。
「お前、は...感情がある、のか...」
「ええ、その通り。私はフラクリア・レイエンス。憐憫を押し付けられた哀れな女よ。...貴方は?」
男はその声を聞きながら、再び目を閉じた。
「どうでも、いい...俺はもう死ぬ。構わないでくれ...」
しかし、フラクリアは立ち去らなかった。それどころか、男の口に水を含ませてくる。むせ返る男をいたわるわけでもなく、彼女は再び口を開く。
「どうでもいい、なんて嘘でしょう。貴方は憤怒。自身の理不尽な状況に怒り、全てを壊したいと願ったはず。違うかしら?それとも、その事実にすら背を向ける、哀れな負け犬なの?」
男は沈黙した。
「...まあ、いいわ。私から言えるのは一つだけ。地べたに伏して死を待つのではなく、目的を持って生きなさい。そして、変えるの。壊すのではなく、変革をもたらす。貴方の怒りが必要よ。この世界で真の意味で怒ることができるのは、貴方しかいないのだから。それができないのなら...がっかりね。あなたの存在理由を、私は見つけることができない。」
その誘いは、男の命とともに燃え尽きようとしていたその怒りの炎を、再び燃え上がらせた。男の目が、怒りという名の熱を帯びてフラクリアを見つめる。
「改めて聞くわ。...貴方は、何?」
「...ラウド。ラウド・ヴォレアス。」
乾いた声が、静まり返った廃屋の空気を揺らした。地面に無様に伏したままの男と、毅然とした態度でそれを見下ろす女。歴史の始まりにしてはあまりにも不可思議な光景であることは間違いない。しかし、社会という水面に波紋を立てる石は、確かにここで投げ込まれたのだ。
誰も見向きもしない、朽ち果てた廃屋にて。世界を動かす変動の歯車が廻り始める。




