管他所の区画の怪物が、うちに来た⑤
隔壁の外で、【渇望の人形遣い】が休んでいるらしい。
足音は止まったまま。移動する気配がない。ドアの前で座り込んでいるのか。
端末で戸波さんに連絡。
<脱走個体がうちの隔壁の前にいます。動きません。>
<捕獲班が向かっていますが、到着まで40分かかります。>
「40分」
<第九区画から脱走した時に、管理者が重傷を負いました。そのため対応が混乱しています。>
第九区画の管理者が重傷……操られたのか?
<【渇望の人形遣い】は、管理者を操って隔壁を自分で開けさせました。管理者は抵抗しようとしましたが、身体が言うことを聞かず、自分の手で扉を開けてしまった。精神的なダメージも大きいようです。>
自分の意志に反して、自分の身体が脱走犯を逃がす。想像するだけで気分が悪い。
しかし今、そいつは俺たちの扉の前にいる。
インターホンからまたメッセージ。
<ねえ、中に誰かいるでしょう? 分かるんですよ。息遣いが聞こえます。五人と、あと一人。一人だけ人間ですね?>
壁越しに息遣いが分かるのか。
<その一人の人間さん。ちょっとだけ扉の前に来てくれませんか? お話がしたいだけなんです。>
「お話がしたいだけ」。第九区画の管理者にも同じことを言ったのだろうか。
返信は打たなかった。
しかし、次のメッセージが来た。
<無視ですか。残念。じゃあ、こっちから少しだけ。>
<壁の向こうの五人。あなたたちの檻、ちょっとだけ揺らしてあげましょうか? D-07のあの子がやってるみたいに。わたしにもできますよ。他人の身体を操るのと、人型制御を揺らすのは、本質的には同じですから。>
人型制御を揺らせる。こいつも。
「ノクス」
「分かってる」
ノクスが毛布を脱いだ。二回目。本日二回目の毛布脱ぎ。非常時の回数が増えている。
ノクスの目が扉の方向を見据えた。
「来るなら来い。あたしの区画で、好き勝手やらせないから」
忘却の波が、薄く、リビングスペースに広がった。D-07の時のような攻撃的な波ではない。防御の膜。ノクスが、この区画の空間を忘却の波で覆い、外部からの干渉を遮断しようとしている。
空気が変わった。リビングスペースが、ほんの少しだけ「軽く」なった。外からの圧力が、一枚の膜で減衰されている。
「ノクス、大丈夫か」
「……めんどいけど、こいつはD-07より弱い。信号が薄い。消すのは簡単」
インターホンからメッセージ。
<あら。遮断された。中に強い子がいますね。忘却系? めずらしい。>
<まあいいです。40分くらいで捕まえに来るんでしょう? 知ってますよ。でもその前に、一つだけ教えてあげます。>
<D-07のあの子、最近おとなしいでしょう? 封印を補修してるから? 違いますよ。おとなしいんじゃなくて、待ってるんです。>
待っている……?
<何を待ってるかは、自分で考えてくださいね。ヒントは、工事。>
工事。封印再構築工事。
<じゃあ、わたしはもう行きますね。チョコレートもらえなかったの、残念です。>
足音が聞こえた。階段を降りていく音。117階から、さらに下へ。
去った。
「……」
リビングスペースに、静寂が戻った。
ノクスの忘却の膜が解ける。空気が元に戻る。
「行ったみたい」
カイムが目を開けた。
「もう聞こえない。下に降りていった」
下へ。第九区画は地下98階だから、下に行く意味がない。脱走して、わざわざ下に降りている。何をしに行くのか。
――深層に、向かっている?
端末で戸波さんに連絡。
<脱走個体、うちの前を通過して下に降りました。深層に向かっている可能性があります。>
返信。
<……それは非常にまずい。深層対応部署に転送します。>
あの変位個体が言い残した言葉が引っかかる。
「待ってる」。「ヒントは工事」。
D-07の封印再構築工事。封印を強化するための工事。しかし、工事中は封印を一部解除して作業する場面もあるのではないか。解除した瞬間に、中から何かが出てきたら。
いや、それは氷室たちが対策しているはずだ。プロだ。そんな穴は塞いでいるだろう。
そうだろう?
端末にもう一件、メッセージが来た。氷室から。
<灰嶋さん、緊急連絡です。脱走した008が深層に向かっている情報を受け取りました。来週予定していた封印の部分解除作業を延期します。008が確保されるまで工事は中断。>
工事中断。封印の部分解除作業が、脱走個体の確保まで延期。
つまり、もし脱走個体が確保されなければ、工事は止まったまま。工事が止まれば、三ヶ月の評価期間中にD-07の封印再構築が完了しない可能性がある。
完了しなければ、分散移管が復活する。
「……」
あいつが言った「ヒントは工事」の意味が、少しだけ見えた気がした。
脱走。妨害。工事中断。封印未完成。分散移管。人型制御の不安定化。真の姿の解放。D-07の封印破壊。
あいつの脱走は偶然じゃない。D-07と連動している。
俺の手には余る話だ。しかし、俺の区画に被害が来る以上、手を引くわけにもいかない。
「戸波さん」
端末に打った。
<脱走個体の確保に、何か手伝えることはありますか。>
返信。
<……灰嶋くん、あなたの管轄は第七区画です。脱走個体の確保は捕獲班の仕事です。あなたの仕事は、いつも通り、五人の管理を続けることです。>
いつも通り。管理者マニュアル第十二項。いつも通りやること。下から何が来ても。横から何が来ても。
「了解です」




