管他所の区画の怪物が、うちに来た④
七分後。
カイムの計算通り、非常階段の方角から足音が聞こえた。
隔壁扉の向こう。遠い。しかし、地下の静けさの中では、階段を降りる足音が壁を伝ってくる。
軽い足音だ。走っていない。歩いている。急いでいない。
脱走した変位個体は、逃走しているのではなく、散歩しているような足取りで降りてきている。
端末に追跡情報が更新された。
<当該個体、現在地下114階。非常階段を下降中。速度一定。>
114階。あと三階。
リビングスペースは隔壁扉から二つ角を曲がった先にある。距離にして40メートル以上。壁越しの干渉が至近距離限定なら、ここまでは届かないはずだ。
足音が近づいてくる。115階。116階。
そして117階。
足音が止まった。
隔壁扉の前で、止まった。
静寂。
リビングスペースにいる全員が、息を止めた。ノクスの金色の瞳が扉の方向を睨んでいる。セラが両腕を自分の身体に巻きつけている。メルトがノートを胸に抱えている。ラグナが唇を噛んでいる。カイムが目を閉じている。
コン、コン。
隔壁扉を叩く音。ノックだ。
脱走した変位個体が、隔壁扉をノックしている。
コン、コン、コン。
丁寧に三回。来訪者のマナーとしては正しいが、脱走犯のやることではない。
「……」
端末が震えた。
テキストメッセージ。差出人は――第七区画の隔壁扉のインターホンだ。外部の訪問者が隔壁のパネルからテキストを送れるらしい。知らなかった。
<こんにちは。第九区画の八番です。道に迷いました。入れてもらえませんか?>
道に迷った。脱走しておいて、道に迷った?
<追伸。お腹が空きました。何か食べるものはありますか?>
食べるものを要求している。脱走犯が。
<追追伸。チョコレートがあると嬉しいです。>
チョコレート。
ノクスが毛布を被った。
「――入れないで。あたしのチョコがなくなる」
「入れませんよ。通達で接触禁止です」
端末で返信した。
<当区画は閉鎖中です。通過してください。>
返信。
<通過したいのですが、足が疲れました。少しだけ休ませてもらえませんか? 椅子があれば。あと、できればチョコレート。>
こいつ、ずっとチョコを要求してるぞ。
「ノクスの同類か?」
「一緒にしないで」
ノクスが本気で怒った。毛布の中から殺気が漏れている。忘却の魔王の殺気。半径30メートルの記憶が少し薄くなった。
「すみません。撤回します」




